【夏休み書評】『創造と狂気の歴史』の衝撃と納得感。
(2019年8月13日)

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哲学の歴史は、理性の歴史である。と、知ったかぶりようなことをいきなり書いちゃったけど、素人的には「まあ、そういうものなのか」と感じるのが普通かもしれない。

ところが、ちょっと考えると哲学者や思想家と言われる人は、「ギリギリのところ」で何かを考え続けていたのではないか?という感覚はどこかにある。作家でも、ドストエフスキーなどは、その「ギリギリ感」がもっとも強烈かもしれない。

本書はそのギリギリ感を「創造と狂気」という視点で編みなおした一冊なのだけど、本当に驚きの連続だった。こんな本は、そうそう読めるものではないと思う。

最近ビジネスの世界でも耳にするのがクレージー(crazy)という言葉で、辞書には「気が狂った」とあるけれど、それは「困ったこと」だけではなく「常識を超えた」というニュアンスでも使われる。

そして、西洋思想史でも「創造と狂気」を結びつける考え方はあり、本書ではプラトン・アリストテレスから、デカルト・カントを経て、ヘルダーリンを転回点としてハイデガー、ラカンそしてドゥルーズへと歴史を追っていく。

いままでも病跡学という研究はあり、そうした学問上の名は知らなくても、いわゆる天才たちの「病」を論じたような話は聞いたことも多いだろう。昨年楽しんだ『ゴッホの耳』などでは、彼の病についての議論も書かれている。ただし、本書はそうした研究をさらに一段高い視点で分析している。

そこでまずハッとさせられるのが「統合失調症中心主義」という言葉だ。

病跡学では統合失調症を「理性の解体とひきかえに真理に触れることを可能にする、特権的な狂気」と捉えられえていたという。

この発想は、門外漢が聞いても「それは、ちょっと違うんじゃないか」と思うんだけど、そうした「業界内の合意」を解体して、創造と狂気の関係をもう一度解き明かしていくプロセスはスリリングだ。

デカルトが狂気を追放し、カントは隔離した。そして、ヘーゲルは狂気を乗り越えようとした。そういった視点で思想史を見ていくと、まったく異なった地図が見えてくる。それは、地図にはない地下水脈があらわになるようなプロセスで、何度も「アッ」と小さな声をあげてしまう体験の連続になるだろう。

統合失調症が「近代的主体が登場したあとにしか現れない」というように、狂気と創造の関係も時代によって揺れている。

ルイス・キャロルを自閉症スペクトラム障害ではないかという視点から「アリス」の世界を読み直していく中で、あの作品が言語の解体・再構築行為であることもわかる。この本は哲学史というより人類史を全く別の角度から編んだようだ。

そして、ふと思う。例えば音楽史を「創造と狂気の歴史」として再構築したらどうなるんだろう?音楽は古典の時代から大きな変貌を遂げてきたけど、実はその内部に自らを破壊したくなるような「何か」を潜ませていたのではないか。たとえば「不協和音史」だけでも、相当におもしろいはずだ。

とりあえず、今年読んだ「堅い本」では、暫定1位という感じの一冊である。