2016年10月アーカイブ

長時間労働で疲弊した社員が自殺したケースについて、会社側の責任を認めた司法判断が確定したのは2000年のことだ。この判決は会社の安全配慮義務などの責任を認めた画期的なもので、人事業務に携わる人はもちろん、法曹の仕事に関わる人にとっても重要なケースだった。

この時の被告となった会社は電通で、自殺した社員は新人の秋頃から勤務時間が増加し、入社2年目の夏に命を絶った。1991年のことだった。

それから四半世紀が経ち、昨日、電通社員が同様の状況で自殺して労災認定されていたことが明らかになったが、彼女も1年目だ。

今回の事件では、疲弊した彼女のツイートなどが残っていて報道もされているが、あまりにも悲痛だ。

この職場の実情についての推測などは一切するつもりはないが、改めて自戒をこめて一つのことを書いておきたい。

それは、単純だ。こういうケースについて、かつて長時間働いた経験のある人間が「自分はもっとたくさん、○○時間働いた」ということは全く意味がない。むしろ、苦しんでいる人をさらに苦しめるだけだろう。

たくさん働いても平気な人がいる。一方で、勤務時間に関係なく疲弊してしまう人もいる。実際に命を絶った人のケースはさまざまだ。だから労働時間の長さ「だけ」が原因とは限らない。理由が複合的なことも多い。

ただし、長時間労働が恐ろしいリスクになることはたしかだろう。睡眠不足は判断力を低下させて理性を失わせることがある。孤独な作業は、過度な心理的圧迫を招く。

そういう経験を乗り越えたとしても、それは長時間労働を正当化しない。

「自分は大丈夫だった」というのは勝手だ、という意見もあるだろう。しかし、そう言った言葉自体が、また見えない圧迫を生む。

そして、見えない圧迫こそが長時間労働がなくならない最大の原因だ。

「俺の若い頃は**時間働いた」「海外の連中だって無茶苦茶頑張るやつがいる」「私の睡眠時間はたったこれくらいだけど平気」

そういう言葉は、胸の中にしまっておこう。

それが、彼女の無念に対して、また同様の環境で苦しんでいる人に対して、まず僕たちができる最初のことじゃないだろうか。

【追記】ちなみに自殺については「自殺稀少地域」を分析したりレポートした下記の2冊がとても示唆的だ。職場にも応用できる話だと思うし、「稀少地域」の条件を満たしていない職場は多いと思う。こうしたアプローチはこれから重要になるだろう。