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カテゴリ[ 世の中いろいろ ]

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言葉づかいの中でも敬語というのは日本語固有の問題なんだろうけど、最近気になっていて、多くの人が指摘しているのにあまり変化がないのが「過剰敬語」だ。僕の記憶では、このことを「かえって失礼」とハッキリ指摘していたのは、詩人の大岡信だった。もう20年くらい前ではないだろうか。「こだわり」というのも、広告コピーのせいで「いい意味」になってしまった、という話を書いていたりもした。
「それではご説明させていただきたいと思います」
これは「説明申し上げます」くらいで十分だと思う。過剰敬語だと大事なプレゼンテーションで、何か勢いがそがれるように感じるのだ。
最近、面白いなと思うのがフェイスブック内の言葉づかいで「シェアさせていただきます」というフレーズ。直接知らない人からの、情報だとこういう言葉になるんだろう。ある意味、人と人との距離感が素直に出ている気もする。
「シェア!」
「シェアします」
「シェアさせてください」
「シェアさせていただきます」
「シェアさせていただきたいと思います」
「シェアさせていただきたいと存じますがよろしかったでしょうか」
などというように、フェイスブック内でも距離感は微妙に使い分けられていくのだろうか。
そういえば中華料理の店などで大皿で料理が出てくると、店員が「こちらでおとりわけいたしましょうか」とか言うことがある。
「それではシェアさせていただきます」
もし、そんな言い方をしたら、その人はきっとフェイスブックユーザーに違いない。


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「タワー棟」を新築した。別に家を建てたのではない。自宅の仕事部屋の棚を増築したのだ。おそらく、その殆どは書物で埋まるだろう。
今の部屋はオーダーメイドの書棚とデスクがある。難儀なのは書籍の収納だ。どうにも大変になって来たので、写真のように棚を増やしたらいかにも「タワー棟」のようだ。
この部屋には写真に写っていない所にもう一つ本棚がある。別の部屋にもあと二つあって、この工事と一緒のタイミングでもう一つ増やした。
で、近所のレンタルルームに天井までの書棚が5つある。これがかなり埋まってきている。つまり書物の収納はかなり悩ましいのだ。どうしてくれよう、というわけで当然電子書籍の話が気になる。キンドルとか、どうなるんだろ。
電子書籍に否定的な人って、こういう悩みはないんだろうか。よほど広大な家に住んでいるのか、何か本を小さくする技術でも持っているのか。ドラえもんにあった気がするが、そういう道具が。
出版関連ビジネスが、電子書籍にいま一つ積極的でない理由もいろいろあるだろう。「紙は古い」で済むわけもない。自分だって本を書く立場だから、まあ事情はわかる。しかし、一人の読者としてはやはり「アトムからビット」になってもらわないと、収納のためにカネを使うのはいい加減にそこそこにしておきたいわけだ。
しかし、日本で電子書籍の展開が鈍いのは「日本」の問題というより「日本語」の問題なんだろうと思う。


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>> ローカル化する本棚。の続きを読む

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facebookをそれなりに使ってみて思ったのは、他愛のない楽しさといった感じだろうか。あくまでも自分の周り、という限定だが話題になっていることって、幾つかのパターンがある。
「シェアネタ」というのは、ある期間にパーッと広まる。最近だと「幼稚舎の入試問題」とか「乗りそう予報」みたいなゲーム。「錯視」とかもあるかな。そして「いい話」が少しあって、その他は「お笑いネタ」というもの。「大人のあいうえお」とか「正義の味方と悪の組織」みたいなのこれは、結構前に見たようなものがfbで復活していることもある。
イベント・リポートは、やっぱり食が多い。実は気になって、適当に名前を検索して知らない外国人の知らない人のウォールを片っ端から眺めたのだけれど、食べ物の写真は殆ど見ない。日本的なのかな、誰か教えてくれ。そして、外食よりも手料理が多い気がする。スポーツは観戦というより参加。なぜかfb上では皆ジョギングで走り回っているようだ。で、旅行。友人よりも家族が目立つかな。
で、世間話があって、レビューなど。ただ、こうやって考えてみると存外にレビューが少ない気もする。あまり、深いことを書き込まないことがお約束になりつつあるのかもしれない。
でも、facebookの空気感はやはり「いいね!」ボタンによるところが大きいと思う。これは「like」の訳なんだろうけど、「いいね!」を押すときはどちらかというと「good!」に近い感覚になっているように感じる。しかも英語にはない「!」が曲者で実際の気分以上に盛り上がっているような錯覚を起こしているんじゃないかな。


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>> 「いいね!」的世界で暮らす。の続きを読む

僕の十年以上年配の方と話していると「鶏肉が苦手」という方が稀にいる。どうやら、幼い頃に、首を刎ねるのを見たことが強烈な印象になっているという。僕なんかにとっては、全く別世界という感覚だった。
最近話題になった「普通の女子が鴨を絞めて、お雑煮にしたお話」というのを読んで、そんなことを思い出した。これは、自分には出来ない。言い訳はいろいろあるが、まずできないと思う。
彼女のことは知らなかったのだが、こんなインタビュー記事が紹介されていて、それも面白かった。そして、こんな言葉が印象に残った。
「そうなんですよ。私はお金が中心の世界からそろそろ降りたいなと。もうレースにはついていけないんですよ。見えてるゴールがあまりにも残念すぎるというか、全く私が望んでないものなんですよね。私はもっと等身大で人間らしく生きたいし。」
いろんなことを考えさせられるインタビューだった。
それは、時代の気分だろうし、似たような感覚になる人は多いようだ。しかし、その一方で、僕はまだ「お金が中心の世界」から降りることはできない。それは、お金が必要なことはもちろんだが、降りるほど強くはないからだ。
実は、お金というのは「弱者の味方」という面もあると思っている。


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>> お金をいじめてはいけない。の続きを読む

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橋下徹氏の現在の最大の功績は「文化人の能力」を明らかにしていることだと思う。テレビでの論争もそうなんだけど、その後にこういうダメな文章を残してしまうことで、ますます文化人の底を明らかにしていく。
これはある種の「ろ過プロセス」のようなものだ。ただ、そうやってダメな文化人がとかされた後に、澄んだスープになるのか、実はただの水でした、ということになるのかはわからないんだけど。
「反橋下」という人々が出てくるのは、それはそれで必然だと思うんだけど、じゃあなぜダメなのか。それは、正面から「意見」を言っていないからだと思う。
大雑把にいって「政策がよくない」のか「方法がよくないのか」という二つの切り口があると思うんだけれど、正面から政策の問題に切り込んでいないように見えるのだ。「都構想」や教育委員会の問題だってあるのに、すぐに「方法論」に逃げている。
そして「独裁的」だとかいう言葉になる。そうなのだ。選挙で勝ったということは民主的手続きで政策が支持されたのだから、どうしても文句が言いにくい。そこで手法にケチをつけるしかないのだろう。
しかし、それは実は多くの人々(有権者)の感情を逆なでしていることに気づいていない。そもそも日本人は「自分たちの多数意志」が政治に反映されないことにイラついてきた。かつての中選挙区制では政権が選べず、とりあえず政権を選んでも参院の半端な制度のせいで、前に進まない。
そのフラストレーションが、もっともわかりやすい首長選に向かっている。
つまり「自分たちで選んだ」という人が多数派なのに、「独裁的」「少数派切り捨て」という、「戦後民主主義文学」による批判は多くの人に嫌悪されるだけではないか。
民主主義は、多数が独裁するシステムだ。しかし、それを変えることもまた可能であり、それは有権者の仕事だ。半端な文化人への反発は、彼らがその大事な仕事にケチをつけて「自分たちの意見を聞け」と言っていることにある。だが彼らはそれに気が付かない。
何だか霞ヶ関より前に「文化人村」が解体されていくような気がしている。
■お知らせ:昨日の日経朝刊で新刊「世代論のわな」が紹介されました。詳細はこちらのエントリーで。


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「食べログ」をめぐるトラブルの話って、なんか安易に糾弾できないような気がしてる。
まあヤラセがよろしくないのはともかく、何というかあのサイトを気にしないと思いつつ、気になる自分がいたりするわけで。
それは、ある種の「病」じゃないかと思っている。あえていえば「不安と嫉妬病」とでもいうんだろうか。
食べ物を巡る情報は溢れていて、かつニーズも強い。ただ、誰もが自分の味覚に自信を持っていないのだろう。だから、食の情報なかでも点数化されたりランキングされるものが人気になる。
おいしいと思ったレストランに行った後で、ネットの情報を見る。それは、コンサートや芝居のあとに批評を見ることに似ている。共感できれば、自分の体験はより豊かなものとなっていく。
問題は、そうでない時だ。ここで「やっぱり味のわからないやつが匿名で言いたいこといってるや」と思う人が多数派ならば、食べログだってあんなに見られないだろう。そうなると恐る恐る、自分の納得度を上げてくれる情報を見たくなる。
その一方で、「もっとおいしいものを食べている人がいるんじゃないか」という、気持ちもあるだろう。偉そうに食べ歩きを誇っている人への妬みも起きてくる。価格の高い店だと、そうした妬みが行間から滲んでくる。


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>> 食べログという病。の続きを読む

携帯ニュースで日経[号外]というのがあって、それなりに重宝している。もっとも「そんなに慌てなくても」というようなニュースも[号外]になって、鉱工業生産指数や米国の失業率がコンマ何%か変化しても[号外]だったりする。
ただし、先日の号外は掛け値なしに号外であって、それは金正日の死亡を伝えたからだ。
これを、僕は一人で昼飯を食べようかという時に受信した。その日は、時間があったので仕事の合間に一人で散歩しながら昼飯を物色していたのだ。
しかし、それがよりによって「蒙古タンメン中本」とは。金正日と蒙古タンメン。この組み合わせは、一生忘れないかもしれない。
家でテレビを見ている時の臨時ニュースなどは、印象に薄くても、このような外出先でのニュースはなかなか忘れない。金日成が死んだときは、妻とともに軽井沢近辺を走っていて、ラジオの臨時ニュースで聴いた。この時も、唐突で驚いたものだ。宮崎勤の判決を旅行先のパリで知ったとか、一人でエヴァンゲリオンの映画を見て外に出てニュースを見たらメイショウサムソンが天皇賞に勝っていて、馬連をとったとかもいちいち覚えている。
これはいわゆるエピソード記憶なのだけれど、印象的な情報は、普段行かないようなところで知ると、その二つが連合してよく覚えられるのである。
実は、10年以上前にこれを応用して、メディアプランができないかと思っていろいろ考えていた。広告会社の研究開発部門にいた時のことだ。国際線の空港で広告を見るブランドは、それだけでグローバルな感じがするし、それは見る当人がそう思っているから。
そんな仮説でいろいろやりかけたのだが、気が変わって人事に行ってしまった。ただ、このような発想は、ネットの時代になっていろいろな広告技法となっている。
しかし「金正日と蒙古タンメン」。この妙な親和性にはかなわないだろうな。


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Feline Santas.png
今年のクリスマス・イブは都内のホテルがかなり混んでいるという記事を「そうかな~」と勘繰りつつ調べたら、本当にそのようだった。「一休.com」だと、都内で空室があるのは2つだけ。他のサイトでも似たような感じだし、関西もそうだった。
この時期になると、ホテルの空き具合をチェックしていた。泊まりたいのではなく、「世間のクリスマス」を知っておきたいだけなんだけど。いつから、とは覚えていないが、まあこの数年はかなり空いていて直前にはかなりレートが低くなっていたと思う。
僕の感覚だと、2000年前後にクリスマスの過ごし方は変わったと思っている。ちょうどイブの夜に通夜に行ったことがあった。さすがに、はしゃぐ気分になれず帰宅前に近所の韓国料理屋に行ったら、若い人のグループでいっぱいだった。その前後に表参道を歩いたこともあったが、回転寿司が大行列だったりもした。
ようやく80年代的なクリスマスは、終わったのだろうと感じていて、それはホテルの予約状況などにも表れていたと思う。
じゃあ、誰が泊まるのか。かなり高額な部屋も売れているわけで、若いカップルとは限らないだろう。ファミリーユースもあるかもしれない。たしかに今年の国内消費は、経済指標では説明できないことも多いのだけれど、これもそうだんだろうな。いや「絆」とかそういうんじゃなくて。
何だか気になるのだけれど、当日は東京を離れて山の中にいる。それは、まだ珍しい方で、毎年イブには外出していない。一応過去の手帳を見ると、書いてあるのは「有馬記念」とかなぜか「墓参」だったり。昨年に至っては24も25も白いまま。
実は、やっぱり街は賑わっていたのだろうか。何だかいきなりクリスマスが気になってきた。あとで、東京の様子でも誰かおしえて。


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クルマを買い替えることにした。欲しいクルマはハッキリしている。初めて買うメーカーなので、まず試乗に行くこととした。名門国産メーカーだが、一時期窮地に陥り、海の向こうからのカリスマ経営者によって再生された企業である。
試乗車がある場所を検索したら、隣の駅の店にある。土曜の午後に妻と訪れた。
入ると客が二組。一組は営業が応対。もう一組はサービスが応対していた。
シーン、としている。他に店員はいない。接客中の二人は、全くこちらを見ない。
奥の受付まで歩いて行った。誰もいない。
さて、どうしたものか。と思ったのだが、呼ぶ方法もない。
「ごめんくださ~い」
とは言わなかった。やがて、サービスの人がこちらを気にしている。試乗の件を伝えたら、やっと呼んでくれた。
「○○○を試乗したいのですが」
「すいません。今は置いてません」
「......」
HPの掲載の件を謝ることもなく、他の店を探します、とかもない。
さて、どうしようか。と思い、別の店に電話して試乗車を確かめてから行く。今度はちゃんと店員が出迎えた。当たり前なんだが、いい店に見えるのがすごい。
試乗して顧客カードを出されたので、とりえずメールアドレスだけ書いた。
その後、まったく連絡はない。
冷やかしと思ったのか、それならそれでもいいんだけど、この店もどうかなという気になる。
結局、3軒目でようやく真っ当な人に出会えたので、ここで買うことにした。
しかしここまでの仕打ちというか、ひどい対応でありながら買いたいクルマを作っているのはすごいと思うんだが、大丈夫なんだろうか。どうやらこの会社はかなりの国内シェアアップを今後狙っているという。
しかし「土曜の午後に客が来ても誰も出てこない販売店」をドンと構えているような状態で、シェアも何もないのでは。一応心配してみるのである。もうすぐユーザーになるわけだし。
「今こそモノづくりの底力を」
うん、とてもいいメッセージだと思う。CMもいいと思った。ところが現実は大変だ。
「今やモノ売りの底割れが」着々と進行しているようなのである。
がんばってほしい。いいクルマ作っているのだから。


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「博報堂を辞めました」という文章を読んだ。自分も同じ経験をしているのだけれど、経緯を書いたことはない。というか、辞めた頃に理由を聞かれるのだが、講演会向け、友人向け、得意先向けとかいろいろ言っているうちに、わかんなくなっちゃったのだ。まあ、理由がいくつかないと大きな決断はできないんだけど、段々と辞めた理由を忘れている気もする。
だから、ああやって宣言できるのって何かすごいなとか思う。ただ、途中の「エリート街道」というのは思わず苦笑した。博報堂がエリートかどうか、とかそもそも現代においてそんな街道があるのかという突っ込み以前に、あの言葉を一人称で使ったのは初めて見たからだ。
そのことはともかく、件の文は「肩に力が入った」感じで、それは一般的に褒め言葉ではないのだけれど、でもいろんな意味で読み手を黙らせるものがあった。それは、真摯にものを考えた人ではなくては、書けない文だからだろう。
それにしても、「博報堂を辞めました」って、妙に語呂が良くって「電通を辞めました」だとなんか違うな、と思ったら「七五調」なんですね。だから、前に五文字つけて「古池や 博報堂を辞めました」でも「雀の子 博報堂を 辞めました」でも、ほらいけるでしょ。って全然いけてないけど。
「秋深き 博報堂を 辞めました」うむ、なんか妙にしみじみする。
もちろん語呂がいいから辞めたわけじゃないんだろうけれど、新平さん、広い海へようこそ。


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