澄んだ轟音と沈黙。テミルカーノフのショスタコーヴィチ。

サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団 日本公演

指揮:ユーリ・テミルカーノフ

2016年6月3日 19:00 サントリーホール 大ホール

ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番「レニングラード」ハ長調 Op. 60

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クラシックのコンサートは妻と行く時と、1人で行く時がある。そして、1人で行く時は開演前の男性トイレの列が長い。そういえば、バレンボイムのブルックナーの時もそうだった。あれは、バレンタインデーだったなぁ。

ショスタコーヴィチの7番のみ、というプログラム。このあたりも、やはり「男の世界」なのか。冒頭からフィナーレまで、緊張感の続くいい演奏会だった。

そして、ショスタコーヴィチほど「言葉の罠」に捉われやすい作曲家はいないんだな、ということも改めて思った。

テミルカーノフと、サンクトペテルスブルグの音は澄んでいる。冒頭からクッキリと引き締まった音がするが、決して鋭利ではない。もちろん、温くもない。ありのままの、音がする。

1楽章の展開部や、フィナーレのコーダなど金管の協奏でも濁らない。息遣いがたっぷりしているのだろう。そして、彼らはこの曲に対して無意味な感情を付加しようとしない。ところが、ショスタコーヴィチの音楽は「言葉」から逃れられない。それは、ソヴィエトという、今となっては相当に特殊な社会体制下で作曲されたことと51xsj7X92cLも関連してくる。

この曲にいたっては、第二次大戦下のドイツによるソヴィエト侵攻と時期が重なる。だから、ナチスとのレニングラード攻防戦における勝利という読解がある一方で、ソヴィエト体制への批判ではないか?という説もある。

そういうことは十分承知の上で、演奏はおこなわれる。しかも、何度も名を変えたその攻防戦の街のオーケストラだ。

考えてみると、日本が昭和から平成になった年にベルリンの壁が崩壊し、その2年後にソヴィエトは、現在のロシアとなる。「ソヴィエト」というのは、「昭和」の時期とほぼ重なる。

指揮者のテミルカーノフは、レニングラード攻防戦の前に生まれて、その後のソヴィエトを生きた。いわば「昭和を知る男」だ。

彼のショスタコーヴィチの響きは、純粋で美しい。音楽の歩みから「侵略」を重ねて、フォルティシモに「重戦車」を期待し、「勝利の熱狂」を求める人には、この演奏は少々物足りないかもしれない。でも、それは言葉に毒されているんじゃないだろうか。

ソヴィエトを知る彼だからこそ、楽譜から丁寧に音楽を掬い取る。そこで感じるのは、ショスタコーヴィチは、ベートーヴェンが築いたシンフォニーの可能性をとことん追求したかったんだろうなということだ。ただし、そう思って聞くと、相当に不器用ではあるが。

この曲が「何を表現したいか」という議論は尽きないと思うが、一方で初演を巡る事実には驚くものがある。レニングラードの攻防戦の中で演奏に挑戦した人々の思いをつづった「戦火のシンフォニー: レニングラード封鎖345日目の真実」(ひのまどか/新潮社)は、戦時下における音楽への思いが伝わり、奇跡のような出来事に驚く。

この一冊を読んでから、「7番」を聴けたのはまた素晴らしい体験だった。ぜひ一読をおすすめしたい。