「ていねいな暮らし」という、ていねいでない言葉。
(2015年3月6日)

カテゴリ:世の中いろいろ

「ていねいな暮らし」という言葉がいつ頃からチラホラと見られるようになったが、どこかとってつけたような表現で、その世界観には「本物の顔をした偽物」の空気を何となく感じていた。

ジェーン・スーの「ていねいな暮らしオブセッション」というコラムを読んで、「そうそう」と笑っていたのだが、ここに来て事態はややこしくなった。

どうやら、自分の生活は他者から見ると「ていねいな暮らし」らしいのだ。

きっかけは、妻が同年代数人と話していたことに遡る。自宅でお茶を淹れる時に急須を使っているといったら、他の人は誰一人急須でお茶を淹れてなかったそうな。ティーバッグ、ペットボトルか、粉末茶など。

結果、周りから「山本家は優雅」と認定されたらしい。そんなものなのか。

で、「実は自分たちは『ていねいな暮らし』なのか?」と、気になっていろいろ調べたのだが、以下のような行動が該当しそうなのだ。

・糠床を毎日かき回して、糠漬けを漬ける(担当は自分)

・万年筆で暑中見舞いなどを書く(これも自分)

・毎朝コーヒー豆を挽いてドリップする(妻が作って二人で飲む)

・梅干を漬ける(これは妻がやっている)

・玄米を食べる(白米と半々だけど大概そうしてる)

なんと、僕たちは「ていねいな暮らし」の人だったのではないかという疑惑は膨らむ一方である。

そういえば、小さな火鉢で炭を起こして野菜を炙ったりしたこともあったぞ。しかも、その火鉢は祖母の形見の品だ。正月はきんとん、黒豆、ごまめなど、品数は少ないけど全部手づくりで、市販のものは買ったことがない。日本茶は近くの専門店で、常に4種常備していて、コーヒーは20年前から近所の自家焙煎の店の豆だ。しかもそのお茶を水筒に入れてるよ。
どうだ、ていねいだろ!

となかばヤケになって言ってみる。そして「何がていねいだよww」と嗤っていたのに、もしや自分がそちら側にいたのか?という恐ろしさ。

なぜ、僕が「ていねいな暮らし」を恐れるのか?というと、理由は簡単で、その言葉があまりに胡散臭いラベルだから。一つひとつの行為は好きだし、いいと思うからやっている。

でも、それに「ていねいな暮らし」という名づけをして、布教させようとする動きがどうしても生理的に合わない。

「ていねいな暮らし」は“正しさ”に溢れてる。ただ、その正しさを梃子にして、小商いをしてみようか、というメディアの空気も感じるし、僕にとっては「声に出して読みたくない日本語」の一つだ。そうだ、この言葉自体があまりていねいではない。

おっと、お湯が沸いたようだ。お茶を淹れて一休みするか。

※ジェーン・スーのコラムはこちら