五十歳。残り物か、贈り物か
(2014年1月14日)

カテゴリ:雑記

yakanここに書くのは年明け初めてだが、いきなり私事から。
さる11日に50歳になった。だからどうした、と言われればそれまでだが、十進法の魔力というのはたしかにあって、しかも50となるといろいろ考える。
昨秋に、ふと家の「やかん」が気になった。まだ使えるのだけれど、さすがにそろそろかな、という感じにもなったのだ。思い出すと、これを買ったのは社会人になってしばらくして一人暮らしをした時。つまり四半世紀を数えたことになる。
ということは、と考えてちょっと愕然とした。やかんで、「愕然」とは大げさかもしれないけれど、次に買うやかんを同じくらい使うと、自分は75歳。
もしかすると、次に買うやかんは「人生最後のやかん」になるやもしれない。
このことである。
いや、池波正太郎を再読してるので文が変になった。まあ、やかんの耐用年数もさまざまだろうけど、今後は買い物ひとつとっても「人生最後」になる可能性がジンワリと現実になったわけだ。
そんなことを昨秋に気づいてから、50歳というのは、単なる10進法の区切りでもない気がしていた。一つには人間の世代が3周目に入るということもある。信長ではないが「人生五十年」が普通だった時代は、子どもが一人前になって次の世代が生まれるのが大体50歳くらい。
つまり、ここを超えれば爺さん・婆さんになるのだから、昔の感覚なら50以降はほぼ「余生」といっても大袈裟ではないのだろう。

考えてみると、40歳まで会社勤めをして、フリーになってこの秋で10年。いろんな体験をできて、それだけれでもありがたいと思う。
ただ会社を辞めた40歳の時は「これから定年もなくどうしてくれようか」と思うくらい、時間が目の前にたくさん広がったことを覚えている。「イヤ~困ったな」と思いながら内心ニヤニヤしていた。贅沢な感覚だった。
ところが50歳になると、そういう思いはない。
どちらかというと楽観的なので、「コップに水が半分」でも”まだ半分”と考える方だけど、現実として水は半分以下の可能性が高い。だから、「残りの時間」とかついつい思ってしまう。
ただ、誕生日を挟んで旅をしていて、ふと、「残り物」というよりは「贈り物」かなという感じになった。大体50が天命として、あとは「余生」ということでも、とりあえずはいいや。ただ、ここから先は「贈り物」なんだから、楽しまなくては損ではないか。
そういう大変に便利な言い訳が見つかったので、しばらくは楽しく毎日を送ろうかと思う。
そんなわけで、今年もよろしくお願いします。