『悲愴』は希望の曲だった。ゲルギエフとウィーンフィル、2020年の来日。
(2020年11月13日)

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『悲愴』を聴いた。

11月に入って旧友から連絡があり、11/10のコンサートに行けなくなったという。ウィーンフィルに行こうかどうかは迷っていたので、譲ってもらって急遽サントリーホールへ行った。

『悲愴』は音楽史の中でも、特異な名曲だと思うし、好きなんだけど、ライブにはほとんど行ったことがない。強烈で、魂を鷲づかみにされるようなところがあって、いろいろと疲れる。かといって、疲れないような演奏に行くと、とても時間を無駄にしたような気分になる。

というか、最近は同じ理由でオーディオでも、あまり聴かない。

この曲は、そのタイトルと作曲者の直後の死去とも相まって、死を悼む曲のように感じられることもある。しかし、そんなことはどこにも書いてない。だから、演奏前に楽団からアナウンスがあり、「演奏終了後に黙祷を捧げます」と聞いたときは、ちょっと違和感もあった。

「今夜は、そういうつもりで来たわけじゃない」

しかし、終わってみればそれは杞憂、というか考えすぎだった。音楽を聴いて、何を感じるかは、それぞれに委ねられる。

終演後の長い沈黙。それは、単なる黙祷ではなかった。

2020年の11月に東京で、ウィーンフィルとゲルギエフが『悲愴』という曲を演奏したという事実の意味を、それぞれが問い直し、何かに祈る時間だったと思う。

『悲愴』は、冒頭からしっとりとした演奏で、激烈だけれど、破壊的ではない。慟哭はあっても絶叫はない。しかし、終楽章はグッと力をこめて始まる。それが、ゲルギエフの意図だったのだろう。

でも、決して弦楽器がすすり泣くこともなく、金管が吠えるわけでもない。この音楽で泣かせようなどという、野暮な目論見は指揮者にもオーケストラにもないはずだ。だから、静かに曲が終わった時に、改めて『悲愴』という曲を知った気がする。

この消え入るような結末は、決して悲しみでもないし、まして葬送でもない。これはチャイコフスキーからの問いかけなのではないか。起伏の激しいこの曲を聴けば、誰だって自らの体験や人生を重ねてしまうだろう。

ところが、静かに曲を閉じるときに、チャイコフスキーは問いかけている。

「さあ、あなたはこれからどうしますか?いま、生きているあなたは明日どうしますか?」

音楽を聴けるというのは、生きているということだ。『悲愴』は、その当たり前のことを問いかけて、生きる意味を再考することを静かに迫ってくる。

だから、黙祷は鎮魂でもあり、明日への祈りでもあった。もしかしたら、いやきっと『悲愴』は希望の曲なのだ。

ウィーンフィル、ゲルギエフ、そして演奏に関わったすべての皆さん、本当にありがとうございました。

やがて、穏やかな未来が、やってきますように。