新聞社はなぜ謝るのが下手なのか。
(2014年9月8日)

カテゴリ:世の中いろいろ

入社2年目の頃だったか、先輩と飲んで築地の鮨屋に連れて行ってもらった。

ザワザワとして、普通に会社員がいるようなところだ。

僕は当時コピーライターで、結構遅い時間まで先輩と一緒に仕事をした後だった。

店に入ってほどなく、隣の席の妙な感じに気づいた。先輩が、僕と同じくらいの社員を説教している。しかも、一方的で相当にきつい。

言われている方は返す言葉もない。ボロボロになったボクサーを、足蹴にしているような陰湿な感じがあって、一体どんな会社なんだろうと思った。

すぐ近くの新聞社だった。今では殆ど見ないが、その頃は社名入り封筒を持っていることが結構多かったのですぐわかったのだ。

広告制作の現場も相当な徒弟制だったけれど、その説教ぶりはかなり印象深かった。学生時代、新聞業界にも関心はあったのだけれど、行かないでよかったなぁと感じたことを覚えている。

いま、朝日新聞が大揺れのようだが、僕はこの夜のことを思い出す。

この一カ月ほどの騒動については既にいろいろな人が論じている。僕が、見ていて気になるのは「どうして謝るのが下手なのか」ということだ。これが、問題をこじらせている。そして、そのことを考えた時、四半世紀前のことが頭をよぎる。

僕が隣で聞いていて驚いたのは、新聞社の先輩の決めつけ方だった。会話ではない。一方的に、「お前はダメだ」という。これは、おそらく伝承されているのだろう。もちろん、広告制作の世界でも厳しい上下関係はあるが、そのままだと外との競争に負ける。若手の意見をいかに汲み上げるかが、ディレクターの腕の見せ所でもある。もともと広告に正解はない。
これは一般的なビジネス全般にいえることだと思う。

常に自分が「誤っている」可能性があるから、「謝る」ということは当然におこなわれる。

一方、報道はもっと直線的だ。正義という基準があり、それに反するものを糾弾する。一社の中で、正義の定義が分かれたら社論は成立しない。

ただし、そういう風土で育つとどうなるか。過去を省みて謝ることは、正義の否定であり、また自己の否定でもある。そして、記者という仕事をしていて「謝る」という機会は相当少ないだろう。

朝日に限らず、多くの記者の人と仕事で接したことはあるが、不愉快な思いはしたことがない。だからこそ、今回の騒動に出てくる幹部の人の半端な言葉を聞くと「なんでだろう?」と思う。

もしかしたら新聞社というのは、あの夜に若い社員をなぶっていたような人が出世するものなんだろうか?と勝手に想像する。そして、あの時の若手はいま50歳あまりで、どうしているんだな、とふと思う。

正義感は、正義を実現するとは限らない。

そういう単純なことに報道機関が気づくのなら、この騒動にもまだ意味はあると思う。