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トヨタの豊田章男社長が、米国バブソン大学卒業式でおこなったスピーチが話題になっている。卒業生として、かつ世界を代表する企業のCEOとして何を話すのかと気になったけれど、多くの人が指摘しているようにスピーチとしての骨格から、ちょっとしたジョークにいたるまで、たしかによくできている。

ライターはいると思うけれど、「自分の言葉」で話しているかどうかは、誰が見てもすぐわかるだろう。

で、この動画を学生に見せようと思って見直して気づいたのだけれど、「コミュニケーションの基本」にとても忠実であることにきづいた。

その基本とは何かというと、「SHARE=分かち合い」だ。どんな流暢なプレゼンテーションでも、対象者と「共有する何か」がなければコミュニケーションは成立しない。コミュニケーションを「伝えること」と定義している辞書は多いが、それならtransmissionでもいいだろう >> 豊田章男氏の「ドーナツ」スピーチが、構造的に優れているなと思った理由。の続きを読む



テレビの視聴時間が「年代に比例して上がる」のはもう常識で、若い世代が見ないのは「ネットがあり、スマホがあるから」というのも当たり前の話になっている。

で、改めて考えてみようと思って青山学院大学の講義で、学生に聞いてみた。

少人数の講座なので、4~5名で6つのグループに分かれて「なぜ自分たちはテレビを見ないのか」というテーマで議論してもらった。

「いくつか理由を列挙した上で、最大の理由をグループで1つ選ぶ」という指示にした。「もっとも大きな理由」が気になったのだ。

「いや、私は見ます」という人もいないので、議論はスムーズだったんだけど、結果は意外だった。

6グループのうち、5グループが「家にいないから」を最大の理由に挙げたのだ。あと1グループは「コンテンツがつまらないから」だ。僕は「コンテンツ」が最大の理由だと何となく思い込んでいたのである。

サンプルは少ないかもしれないけど、この結果は結構本質を捉えているようにも思う。というのも、「複数理由を挙げて議論している」からだ。そして、どのグループも「家にいない」vs.「コンテンツがつまらない」決勝戦になり、「やっぱそもそも家にいないからね~」となるのだ。

ちなみに、スマートフォンなどでテレビを見るアプリを入れたりとか、そういう意欲はないようだ。そこまで見たい感じでもない。

で、「テレビの危機」というのはよく言われるけど、実は3つくらいの側面があることに気づく。 >> 学生がテレビを見ない最大の理由は「つまらないから」ではなく…。の続きを読む



紙の新聞をやめて、電子版のみになって相当経つ。紙面よりオリジナルの記事や情報がある上に、検索・保存もどんどん使いやすいので、紙の理由がない。ひとつ困ったのは猫のトイレ掃除だけど、幸い集合住宅なので譲ってもらいどうにかなった。その頃調べて驚いたのは、「新聞紙」をアマゾンで売っていることだ。

このレビューが傑作で、「製品の価値は使用者が決する」というマーケティングの小噺に最高かもしれない。猫や犬はもちろん、使い道はいろいろあるのだ。最近だと、印刷前の白紙のものも売っている。

というわけで、掃除の時などに紙の新聞を見ていて感じるのだけれど、なんかものすごく情報密度が薄い。何でかな、と思うと本文の文字は大きく、見出しはさらに大きい。ただ、その分中身は薄い。

大きな事件のあとにコンビニなどで新聞をちらりと見ると、「こんな派手な見出しになっているのか」と驚く。一般紙の見出しはドンドン大げさになっている。

そして、紙を見ないものにとって、この見出しがなんだか馴染めない。だって、事実を伝えるのにあんなでかい文字は必要なのか?

そして、普段紙の新聞を見ないと、あの見出しが暴力的に感じられるんじゃないだろうか。自分の実感でも、コンビニの新聞棚がなんか不気味に見えてくるのだ。オリンピックや米朝会談の翌日など、「ウワ、なにが起きたんだ」という感じで、むしろ引いてしまう。

ちょっと妙な仮定になるけど、もしテレビが「大ニュースの時は大声になる」としたらどうだろうか?それは、変だと思うだろう。まさに暴力的だ。速報を出したり、L字にしたり、あるいは通常番組やCMを飛ばしたり、「大ニュース」の伝え方はいろいろだ。

ただ、紙の新聞は「文字と写真を大きくする」ことで表現している。

ニュースをインターネット、特にスマートフォンで見ている若い世代の人は、このような「大きな文字で重要性を表す」ということにそもそも馴染みがない。というか、僕のように、かつて紙の新聞を読んでいたものでさえ違和感があるのだから、全世代で見てもそうなっていくんじゃないか。

で、普段読まない者が紙の新聞を読むと、あの見出しなどは編集が勝手に騒いでいるように見えてくる。

「ほら、これを食え!」と言われてる感じで、そういうのを喜ぶ人はいないんじゃないか。

新聞の部数が減るのと反比例するように、紙の見出しは巨大化する。それって、客の減った店が大声で呼び込みしているようなもので、客は引くのが当たり前だ。

「取材/報道」という機能と組織はこれからも必要だと思うが、提供の手段としての紙の新聞は、そういった「表現形態」としても復権はしないだろう。

なんか、ふと寿司屋を連想した。ネットのニュースはいかにも回転寿司的だ。ただ、回転寿司が増えても、高級店はまたしっかりと存在するように「質の高いニュース」にカネを払う人はいるはずだ。

でも、あの「でかい見出し」では、それも難しいだろう。新聞の未来は、そうした当たり前を見直すことから始まるんじゃないだろうか。

 



あけましておめでとうございます。

2018年は平成30年だけれども、これは来年には「予定された終了」となる。そして「どこかの時点で次の元号が発表されて、それを待つ」という、日本人にとっては初めての体験をするわけだ。

ある報道によると、新元号の漢字は一文字の上限を15画として「国民の元号離れを防ぐ」という。何かが変だとは思うけれど、もうしょうがないのか。それにしても、最近の元号を見ても、明治の前の「慶応」の慶の字が15画。何度も書いた経験がある身からすると、あれでも十分面倒だと思う。

しかし、「周年」というのはメディアが大好きだ。昨年の年賀状のCMも平成回顧モードだったけれど、そもそもそれに共感できるのは一定の年齢以上ということになる。先帝の崩御と平成への改元を「社会的事件」として記憶しているのは、せいぜい当時10歳くらいから上だろう。つまり、いまの40歳以上ということではなういか。

ただでさえ若い人が年賀状を書かないのに、平成回顧をしてもそれは中年以上に受けるだけだと思うけど、年明けからオールドメディアは早くも回顧モードだ。

そして、さらに明治150年というさらに昔のことが引っ張り出されている。 >> 明治とか、平成とか「回顧モード」ばかりにしたくないよね。の続きを読む



2017年が去ろうしている。

1年を振りかえる、といっても人間の記憶はついつい最近のことが印象に残る。何かの番組で「今年活躍した人」というアンケートをやっていたけど、大谷翔平が2位だった。

ケガなどもあり、もっといい成績の年はあるけれど、メジャーへの挑戦がニュースになったことで錯覚が起きたのだろう。

そんなこともあるので、今年印象に残った、というか無理やり残されたのは、相撲取りが右往左往する姿だった。

もう、あほらしくなって、普通のニュースすら見なくなったくらいだけど、ネタ枯れの年末まで引っ張ってNHKのトップを取るのだから、相撲協会も大したものじゃないか。

あの暴行によって、結果的に相撲取りは電波を、というかマスメディアを占拠した。

いい悪い以前に、まずは認知をとる。古典的メディア戦略だけど、あきれると感心するは紙一重だよ。

そういうわけで、今年終盤のメディアは相撲取りが怒涛の寄り身を見せたわけだが、別のところから、メディアの支配を狙っている奴らがいる。

猫だ。 >> 今年メディアを支配したのは、猫と相撲取りだった~『猫はこうして地球を征服した』の続きを読む