2012年01月アーカイブ
(2012年1月19日)

カテゴリ:世の中いろいろ
タグ:
184-monkey.jpg

「食べログ」をめぐるトラブルの話って、なんか安易に糾弾できないような気がしてる。
まあヤラセがよろしくないのはともかく、何というかあのサイトを気にしないと思いつつ、気になる自分がいたりするわけで。
それは、ある種の「病」じゃないかと思っている。あえていえば「不安と嫉妬病」とでもいうんだろうか。
食べ物を巡る情報は溢れていて、かつニーズも強い。ただ、誰もが自分の味覚に自信を持っていないのだろう。だから、食の情報なかでも点数化されたりランキングされるものが人気になる。
おいしいと思ったレストランに行った後で、ネットの情報を見る。それは、コンサートや芝居のあとに批評を見ることに似ている。共感できれば、自分の体験はより豊かなものとなっていく。
問題は、そうでない時だ。ここで「やっぱり味のわからないやつが匿名で言いたいこといってるや」と思う人が多数派ならば、食べログだってあんなに見られないだろう。そうなると恐る恐る、自分の納得度を上げてくれる情報を見たくなる。
その一方で、「もっとおいしいものを食べている人がいるんじゃないか」という、気持ちもあるだろう。偉そうに食べ歩きを誇っている人への妬みも起きてくる。価格の高い店だと、そうした妬みが行間から滲んでくる。

>> 食べログという病。の続きを読む



(2012年1月19日)

カテゴリ:キャリアのことも
タグ:

この言葉は、とある評論家の方にお会いした時に聞いた言葉だ。コラムニストとしてはかなり有名な女性で、若者論に強い。
そして、もちろんプラスの意味に使っている。補足するとこうなる。
「だって、経験が少ないのに、あれこれやってみたがるんだから、バカな結果になるわけでしょ。それなのに、最近は大人がムキになって”バカな若者”を糾弾してるのは何なんだろ」
それは、大人に余裕がないんじゃないか?という話になったけど、そういえば彼女は余裕があった。
それ以降、若者に対して苛立ちを覚える時に自己分析をしてみると気づくことがある。
8割方は自分に余裕がない時。で、後の2割はホントにバカ。
でも、「バカ率」からいうと、全世代でそのくらいはフツーに存在しているので、特に世代の問題ではないだろう。
これは、加齢による2つのバイアスが作用しているんだろうと思う。
1つは「過去の自己過大評価バイアス」だ。「自分が若い時には、もっとちゃんとしていた」という奴である。多分違う。80年代の学生にツイッターを使わせたらいま以上に大量のバカが発見されたはずである。
もう1つは「現在の自己過小評価バイアス」だ。つまり「大人」の側に自信がないので、若い人の振る舞いや言動に対して過剰に苛立つ。バブル崩壊後の世代論に余裕がなくなってきたのが象徴的だと思う。
もっとも学生がマジメになればなったで「オレが若いころはもっとバカだった」という人は必ず出てくるのだから、若者論というのはある意味大人の不安の反映なのだろう。
そんな自戒も含めて、新刊「世代論のワナ」を出しました。こちらのブログをご覧ください。



(2012年1月17日)

カテゴリ:雑記
タグ:
183-sedairon.png

新刊を出します。『世代論のワナ』という題で新潮新書からです。とりあえず、我が家のネコに売り子をさせました。
タイトルの通り、怪しげな世代論がドンドン増殖していることへの警鐘が主眼です。「ゆとり世代」「バブル世代」のようなレッテル貼りが、かえって世代間のコミュニケーション、特に職場での風通しが悪くなっているんじゃないの?という視点で、問題点を考えて、次への道筋を考えました。
自分自身、マーケティングの仕事をして、かつキャリアについても論じているので「世代」の問題には向き合ってきたつもりです。ただし、ちょっと過剰だった点もあったな、という反省も含めて書いてみました。
そういう意味では、人材論という面とメディア論がゴッチャになったような切り口です。「世代を分ける」のではなく、「どの世代が、その時の世代論に影響を受けたのか」という議論をしてみました。
この本は「大ぶろしきを広げて、小さく畳む」という試みをしています。
前半は、「世代論がどうして生まれて、どのように変質したか」という視点で捉えています。後半では「では今の職場でどうすればいいんだろ」ということで、これは自分自身が若い社会人や学生と話してきたことを中心に幾つかのケースを書きました。
章立ては以下です。
================================
はじめに 世代論という情報戦
1章  若者論というノイズ
2章  世代ラベリングを解体する
3章  変質した世代論
4章  就活に作られた世代
5章  職場に流れ込む「煽り」
6章  手探りの対話から
7章  楽しいタテ社会を作る
================================
という感じで、いきなり「ですます調」のエントリーでした。関心のある方は、ぜひご一読を。
出版社のサイトはこちら。amazonはこちらです。



駅構内のB倍ポスターに、こんなキャッチコピーがあった。
「インターネットを通じて、世界をより良くする」
GREEの企業広告だ。時期的にいって、リクルーティングを意識しているのだろう。ちなみにこのコピーは、いわゆる「コーポレートメッセージ」のようだ。隣には英語のポスターもある。
ただ、読んでみても「どうやって世界を良くするの?」ということはわからない。あまりにも抽象的だ。他のネット関連企業のステートメントだとしてもおかしくはない。
そんなことを思いながら、ホームに上がり電車に乗った。
額面広告はすべて「ドリランド」だった。GREEの提供するサービスだ。右も左も「ドッドッドリランド」。まあ、そのセンスとかは特にコメントしない。
ただ、ドリランドは紛れもなくGREEのインターネットサービスなので、先のメッセージに「ドリランド」を代入してみてもいいんだろう。すると、こうなる。
「ドッドッドリランドを通じて、世界をより良くする」
それで、世界が良くなるんだろう、きっと。
理念は素晴らしい。でも上半身と下半身の人格がネジレを起こしているような感じだ。
「ドリランドで、世界はこんなによくなった」
いつかの将来、そんな報告がされることを、僕たちは期待していていいのだろうか。

■お知らせ:新刊「世代論のワナ」が新潮新書より発売されました。出版社のサイトはこちら。amazonはこちらです。



(2012年1月16日)

カテゴリ:キャリアのことも

20年近く会社勤めをして、フリーランスになって7年あまりが過ぎた。一度の人生の中で全く異なる生活ができていることは、面白いと思っている。ただし、フリーランスが会社員に比べて「優れた働き方」だとか「優秀な人は会社に残らない」という声が聞こえると、「それは違うだろう」と思う。
「働き方」の違いが、人の優劣につながるわけではないからだ。
ただ、昨年くらいから会社勤めについての懐疑的な声が、何となく強くなっている気がする。それはソーシャルメディアで「つながっている」という感覚や、「ノマド」という言葉の一人歩きも重なり、そこに震災後のリセットされた空気が重なっているのだろう。
そもそもfreeという言葉は、「解放」という意味合いがある。「束縛されない自由」だ。「ストレスフリー」「アルコールフリー」のような表現もある。
フリーランスは、たしかに組織からは束縛されない。しかし、その一方で多くの場合は企業組織との取引で仕事が成立している。おカネやモノの流れの多くは企業を通過していて、その流れがどのようにして個人に回っていくのかという「流れ方」において、会社員とフリーはたしかに違う。しかし、おなじカネの流れの中にいることはたしかだ。
それを承知で、フリーランスが誇りを持つのはいいのだけれど、会社員の仕事に敬意を払わない人が増えたり、意味もなく優位感を持ちたがる人が目立つのは、ロクでもない混乱を生むだけだろう。
「会社の名前で仕事をする」よりも「自分の名前で仕事をしたい」という若い人の声はよく聞く。ただし、フリーランスというのは「組織と仲間を背負って仕事している」ことからも、またフリーなのだ。
会社勤めに懐疑的な学生などもいると思うけれど、「謙虚さを持たないフリーランス」の言うことだけはとりあえずスルーして欲しいと思っている。