「文化の担い手」という書店の呪縛。
(2013年10月24日)

カテゴリ:マーケティング
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先日、久しぶりにリアル書店に行った時のことを書いたら、昨日は神戸市内で中核書店が閉店したというニュースがあった。記事はこちらだが、ネットでも話題になっている。問題点はこちらの声の通りだろう。
記事の中で「ネットの”おすすめ機能”」が上がったことで、書店の優位性が脅かされたというが、僕はそうなのかな?と思う。
書店の、おすすめや分類も結構不思議なことになっているからだ。
先般、北斎関連の本を求めて大型書店に行った時、美術書のコーナーでは結局買わずに、一応歴史のコーナーへ行った。やはり芸術系の本は殆どなかったのだけど、久しぶりに歴史関連の棚を見ると、唸ってしまう。いや、あまりいい意味ではなく。
本棚には、いわゆる「仕切り板」がある。本の間に挟んでいる板で、メジャーな作家やテーマで分類される。
で、この書店は明治以降だと、まず「福沢諭吉」がドーン、とある。次はぐっと減って「後藤新平」が数冊。そして「北一輝」が3冊程度。作者名は他にはない。全体として荒涼としている。
かと思うと「戦争責任」という仕切り板もあるのだが、これも3冊くらい。書店の「思い入れ」というよりは「思いつき」にしか見えない。
そういえば、ネットでも同じだった。僕も「何でもamazon」というのもどうかと思って、一時期他のネットショップで買っていた。ところが、こちらには「スタッフのおすすめ」に合わせた作りになっていて、これがまた使いにくかったのだ。
本好きは、みな書店が好きだった。だから書店閉店は寂しくは思う。思うのだけれど、残念ながら、リアル書店の方が、どんどん遠くに行ってしまった。


「街の文化の拠点」というが、地方在住の本好きは、街の書店に対してかなりの潜在的不満を持っていた。昔、「本の雑誌」などではこの辺りのことが問題になっていたし、自分も東京を離れていたことがあるからよくわかる。
amazonなどが地方の文化を破壊しているような文脈で語られていることもあるようだが、それは違うだろう。むしろ、地方の本好きにとってネット書店は福音だと思う。フランスのアマゾン狙い撃ち法案などは、むしろ文化を衰退させていくように感じる。
そもそも本自体はどこで買っても同じだ。「紀伊国屋で買う本」と、「紀ノ国屋で買う野菜」は意味が違って、チャネル自体の付加価値は少ない。その上、付加価値のはずだった「おすすめ」どころか分類も怪しい状態だと、それは苦しいと思う。
話は逸れるが、個人的には「街の書店」よりも「街の豆腐屋」がどんどん減っていることの方が、文化の衰退だと思う。自宅近くの豆腐屋はどんどん消えた。軽井沢に一軒いい店を見つけたが、そうそう行けるわけではない。
何でそんなことを引き合いに出したのかというと、書店の閉店だけが妙に「文化の衰退」というの文脈で語られるからだ。実は、それこそが書店という業態を自縛していると思う。
街の書店が生き残るには?という問いの答は、ちょっと思いつかない。ただし、「街の本売り場は必要か?」と言われれば、十分あると思う。
ただ「書店」という枠組みを一度外した方がいいんじゃないだろうか。
「料理本を売る食材店」があってもいい。また書店に半端なカフェを作るくらいなら「ミステリー本だけ売るカフェ」の方がいいと思う。自分なら行ってみたい。そう考えると、コンビニは「雑誌も売る雑貨屋」だ。僕も美術書を探すならまずミュージアムショップに行けばよかったのかもしれない。
書店の方々はそうそう割り切れないかもしれないが、「文化の担い手」という見えない重荷を一度降ろした方が、次の道が見えると思うのだが。