新国立「フィデリオ」とクラシックの憂鬱。
(2018年6月4日)

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「フィデリオ」が終わった。

といっても、普通の人には良く分からないかもしれないが、新国立劇場で上演されたベートーヴェンの「フィデリオ」というオペラの演出が大胆というか奇抜というか、日本のオペラ村ではああだこうだと盛り上がったのだった。

計5回の公演は結構客の入りも良かったけれど、仮に満席でも延べ一万人弱くらいなんだから、やっぱり村な感じだ。そして、この村はいろいろと口うるさい人も多い。

そもそも、フィデリオというのは突っ込みどころの多いオペラだ。ベートーヴェンも相当悩んだのか、序曲だけでもたくさんある。で、内容はいたって単純。

とある悪人の不正を暴こうとした男は無実の罪で刑務所暮らし。そこに男装した妻が忍び込んで看守のもとで働き、地下牢の夫と再会。悪の総統に見つかり殺されかかるところで、正義の大臣が到着して「お裁き」となりめでたしめでたし。

思ったより、簡単に書けた。しかし、ベートーヴェンというのは、作劇が苦手なのだろう。最初の序曲から30分くらいの歌は、いわば「現状説明」だ。話が前に進まない。その上、全体として「私はこう思う」という歌がやたらと多い。何かに似ているかというと「第九」のような感じだ。

芝居って、「ある人の言葉によって心が動かされる」ということが舞台上で起きるわけで、それが台詞だったり、オペラなら歌になったりもする。でも、この舞台ではみんなが言いたいこと言う、というか歌う。

観ながら思ったんだけど、そもそもベートーヴェンは「人の話を聞かない」人だったんではないか。それは耳が聞こえないとか以前に性格としてそうだったように思えてくる。とりあえず聞いてみるけど、「でもやっぱり俺はこう思う」って感じ。

ほら、いまだってそういう人いるじゃないか。それでベートーヴェンのように天才ならいいけど、別にそうじゃないってパターン。

でも、ベートーヴェンは「こう思う」がすごかった。内発的動機と言うんだろうか。しかも、自分の中で「ああでもないこうでもない」という葛藤があって、それが音に出てくる。だからピアノ一台でも、恐ろしいほどの宇宙が出現して唖然とするけど、オペラではそうはいかない。

結局、みんなが言いたいことを言って大団円なんだけど、今回の演出家カタリーナ・ワーグナーはそこに突っ込みたくて仕方なかったのだろう。本来助かったはずの主役夫婦は、悪の総統にあっさり殺されてしまう、という設定。

ただ音楽は「よかったよかった」と盛り上がる。その辺りの矛盾は、舞台構造を利用して二重の世界を見せているんだけど、やっぱり無理がある。

かくしてオペラ村の人々は、唖然として時には怒り、ブーイングを飛ばす。劇場内でいろいろ言うのに飽き足らず、かくして初日が終わってからSNSには盛大にネタバレが飛び交って、それがまた不穏な空気を生んだのであった。

終わってみると、これは世界のオペラ村に対する挑発だったんだろうな、と思う。日本はもちろんだけど、「本場」といわれる欧州だって、オペラ好きというのはマジョリティではない。日本より比率は多いけれど、どちらにしてもクラシック音楽は村社会だ。

そして、「18世紀から20世紀に主に欧州で作られた音楽」を何度も繰り返し演奏するという音楽ジャンルが、今後も永らえるかはわからない。そういう危機感があって、あのような演出になるのか。

僕は怒ることはなかった。ただ、クラシック音楽の現状と未来を想うと、少し憂鬱な気分になった。そして「いまどきフィデリオを普通にやったら将来は危ういんだろうな」という感覚にもなる。

ただベートーヴェンの音楽に「今までのような感動」を求める人は激怒するのだろう。しかし「なんでそんなに感動したいの?」という冷たい問いをこの演出は投げかけていて、それはまた苛立ちを生むわけだ。

ワーグナーは、その末裔まで「人を罠にかけること」にかけては達者なのかもしれない。