「アベ政治を許さない」への言葉的違和感。
(2015年9月25日)

カテゴリ:世の中いろいろ
タグ:

IMG_0949-1

近所を歩いていたら、とある家の垣根に紙が貼ってあった。

「アベ政治を許さない」

最近、掲示板やデモのニュースで見たあの書体だ。ただ自宅に掲出しているのを見たのは初めてだった。いつまで貼っておくのか、来年の正月はこの脇に門松を並べるのかな?とか、一層のことあの書体で「謹賀新年」と書いたらどうなんだろうとか、関係ないことを思いながら歩いているうちに、この言葉への違和感をどこかわかった気がした。

調べてみると井戸まさえさんのブログに、赤木康伸氏のfacebookからの引用が紹介されていた。赤木氏は「政権・政策批判というよりは、安倍晋三氏個人への悪意が感じられる点」に引っかかりを覚えるということだ。

僕が引っかかったのは「許さない」という方のフレーズだ。そもそも、「許す」というのはどういう時に使われる言葉なのだろうか。

普通に考えると「許す/許さない」を決めるのは、「力を持っている人」だ。それは、個人・法人に対して官公庁がおこない、社員に対して企業が行ったりする。親が子供に対して行うこともある。

「現行の政治を許すかどうかは、私たち国民が決める」というのは、国民主権の概念からいえばたしかに、この言葉の使い方が間違っているわけじゃない。しかし、「許す/許さない」を決めるのは相当の覚悟がいるはずだ。

まず僕自身がそこまで、言い切れるほど勉強しているのかと自問すると、早々にこの言葉は使えない。法案や政策を「許さない」と言い切るには、相当な研究が必要だろうが、本当にそこまで学んでいる自信がない。それだけの難題だと思っている。

安保法案の議論で一番知りたかったのは、「なぜ必要か」という「未来についての仮定」の話だったし、「存立危機」の精緻な定義だった。明快な対案もなく、「許す/許さない」に論点をずらすのも一つの戦略だと思うが、政策の話は深まらなかったように思える。

そして、何よりも気になるのが「許さない」と言い切った時点で、創造的思考は止まったのではないか?ということだ。

「許す/許さない」を決める時、人は常に傲慢さと紙一重の状況にあると思う。それは「許しを乞う」側になった時に誰もが経験する。
子どもの願いに対して「絶対に許さん!」と親に言われたとき、「ああ、なんで思い込みが強いんだろう」と思ったことはないだろうか。自分のミスを謝った時に「絶対に許せん」と言われて、つらい思いをしたことはないだろうか。

「許さない」という言葉を発するには、謙虚さ、そして深い学びが必要で、さらには覚悟もいる。対象がどんな権力者だろうと、それは同じだと思う。

そういうわけで、この「許さない」がさらに広がるのかどうかは、いろいろな意味でとても気になるのである。