「本質を考える」は、「自分の辞書を豊かにする」こと。
(2016年12月16日)

カテゴリ:キャリアのことも,マーケティング

「本質的」という言葉がある。

辞書を引けばそれなりの定義があるけれど、これは結構難しい。

「これからのIoTの本質を突いている」という大上段な話から、「スープの本質を知っているラーメン」までさまざまだ。

そして、「生きることの本質」とかいう言葉を、簡単に使う人もいる。

最近ネットメディアを巡る事件が目立ったが、「そもそもメディアとは」というような議論も目立ってきた。メディアと言いつつ、実は「プラットフォームじゃないか」という指摘もあれば、そういう話にもなるだろう。

まさに本質的な話だ。

ところが、一部にはこういう本質的な話をすると思考が止まる人がいるらしい。「理屈っぽい」「難しい」と感じてしまうようだが、傍から見ていると往々にして理解しようとする気がないらしい。

つまり「本質とは」と突き詰めて考えたことがないのだろう。

たしかに、「本質」という言葉を議論するのは根気がいる。ただし、マーケティングや広告、特にブランドに関するミーティングはこのような繰り返しだ。

なにか企画を考えて説明したとする。すると先輩がいう。

「面白いけど……それってこの商品の本質じゃないだろ?」

では、何が本質なのか?というのはわからない。それを探すために、アタマを使って「もっとも本質に近いもの」を探すのだ。

僕は社会人になって、すぐにこうした場に放り込まれた。それ以来、ずっとそういう思考をしている。

どうすればいいのか?と尋ねられることがあるけれど、敢えて言えば「自分の辞書を豊かにする」ということだろう。

たとえば「ラーメン」を辞書で引けば、単純な定義がある。しかし、子どもの頃は「週末のお昼のご馳走」で、やがて食べ盛りの男子ならインスタントラーメンが「夕食前のおやつ」になり、やがて「飲んだ後の締めの一杯」を知る。
「塩分と糖質のかたまり」に見える人もいれば、「寒い日の至福の喜び」と定義してもいい。

つまり、経験の中で人は対象に対して「自分なりの辞書」を作っているのだ。そして、それをどれだけアタマの中で豊かにしていくのかが、マーケティングや広告のプロフェッショナルだと思う。

ただし経験できることには限りがある。だから、想像したり学んだりしながら辞書を豊かにする。「おカネがなくて彼女と一緒にすすった一杯のラーメン」は、昭和の過去の話かもしれないが、今もあるかもしれない。だったら、そういう「定義」も辞書の片隅に入れていい。

そして「ラーメン」でも「コーヒーカップ」でも「洗濯機」でも「温泉」でも構わない。「メディア」や「広告」でも同様で、すべてのことについて「その本質」を考えて辞書を豊かにしないと、結局は他人の受け売りしかできない。新しいコンセプトの創造なんかは、無理に決まっている。

「本質とか何か」という議論を嫌う人は、また「何が答えか」を早急に求める癖があるようだ。

ところが、本質には接近することはできても、割り切れる正解があるとは限らない。現状の問題で言えば、「メディアの本質とは何か」「広告の本質とは何か」をひたすら考えた人だけが残っていくのだろう。

こういう話は、なんか面倒に感じるかもしれない。しかし、本質に目を背けた人は、相応の結果しか得られないと思う。