「昔はすごかった」は、ある種の承認欲求なんだろうな。
(2016年5月30日)

カテゴリ:世の中いろいろ

ダービーが終わった。レース自体はダービー史上に残る激戦だったと思う。上位人気馬どうしの戦いになったが、「生まれた年が悪かった」と嘆きたくなる関係者も多いだろう。こうなってくると「史上最強の年」とかの話になり、時代を超えた夢のレースを語りたくなる。

もっとも、競馬は陸上競技とは異なり「最速タイム=最強」という発想にはならない。だから、馬好きが「史上最強馬」について語るのは、終わりのない言葉の遊戯になる。ここでムキになる人がいるが、それこそ野暮の骨頂だろう。

最近、自分よりも20年くらい年下ながら、競馬のキャリアは似たような友人と話すことがある。「もし戦わば」もおもしろいが、ふと気がつくと僕は「できるだけ昔」の話をついついしたがるということに気づいた。

だから、同じ三冠馬でも2005年のディープインパクトよりは、1994年のナリタブライアンのダービーを「府中で見た」経験を話してしまう。別に、ナリタブライアンが最強といいたいわけではない。知っている中で「できるだけ昔の話をしたがる」のだ。

それで気づいた。そういえば、歳をとった人が「昔はすごかった」というのは、もう本能の領域なのだ。

つまり、自分にとって「もっとも古い体験」を話すことで、何らかの承認欲求を満たしているのだろう。

陸上や水泳などは記録が更新されていくのだが、競馬や野球、サッカーに相撲など相対的に勝負が決まるスポーツでは「いや、昔の選手の方がすごかった」話が起きる。僕はあらゆるスポーツにおいて、技術は進化し続けていると思っているので、老解説者のそういう話はまったく信じていないのだけど、気がつくと結構似たようなことを言いそうになっていることに気づいた。

とはいえ勝負がハッキリするスポーツでそうなんだから、芸事についてはもう適当だ。歌舞伎の世界に「團菊爺」という言葉があって、つまり明治期の團十郎・菊五郎はよかったという年寄りを揶揄した発想だ。競馬だと「シンボリ爺」、野球だと「ON爺」で、落語なら「志ん生爺」である。

こういうのは嫌いなんだとアタマではわかっているのだが、やはりついつい「昔の公演」の話も口にしやすい。大須の志ん朝とか、上野のカラヤンとかもう明らかに年寄りだ。

人は自分の経験の内で、より過去の話を最上とみなす。ことに、若い人に対しては。

これがスポーツや芸の話なら、少々煙たがられるだけで済むが、仕事の話になると根が深い。

愚者は経験を語り、賢者は歴史に学ぶ。まさにその通りなのだが、この言葉自体がたいして学ばれていないところに、本能の恐ろしさがあるのだろう。

なお、日本の名馬が歴史を超えて一度に集う、というファンの妄想をカタチにしたのがJRAのCM「夢の第11レース」だ。武豊が何人必要なのか、というツッコミはともかくファンにはたまらない傑作だと思う。