日本のジャーナリズムは「二流の桃太郎」なのか。
(2015年2月13日)

カテゴリ:世の中いろいろ

vaue昨日の東洋経済オンラインに掲載された『マクドナルドの「謝罪」は、何を間違えたのか』という記事を思って、ちょっと感じたことを書いておこうかな、と。

記事の主旨は、一連の不祥事に対してのマクドナルドのメディア対応が不適切であり、どうするべきかという視点での内容だ。たしかに、一連の事件における同社の対応はいろいろと問題があったとは思うし、記事全体の指摘はおおむね理解できる。そして、このような不祥事が起きた際には、「企業が平常時につきあっている経済部記者より、社会部記者が主導権を握る」という指摘のあとで、「社会部メンタリティ」について以下のような記述があった。

(以下引用)不祥事や事件に日々直面する社会部記者は、謝罪会見で不祥事を起こした企業の正当性を聞こうなどという気はない、と考えたほうがいい。彼らは、ひれ伏す企業のトップを国民に紹介することを頭に描きながら会見場にやってくる。マクドナルドは、そういった不祥事におけるマスコミの「社会部メンタリティー」を全く理解できていなかったといえる(引用ここまで)

これはあくまで一般的な「社会部メンタリティー」を指摘しているのであって、この文を書かれた方が同じメンタリティーを持っているかどうかはわからない。でも、この一文を読んだ時の「いやぁな感じ」ってなんなんだろうかと思った。

簡単にいうと、ここで書かれているメンタリティーを持った人には近づきたくないな、という感覚だろうか。そして、最近のジャーナリズムに対する一般人との意識のかい離が、なんとなく浮き彫りにされたと思うのだ。

ちょっと分析するために、仕事の価値というものを考えてみたい。このチャートはブランディングに使う技法を応用してみたのだけれど、そもそもジャーナリストというのは左の【A】のような価値構造を持っていたはずだ。

ただ、こうした構造というのはちょっとした拍子にクルリと反転する。一歩間違えると【B】のような構造になって、もうこうなると価値とは言い難い。そして、一般の人が報道記者に対するイメージが最近は【B】に寄っているんじゃないかと思うのだ。

世の中で「報道する人」はあくまでも少数派だ。そして多くの企業人は「報道される側」に回る可能性がある。いまは関係なくても、広報への異動になれば「明日は我が身」なのだ。だから、不祥事を起こした企業はたしかに問題だけど「謝る彼らも大変だよな」という思いが、どこかにある。

そういう中で、過剰に居丈高な態度をとる記者には結構強い嫌悪を抱くのではないだろうか。このあたり、政治家を糾弾することとはちょっと違うだろう。そして、最近は「本当に悪い奴」に切り込むことなく、異物混入あたりの騒動で鬼の首をとったように威張っているような感覚がある。

でも、その鬼は、それほど大した鬼ではない。つまり、今のジャーナリズムはどこか二流の桃太郎に感じる。

残念ながら、いまの報道記者は「尊敬される職業」になってないように思う。昨年の朝日新聞の事件などは、明らかにその空気を強めてしまった。最近の渡航問題などを見ても、そもそも「職業として社会から尊敬される」ような価値を持たなければ、いくら「報道の自由」を叫んでも、響かないと思う。

ジャーナリストが尊敬されない社会は、彼らにとってはもちろん、結局は人々にとっても不幸だ。だとしたら、まずはその「メンタリティー」あたりから、どうにかしてほしいと思うんだけど。