最期までオウムをショーにしたメディア。
(2018年7月9日)

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7月6日におこなわれた、オウム真理教に関する死刑執行の時は、ちょうどミーティング中で、昼前になってニュースを見て驚いた。

いままで見聞きしたさまざまな事件の中で、何が一番インパクトが強かったか?それは人さまざまだと思うけれど、個人的には1989年のベルリンの壁の崩壊と、1995年のオウム真理教事件が双璧だ。

どちらも「人の為したこと」であり、それまでの前提を引っ繰り返されたことが強い印象だった。

死刑制度については、いろいろ思うところがある。ただし、この7人の執行が行われた途端に、唐突に疑義を唱えたり抗議することもあまり理解しにくい。

刑法の見直しを主張して活動している人ならともかく、個別の執行自体に疑問を呈したら、司法判断の否定になる。恣意で行政が執行しなければ、それもおかしい。これは、日本人が容認してきた制度の帰結で、最終的には立法府のテーマになるだろう。

しかし、それでも今回の報道を見て、疑問が残った。そもそも、死刑はここまでショー化されていいのか。それは多くの人が思っているだろうが、なぜそうなったんだろうか。

法務省の文書を見ると、平成10年(1998年)11月から「死刑執行の当日に,死刑執行の事実及びその人数を公表」となり、平成19年(2007年)12月から「 死刑執行の当日に,執行を受けた者の氏名・生年月日,犯罪事実及 び執行場所を公表」とある。

一定の年齢以上の人なら、昔の死刑執行は「後になってわかった」ものであり、こうした公表がされてない時代の記憶もあるだろう。

公表されるようになったのは、「情報公開」という流れからだと思うけれど、この「速やかな発表」が本当にいいのだろうか?と改めて思った。

僕は生放送では見なかったが、ニュース速報の後のテレビの狂乱はひどかったという。写真に「執行」のステッカーを貼るような演出は、当然批判されるだろう。その日の夕方以降にいろいろな報道を見たが、「死刑執行」が、「スポーツの勝ち負け」と同じように伝えられていたように感じた。

すべての死には「厳粛さ」が伴うものだと思う。そして、人の手による死だからこそ、その報道にも「姿勢」が求められるのではないか。遺族はもちろん、あの事件を知っている人々は、この死もまた静かに迎えたかったのではないか。少なくても、僕の感覚はそうだ。

それなのに、あの騒々しさは何だったのだろうか。またNHKは「当日早朝に東京拘置所に入る東京地検の係官」を流していた。
真相は知らないが、このショーは、あらかじめ用意されていたのか?と疑ってしまう。

こうして、国はショーの「材料」をメディアに渡してしまった。一度渡した素材の扱いに口を出せば、報道への介入になる。いまのメディアはこうした情報を渡されるのにふさわしい存在なのか。
死刑執行の情報公開は必要だと思うけれど、もう少し「静かに迎える」ことを考えた方がいいのではないか。当日でなくでも、「一定期間内に大臣から発表」でもいいと思う。

少なくても「ニュース速報」は、こうしたニュースにふさわしいとは思えないし、興奮したメディアの醜態をこれ以上見たくはない。