やっぱりJFA田嶋会長の「コミュニケーション」は謎。
(2018年5月17日)

カテゴリ:世の中いろいろ

サッカーの本田圭佑選手がNHKの「プロフェッショナル」で語った言葉が話題になっている。人によっては、話題というより「問題」だと思うようで、「ハリルのやるサッカーに全て服従して選ばれていく」ことを否定した発言が引っかかったようだ。

「監督のいうことに従うだけでなく」と言えば、それはトップクラスの選手の普通の考えかもしれない。ただ、「服従」って、普段使うかな?

本田の言葉選びのセンスというよりも、ある種の本音が出たのかもしれない。ただ僕は本田の発言よりも、別の人の言葉にずっとモヤモヤしていたのだけれど、今回の「服従」の一件でなんかいろんなことがわかってきた感じもする。

それはサッカー協会の田嶋幸三会長の「解任発表会見」の言葉だ。

「選手とのコミュニケーション、信頼関係が薄らいできた」という発言を聞いて、ずっと「この人は大丈夫だろうか」と思っていたのだ。

今回改めて分かったんだけど、田嶋氏は「コミュニケーション」という言葉の意味をよくわからず、しかも本人がコミュニケーションをきちんとしていなかったんじゃないか。

コミュニケーションという言葉は、カタカナのまま使われている。それには理由があって、「伝達」だとニュアンスが違う。

communicateを英英で調べると、shareという概念が重要だとわかる。つまり、「共通する何か」を分け合う行為だ。

送り手と受け手が「このことだよね」と対象について合意しないと、コミュニケーションは存在しないのだ。

田嶋氏は「意思の疎通」のような意味で言ったのかもしれないが、問題はそれ以前にあったんだろう。shareというのは、食べ物で考えるとわかりやすい。同じものを食べれば、そこで共通のテーマで話ができる。だから、「同じ釜の飯」というのは大切で、日本など東洋なら鍋料理、西洋ではパイのように「分かち合える料理」は家庭の幸福の象徴として描かれたりする。

ところがサッカーの代表チームの選手と監督には「分かち合う共通の何か」がなかったんだろう。だから、ついつい本田は「服従」という言葉を発したんだと思うんだ。

そうやって考えると、チームには「分かち合うべき共通の目的」を探れるようにする必要があった。

それが困難な状況になっているのなら、第三者が助けることもできたはずで、サッカー協会の「委員会」と言うのはそのためにあったんじゃないのだろうか。

そもそも、運営する協会、現場を預かる監督、プレーする選手の間に「分かち合うもの」がちゃんと設定されていないのが、今回の問題の原因なんだろう。

それを棚上げして、あたかも「監督のコミュニケーション」を理由にしながら、「分かち合うもの」を探した形跡のない協会会長の発言は、やはり妙で、言ってる当人のコミュニケーションに問題を感じるのだった。

というわけで、個人的にずっと引っかかっていたことは何となくわかったのだけど、本当に代表チームはどうなるんだろうか。
勝敗より以前に、「出場が祝福されるチーム」であってほしいと願っているけれど。

 

※「コミュニケーション」という言葉は、その定義からして曖昧だけど、メディアや広告の世界で働くなら、アカデミックな本も押さえておいた方がいいかもしれない。結構読みやすい本も多いし、「ああ、そういうことか」と日常の仕事を理解するカギになることもあるし。特に「つかむ」のシリーズはお薦め。