2012年01月アーカイブ
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橋下徹氏の現在の最大の功績は「文化人の能力」を明らかにしていることだと思う。テレビでの論争もそうなんだけど、その後にこういうダメな文章を残してしまうことで、ますます文化人の底を明らかにしていく。
これはある種の「ろ過プロセス」のようなものだ。ただ、そうやってダメな文化人がとかされた後に、澄んだスープになるのか、実はただの水でした、ということになるのかはわからないんだけど。
「反橋下」という人々が出てくるのは、それはそれで必然だと思うんだけど、じゃあなぜダメなのか。それは、正面から「意見」を言っていないからだと思う。
大雑把にいって「政策がよくない」のか「方法がよくないのか」という二つの切り口があると思うんだけれど、正面から政策の問題に切り込んでいないように見えるのだ。「都構想」や教育委員会の問題だってあるのに、すぐに「方法論」に逃げている。
そして「独裁的」だとかいう言葉になる。そうなのだ。選挙で勝ったということは民主的手続きで政策が支持されたのだから、どうしても文句が言いにくい。そこで手法にケチをつけるしかないのだろう。
しかし、それは実は多くの人々(有権者)の感情を逆なでしていることに気づいていない。そもそも日本人は「自分たちの多数意志」が政治に反映されないことにイラついてきた。かつての中選挙区制では政権が選べず、とりあえず政権を選んでも参院の半端な制度のせいで、前に進まない。
そのフラストレーションが、もっともわかりやすい首長選に向かっている。
つまり「自分たちで選んだ」という人が多数派なのに、「独裁的」「少数派切り捨て」という、「戦後民主主義文学」による批判は多くの人に嫌悪されるだけではないか。
民主主義は、多数が独裁するシステムだ。しかし、それを変えることもまた可能であり、それは有権者の仕事だ。半端な文化人への反発は、彼らがその大事な仕事にケチをつけて「自分たちの意見を聞け」と言っていることにある。だが彼らはそれに気が付かない。
何だか霞ヶ関より前に「文化人村」が解体されていくような気がしている。
■お知らせ:昨日の日経朝刊で新刊「世代論のわな」が紹介されました。詳細はこちらのエントリーで。



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朝起きて、ザーッとwebのサイトを眺めていたら自分の名前が出ていた。常見陽平さんのtwitterなんだけど、どうやら今朝の日経一面コラム「春秋」に新著『世代論のワナ』が取り上げられているということだった。
で、そのままリンクを読んで、結構ビックリ。このコラムなんだけど、殆どが本の紹介みたいになっている。以前、朝日の「天声人語」で僕の著書から「ブランドの定義」が紹介されたことはあったけれど、今回のようなのは珍しいと思う。素直にありがたく感じた。
取り上げられた部分のキーワードは、「自信の相続」だろう。これについては、ちょっと補足しておこうかと思う。
昔の就活では履歴書に親の職業や最終学歴まで記載する欄があった。今は、このようなことはなくて、面接でも家族のことを聞かないことになっている。でも、学生や若手社員とキャリアの話をしていると、知らない間に僕は彼らの親の話を聞いていることが多い。
そこで、改めて若者への親の影響が大きくなっていることに気付いた。
僕らの世代の親は、戦前生まれだ。当然のように価値観の断層がある。就職やキャリアのことでも前提が違う。それに会社員の比率も今より低かった。
今、親子が直面している日本の現実は「共通の壁」のようなものだ。その壁を乗り越えようとする時には、親子間の「世代間連立」が求められる。
就活の問題というと、大学、企業、そして情報会社などにプレイヤーの問題が取り上げられる。しかし、就活に限らず若者の問題を考える時は、まずその家族の影響力が重要だ。
これは、教育関係者と話せば必ずのように一致する。ところが、家族の問題は個別の話になってしまうので、メディアはどうしても「制度」の問題を論じるのである。

>> 日本の「相続力」を考える。の続きを読む



(2012年1月27日)

カテゴリ:キャリアのことも

10年ほど前、まだ学生だった彼が昨秋に起業したというので、食事をした。ささやかだが、お祝いである。いわゆるネット広告界隈の仕事をしているのだが、最初に知り合った時に彼はインターンだった。
就職の相談に乗ったりしつつ、久しぶりの再会だった。年齢でいうと15年ほど下ということになる。考えてみると、この10年あまりに増えた知り合いの殆どは、自分よりもかなり若い人ばかりだ。出会った時は20代前半ということになる。
彼らと話していて思うのだけれど、本当に世代間の壁ってそんなに分厚いのかなと思う。普通に話していて「そうだよね」となることはお互いに多い。
若手が上の世代に対して文句をいうのは、ある種普遍的な話だろう。それでも、多くの組織がうまく行っている時は「世代を超えた連携」というのが当たり前だ。若い人だって、上の世代を単に忌避しているわけではない。むしろ「お手本にしたい上司」へのニーズは多い。スポーツの世界でも、小説などでも「師弟関係」はよく描かれてる。
「タテ社会」という言葉が、何となく束縛性が強いのかもしれないけれど、実は結構楽しいものだったりする。それでも、若い人が会社組織に懐疑的なのは「タテ社会」が嫌なのではなく、閉鎖的な「ハコ社会」に問題を感じていると思うのだ。

>> タテ社会とハコ社会。の続きを読む



(2012年1月24日)

カテゴリ:キャリアのことも

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僕が入社した頃、コンピュータ端末は部屋にあったが、自分のデスクでは鉛筆と原稿だった。それが広告の制作室の風景だった。
入社3年くらいした時に、仕事の関係でラップトップのワープロが入手できたので、それを使うことにした。得意先も喜ぶし、まあ便利だから使い始めたのだけれど、それはかなりの少数派だった。
もう、家庭用ワープロも普及し始めていたので、広告制作の世界のほうがその辺りは頑迷だったのだ。
実際、70名ほどの部門で、僕以外にデスクでワープロを使っている人はもう一人の先輩だけだった。彼はコピーライターだったが、以前から東芝の「ルポ」を愛用しており「僕はルポライターだから」などと言っていたことを覚えている。
その後、僕は転勤してその先輩とは職場が離れた。その後、彼は休職して大学院に行き、僕が研究開発に異動してから一緒にプロジェクトもやった。
そして、やがてその先輩は学究の道に入った。その、何年か後に僕も会社を辞めることになる。
今回の新刊を出す上で、戦後の世代論をひも解く必要があったのだが、そこでお世話になったのが『族の系譜学』という本である。著者は、難波功士さん。四半世紀前の広告会社の制作室で、ワープロを使っていたもう一人の方だ。現在は関西学院の教授である。
その頃、自分たちはたしかに少数派だった。そして、時間が経つと、その少数派は会社を離れて、それでいてまた道が交叉している。やはり、少数派はそれなりの道をそれぞれで歩むのだろか。
いま職場で「少数派」の人は、いろいろと不安を感じるかもしれない。ただ、そのこと自体に焦ることはないのだ。無理やり多数派になることはない。
もちろん、無理やりに少数派になるべきだとも思わない。ただ、多数であることだけに「安心」していても、それは全く「安全」とイコールではない。そして、僕はどうしても「少数派」にシンパシーを感じるのである。
■新刊「世代論のワナ」を出しました。こちらのブログをご覧ください。



年明け早々、「マーケティング」が話題になってしまった。「ステマ」のおかげだ。通販サイトの騒動はネットの中の話だったが、例の「食べログ」のおかげで、妙な市民権を得た。違う、市民権というよりこれは「違法滞在」みたいなものなんじゃないか。そういう手法が「マーケティング」の中の一つというのは変だろう。
「ヤラセ」のような行為は本来「マーケティング」じゃない。そうしたことがステルス”マーケティング”という名になった時点で、マーケティング関係者にとってはえらく迷惑なのだ。
そもそも、マーケティングという言葉自体、世間ではちゃんと理解されていない。今だって「≒広告・プロモーション」だと思っている人はたくさんいる。それでもって、「ステマ」だ。マーケティングは、まあ「売りの仕掛け」であり、さらに「何でもあり」というように思われるのだろうな。
「振り込み詐欺」が「ステルス・トレーディング」だと言い張ったり、「ストーカー」が「ステルス恋愛」ち言い訳したら変じゃないか。それでも「ステマ」という、略称とともに「マーケティング」への誤解が起きるのだろうし、それ自体をどうにかしなくちゃいけないんだと思う。
そういう言葉のこときちんとしないと、痴漢した犯人が「ステルス愛撫」とか言い出しかねないんだから。
■新刊「世代論のワナ」を出しました。こちらのブログをご覧ください。