夜の首都高を1人で走りながら「モノ・コト・ネット」などについて考えてみる。
(2017年9月28日)

カテゴリ:メディアとか

昨日、クルマの定期点検をしてタイヤを交換した。

この夏に結構走り回ったせいか、一気に傷んでいたようで、信じられないほどの快適さだ。新車を買ったり試乗して「いいな!」と感じる心理のほとんどが、実は「新しいタイヤ」が理由なんじゃないだろうかと思ったほどだ。

そのまま青山の銕仙会で能を見て、さて帰ろうと思ったが、時計を見ると21時前だ。久しぶりに走ってみようかと思い、高樹町から首都高速に乗ってC1からレインボーブリッジを抜けて湾岸からC2、江北からS1に抜けて1時間弱。

マーラーの7番「夜の歌」を聴きながら走ったんだけど、最近はこういうことやってなかったな。数年前までは、夜に思い立って首都高をグルグル走っていたのだ。

1人になって気分を切り替えるのにちょうどいいし、仕事のことを考えたりして適度に疲れるので、なんか寝つきもいい。

そういえば、学生の頃には「煽られるようなクラシック」を編集して、カセットで聞いていた。「夜の歌」やプロコフィエフの5番のフィナーレ、あるいはホロヴィッツの弾くリストとかだったと思うけど、危ないのはワーグナーのローエングリン「3幕への前奏曲」だ。

気がつくと、アクセルを踏んでしまうので最近は自重している。

しかし、この1人で走った体験をSNSにでも投稿しようと思うと、「文字」しかない。つくづく、クルマとSNSというか、クルマとネット自体は相性が良くないんだと思う。

運転している時は操作できないし、写真も撮れない。そりゃ、鉄道がジワジワ人気になるわけだ。僕はそっちも好きだけど、メシも景色も伝達できるので、たしかにSNSとの相性は抜群だよなあ。

そうか、クルマを運転しているの気持ちは、他者に上手に伝えられない。湾岸から左にカーブする時に夜景の光が視界の両側から流れていく感覚は、もちろんビジュアルだけではわからない。
まあドライブレコーダーの映像を投稿している人もいるけど、それで体験が伝わるわけじゃない。

乗ってるクルマによっても異なるし、助手席にいてもわからない。そう考えると運転は、ある意味「閉じた体験」で、記録できないという意味で究極の「コト体験」なのかもしれない。

考えてみると、SNSに上がっている写真はすべて「モノ」というか物質だ。食べ物はもちろんそうだし、景色だって物質で構成されている。その青い空だって、酸素やら二酸化炭素やらという物質なわけで、そういう「目に見える何か」を梃子にした「コト体験」であることに気づく。

クルマを運転していると、何も読めないし、スマホもいじれず、音楽とかを聴くくらいだ。それが「勿体ない」という人もいるけど、僕はそこまで忙しいわけでもない。

むしろ、デバイスから解放されてひたすら運転する夜の時間は、仕事のことを考えるにもわるくない。

なにも道具が使えない状況で、いろいろと思いを巡らせる。そういう「アタマの動かし方」も、結構大切なんじゃないだろうか。

ただ、音楽はそろそろ大人しい曲にしようかと思っている。