あえてジジ臭いネット論
(2011年8月19日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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最近、近所の散歩コースで猫の家族と出会う。母と子ども4頭。3頭は母と同じキジトラなのだが、一頭だけが白い。この白い子猫がまた人懐っこいのだけれど、本当に可愛いのだ。
で、書きたいことは全然違うんだけど。
いささか旧聞に属するが(←書いてみるとかなり古くさいな、しかし)、女子サッカーのメンバーの1人の発言がツイッターで流れたことがあった。関わっていたのは大学生だった。adidasの店員の一件とか、他にもサッカー絡みのことはなぜか多いんだけど、こういうニュースを見るたびに思うことがある。
「ああ、若い人もやっぱりマスコミが好きなんだな」
と感じるのだ。たしかに若い人のテレビ視聴時間は短くなっているし、新聞も読まない。それでネットは好きなんだろうけれど、志向性の底には「マスコミ的なモノ」があるように思っている。つまり
・一対多の情報発信で
・「より多くの人に」という量的志向で
・同時性を追求する
と考えると、twitterはマスコミ的な欲求を満たすことはたしかだ。
そもそもインターネットが登場した時は「趣味・嗜好の似たような人が濃密な話ができて、時間拘束が少ない」というのがマスメディアに比べての特性と言われた。初期の掲示板なども、いろいろユニークなものがあったし、面白い個人ページもあった。たとえば、ここなんか結構好きだった。
一方ブログが普及したころから、個人HPはどんどん停滞して、SNSの発達とともに掲示板も減っていく。そこにタレントなんかも参入したあたりから、マスメディア化が着々と進んできたんだろう。


いまの大学生などは、ネットの昔を知らない。そして彼らの中ではPCよりも携帯、そしてスマートフォンがネット接続の主流になってきた。で、その結果ネットの世界はとても慌ただしいものになっちゃったな、というのが僕なんかのジジ臭い感覚である。
リアルタイムの中で「いま面白いのは何?」というのが、ネット的な世界ということになっていることはたしかだ。それに比べると、僕のネットへの接し方はかなり「読書的」なんだと思う。
仕事上ネットの動向は知らなくてはいけないのだけれども、個人的には「かなり疲れたぞ」という感じになっている。ただ「ネットに疲れた大人のネット」というのはどうも忘れられているようだけど、まだまだいろんな機会があるんじゃないだろうか。
なお、この場合の「大人」は僕を含めて「ジジイ」や「年寄り」と読み替えていただいて構わない。