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明日から連休が始り、その間に即位と改元がある。で、気がつくとあちらこちらに「さようなら平成」とか「ありがとう平成」という言葉が溢れている。なんか変な気がするんだけど、何が変だかうまく言えない。

ああ、そうか。もうかなり前になるけれど、オリンピックの時に「感動をありがとう」が増殖し始めた頃の感覚に似ているのか。長野オリンピックの頃だと思うけれど、視聴者が「おめでとう」ではなく、「ありがとう」というメッセージを寄せるようになった。

選手としてみれば、そこで祝福ではなく感謝を受けたことになるんだけど、これは発話者つまり視聴者が、選手の物語を「自分の物語」に無意識のうちに変えちゃったんだと思う。

「おかげでチカラをもらいました」という発想は、謙虚なようでいてよく考えると自己中心的な感じもしないではない。

という理屈はその時の話で、ただ、今回の「ありがとう」はそれとも違うだろう。そして、「こんにちは令和」「ようこそ令和」「よろしく令和」などの言葉も飛び交っている。

あ、そうか。これって元号も擬人化されちゃったのか。というか「キャラ化」だ。

こういうのは、その多くが広告絡みのキャンペーンだったりするんだけど、まあ流通を中心にしていわゆる「年末年始」の手法だろう。干支みたいな扱いなのかもしれない。

まあ、何となく理解はできても個人的にはやっぱり変なんだけど、そんなこと言っても仕方ない。とにかく休みだ。元号が何になっても、好きなことするぞ。

で、一応自分だったら「平成」に対して何と言うんだろう?と考えてみた。「ありがとう」は違うんだけど、「お疲れさま」でもないし。

まあ、平成という時代に対していろいろ言う人はいるけど、自分的には結構楽しい30年だったし、ポジティブには捉えられるわけで、まあこんな感じかな。

「よくやった、平成!」

さあ、連休だ。皆さま、よい休暇を。



あけましておめでとうございます。

やたら「平成最後」が連呼されているけれど、それはもちろん日本だけの話なわけで、そもそも個人的には元号で時代を感じるわけでもない。昔から紅白も観ないし、今年からはおせちも年賀状も離脱したので、もう「勝手に正月廃止」くらいの勢いだ。

とはいえ、時間はあるのでテレビとかは一応気にするけれど、いやしかし再放送が増えたなあ。それでも、例年BSを含めてNHKだけは録画しておこうかという番組もあるけど、今年はこちらも再放送が多くてほとんど録らなかった。

考えてみると、おせちって作り置きの料理だし、それを食べながら作り置きの番組を見るっていうのも、どこかで飽きるよな。

生放送の箱根駅伝の視聴率が伸びるのもよくわかる。

しかし!今年正月の生放送と言えば、「冬休み子ども科学電話相談」だ!NHKの、AM第一放送である。一頃青息吐息のラジオだったけれど、ネット配信のおかげでジワジワと戻している感じだ。

「夏休み子ども科学電話相談」は、とても好きで、いまでもよく聞いている。迂闊にも知らなかったのだけれど、一昨年12月から「冬休み」も始まり、今年はついに三が日にも進出だ。というわけで、今年の正月放送の最大の目玉は、個人的にはこの電話相談だったのである。 >> NHK「子ども科学電話相談」は、なぜ魅力的なのか?の続きを読む



やっと、5月。なんか年内に書ききれない感じになってきた。

この月はいろいろと面白い本があって、まずはバーナデット・マーフィー『ゴッホの耳』(早川書房)は、あの画家の「耳」がどのように削ぎ落されたのか?という謎に挑む。いや、これはミステリアスであり、かつ調べていくプロセスも面白く、しかもゴッホという画家の本質にも迫っていく。今年読んだ中でも、もっとも読みごたえがあった本の1つ。

海外のノンフィクションで、スティーブン・ジョンソン『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』(朝日新聞出版)は、『世界をつくった6つの革命の物語』の続編だけれど、これは2冊とも読むのがお薦め。楽器のキーボードと、いま使っているパソコンなどのキーボードの関係とか読むと、音楽というものがいかに技術発達と不可分な関係にあるかよくわかって、その辺が美術とはちょっと違うんだなと感じたり。

日本の小説では古処誠二『いくさの底』(KADOKAWAが、ちょっと意表を突いた設定で最後まで読ませるミステリー。第二次大戦のビルマの村における日本軍の中で起きる事件なのだけれど、これがある種の密室ミステリーにもなっている。雰囲気も含めて面白かった。 >> 【2018年の本から/5月】やっぱり『ゴッホの耳』は傑作だと思う。の続きを読む



7月6日におこなわれた、オウム真理教に関する死刑執行の時は、ちょうどミーティング中で、昼前になってニュースを見て驚いた。

いままで見聞きしたさまざまな事件の中で、何が一番インパクトが強かったか?それは人さまざまだと思うけれど、個人的には1989年のベルリンの壁の崩壊と、1995年のオウム真理教事件が双璧だ。

どちらも「人の為したこと」であり、それまでの前提を引っ繰り返されたことが強い印象だった。

死刑制度については、いろいろ思うところがある。ただし、この7人の執行が行われた途端に、唐突に疑義を唱えたり抗議することもあまり理解しにくい。

刑法の見直しを主張して活動している人ならともかく、個別の執行自体に疑問を呈したら、司法判断の否定になる。恣意で行政が執行しなければ、それもおかしい。これは、日本人が容認してきた制度の帰結で、最終的には立法府のテーマになるだろう。

しかし、それでも今回の報道を見て、疑問が残った。そもそも、死刑はここまでショー化されていいのか。それは多くの人が思っているだろうが、なぜそうなったんだろうか。

法務省の文書を見ると、平成10年(1998年)11月から「死刑執行の当日に,死刑執行の事実及びその人数を公表」となり、平成19年(2007年)12月から「 死刑執行の当日に,執行を受けた者の氏名・生年月日,犯罪事実及 び執行場所を公表」とある。 >> 最期までオウムをショーにしたメディア。の続きを読む



バイエルン国立管弦楽団 特別演奏会 

指揮:キリル・ペトレンコ ピアノ:イゴール・レヴィット

2017年9月17日 東京文化会館 大ホール

ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 op.43/ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」より「愛の死」(アンコール)/マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調

 

演奏も鮮烈だったけれど、それ以上に印象的だったのがオーケストラの表情。

それって、「音楽の表情づけ」の話ではなくて、出演者の「顔」そのものがとても幸せそうだったということだ。

1階の8列目ということもあったけれど、フィナーレの最後に近づいたころ、トランペット奏者の顔が微笑んでいることにきづいた。ふと見ると、表情がほころんでいる奏者があちこちにいる。

管楽器奏者は笑いながら吹けないが、休んでいる時になぜか嬉しそうだ。終演後に指揮者が去り、コンサートマスターが帰るしぐさを見せると、弦楽器奏者はプルトの隣り同士でハグ。舞台も客席も、みんなが「幸せになるコンサート」だった。

そして、その幸せの源はペトレンコだったと思う。

指揮は時には相当大胆で、左手を「野球の3塁コーチ」のようにグルグル回したり、金管に向かって「両手で黒板拭き」のように振ることもある。

ベルリンフィルのデジタルコンサートホールで見ると、顔芸も相当だ。感情のうねりを最大に表現しながら、アンサンブルを破綻させることなくグイグイと進める。

ラトルのような主体性を引き出すおおらかさや、アバドのように憑依された凄さとも違う。いつも、自分が「音楽の真ん中にいる」という意味では、雰囲気や音作りは全く異なるけれど、ある意味カラヤンに近いのかもしれない。

ベルリンフィルの次期指揮者ということもあって、ついついそんな比較をしてしまうが、それはあまり意味がないだろう。

ペトレンコは、空間を共有する人を幸せにする「何か」を持っている。また1楽章の最後の方で、ホルンのゲシュトップをキッチリ鳴らすなど、スコアの読み込みもしっかりしている。「なにかしてくれる」期待感があるから、また聴きたくなる指揮者だ。

ただ、終わった時の興奮が揮発していくスピードが意外と速いようにも感じる。上野の山を降りる頃には、「どこがどうだったか」がスーッと消えていく。個人的にはヤンソンスやバレンボイムが「揮発が遅い」指揮者なんだけど、それは良しあしというよりもまさに個性なのだろう。

なお、ラフマニノフのあとにレヴィットが弾いた「トリスタンとイゾルデ」が、魂を抜かれるような演奏だった。このアンコールに唖然茫然とした人も、また多かったんじゃないだろうか。