日本人の弁当コンプレックスと、褒めたがりの政府と。
(2015年5月21日)

カテゴリ:世の中いろいろ

弁当が燃えたらしい。

内閣府の「女性応援ブログ」がいわゆる「弁当」作りで有名な女性の記事をツイッターで紹介したところ、相当批判が寄せられたそうな。「プレッシャーがかかるだけ」と感じる女性は多いようで、そりゃそうだろうと思う。

お弁当というのは、日本人にとって単なる携行食ではないと思っている。多くの人は幼少期から、高校の頃まで母がつくった弁当を食べる機会も多く、それはまた食の記憶のなかでも独特の位置を占めていると思う。

少し前に東京ガスが弁当をテーマにしたCMを制作して話題になったが、あれは日本人の「弁当コンプレックス」のようなものを突いたんじゃないだろうか。

コンプレックスというのは、特定の事象と複合した心理だ。そして、日本人は弁当に、それぞれ固有の思いがある。それは子どもが遠足に行って、昼を迎える時の期待感かもしれない。また入試の日に、重圧の中で感じる優しさかもしれない。いっぽうで、どこか気恥ずかしさと一体になった記憶もあるだろう。

高校の頃だが、ときどき弁当を隠すように食べている人がいて、別にフツーの弁当なんだけれど、そういう心理もまた弁当がただのメシとは違うから生まれてくるんだろう。

このコンプレックスは、単なるマザーコンプレックスという記憶の心理とも異なる。やがて自分が親になると、弁当作りに直面する。そして、今度は作り手として「この弁当でいいのだろうか」と日々悩み頑張る。弁当箱を開ける期待があったからこそ、「気に入ってもらえるのか」という不安もまた湧いてくる。

という感じで、日本人と弁当の縁は深すぎるほどに深いのではないかと思う。海外の事情はしらないが、日本ほど弁当に凝る国はそうそうないのではないか。フランスでは”BENTO”として認知されているというくらいで、「ランチボックス」とはまた違う気がする。

家族がつくる弁当だけではなく、駅弁だって相当の質とバリエーションがあるし。

そこに持ってきて、お上はついつい「頑張る人」を褒めたくなる、という習い性がある。というか、勲章という制度が多くの国にあるように、褒賞というのはとりあえず政府の機能なんだけれど、これが「弁当」にまで及ぶというあたりに妙な痛々しさを感じてしまう。

「女性応援」というなら、環境づくりの黒子に徹すればいいわけで、「この人すごい」「あの人えらい」でどうなるわけでもない。

このあたり、先のブログを読んでみると弁当に限らず、「輝く人」を紹介すればいいのでは、という発想自体も違うと思うんだけどね。

まあ、そうは言っても、今日も日本中でさまざまなお弁当が食べられていて、心の隅に着々と記憶が積み重なっていく。弁当は本当に、家それぞれ、それぞれで、だからこそ一人ひとりに固有の思いがある。

それをお上が「ほらすごいですね」と野暮を言えば、引っかかる人はたくさんいる。

弁当こそ、多様性(diversity)の象徴でいいんじゃないかな。