先週の木曜にアレクサに挨拶したら「今日はもっとも卒業式が多い日のようです」とか言って「仰げば尊し」を歌いたがっているので、聞いてあげた。卒業式にまつわる音楽も、相当多様化していて、アレクサに「旅立ちの日に」をリクエストしたら川嶋あいだった。

そうかあの合唱曲をSMAPがNTTのCMで歌ったのがもう10年以上前で、十分に古典なんだよな。

あの曲を聴いて思ったのは、「卒業式のツボ」をついてるなあということだった。メロディーラインから、ハーモニーに至るまで「卒業シーズンの曲」の王道だ。クラシックでいえば、パッヘルベルのカノンから、ブルックナーの5番のアダージョまで「卒業式っぽい」メロディーはたくさんあるわけで、でも別に作曲家は日本の卒業式なんか知るわけじゃない。

でも、日本人の心の中に「卒業式っぽいメロディー」はちゃんと存在していると思う。

基本的は長調だと思うけど、「明るい/悲しい」というような単純なものじゃないし、「おめでとう」と言われるからといって、おめでたい音楽ではない。

あえて言葉にすると「切なさ」とでもいうんだろうか。式で歌われる合唱曲から、卒業をテーマにしたらポピュラーミュージックまで、その辺りが「卒業シーズンの曲」の共通点なんだと思う。

今年も3月に入ってから、ラジオなどで「卒業シーズンの曲」を聴く機会が多かった。考えてみると、この「卒業シーズンの気分」というのは、ちょっと大げさだけど戦後の日本が生んだ「誰もが共有できる文化」の最たるもんじゃないだろうか。 >> 卒業シーズンの曲って、日本人の共通記憶だよなぁ。の続きを読む



今日は宝塚宙組のトップスター、朝夏まなとの最後の舞台だ。

妻は友人と、映画館に行っている。ここ最近宝塚の公演最終日は東宝系の映画館でライブビューイングをしているのだ。いったい誰が考え付いたのか、阪急グループおそるべし。

今回のようにトップのラストデイともなれば、チケットもそれなりの稀少性があるようで、そりゃ、満席になる映画もそうそうないんだから興行的にも十分ありなんだろう。

最後の舞台は「神々の土地~ロマノフたちの黄昏~」と言うタイトルで、上田久美子が作・演出だ。僕は、10月19日の公演を見たが、歴史のダイナミズムと独特の切なさが絡み合ういい舞台だった。

宝塚は、さほど頻繁に観るわけでもないのだけれど、上田久美子さんの作品はとても楽しみにしている。

2014年の「翼ある人々」に驚き、翌年の「星逢一夜」に心打たれた。年初の「金色の砂漠」にはやや既視感があったのだが、彼女の書いた舞台については観るたびにブログに感想を書いている。

で、今回も、書こうと思いつつ忙しかったために気づいたら千秋楽になってしまった。

上田久美子さんは、歴史とりわけ西洋史については深い理解があり、芸術についても優れた視点を持っていると思っている。 >> 熱くて冷ややかなロシア。上田久美子の「神々の土地」~宝塚宙組の続きを読む



なんか、時間が経ってからコンサートのことを書くのも間が抜けているのだけれど、10月14日の新国立劇場「神々の黄昏」は、引っかかる公演だった。

歌手陣は総じて堅調だったのだけれど、オーケストラが乱調だった。というか、ホルンがブッ飛んでた。舞台裏のいわゆる「ジークフリートの角笛」のソロが、音を外しまくっていて、それも並の外し方ではない。

一幕でもひどく休憩時間に友人と呆れていたのだが、三幕でも相変わらずだった。

あれは、たしかに難しいし、重箱の隅を突っつくようなことは野暮だとは思う。

でも、あの動機は楽曲の核だ。重箱の真ん中にある料理が腐っているような話じゃないか。高音域が怪しいのはまだわかるけど、FからCへの跳躍ができないというのは、どうしたんだろう。

本来のホルン奏者が舞台裏で拉致されて、どこかの高校生が吹いているんじゃないか?とかそんな妄想が広がってしまう。

オーケストラは読売日本交響楽団で、東京では「安定したオケ」というイメージがある。

それだけに、何が起きたのかよくわからないまま演奏は終わってしまった。この日の読響はホルンだけではなく、アンサンブルが不安定だった。

音程やリズムも不揃いで、明らかにずれていることも多い。2年ほど前に聴いたシベリウスのコンサートを思い出すと、この不調は謎だ。 >> 日本のオーケストラはうまくなったのか?の続きを読む



バイエルン国立管弦楽団 特別演奏会 

指揮:キリル・ペトレンコ ピアノ:イゴール・レヴィット

2017年9月17日 東京文化会館 大ホール

ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 op.43/ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」より「愛の死」(アンコール)/マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調

 

演奏も鮮烈だったけれど、それ以上に印象的だったのがオーケストラの表情。

それって、「音楽の表情づけ」の話ではなくて、出演者の「顔」そのものがとても幸せそうだったということだ。

1階の8列目ということもあったけれど、フィナーレの最後に近づいたころ、トランペット奏者の顔が微笑んでいることにきづいた。ふと見ると、表情がほころんでいる奏者があちこちにいる。

管楽器奏者は笑いながら吹けないが、休んでいる時になぜか嬉しそうだ。終演後に指揮者が去り、コンサートマスターが帰るしぐさを見せると、弦楽器奏者はプルトの隣り同士でハグ。舞台も客席も、みんなが「幸せになるコンサート」だった。

そして、その幸せの源はペトレンコだったと思う。

指揮は時には相当大胆で、左手を「野球の3塁コーチ」のようにグルグル回したり、金管に向かって「両手で黒板拭き」のように振ることもある。

ベルリンフィルのデジタルコンサートホールで見ると、顔芸も相当だ。感情のうねりを最大に表現しながら、アンサンブルを破綻させることなくグイグイと進める。

ラトルのような主体性を引き出すおおらかさや、アバドのように憑依された凄さとも違う。いつも、自分が「音楽の真ん中にいる」という意味では、雰囲気や音作りは全く異なるけれど、ある意味カラヤンに近いのかもしれない。

ベルリンフィルの次期指揮者ということもあって、ついついそんな比較をしてしまうが、それはあまり意味がないだろう。

ペトレンコは、空間を共有する人を幸せにする「何か」を持っている。また1楽章の最後の方で、ホルンのゲシュトップをキッチリ鳴らすなど、スコアの読み込みもしっかりしている。「なにかしてくれる」期待感があるから、また聴きたくなる指揮者だ。

ただ、終わった時の興奮が揮発していくスピードが意外と速いようにも感じる。上野の山を降りる頃には、「どこがどうだったか」がスーッと消えていく。個人的にはヤンソンスやバレンボイムが「揮発が遅い」指揮者なんだけど、それは良しあしというよりもまさに個性なのだろう。

なお、ラフマニノフのあとにレヴィットが弾いた「トリスタンとイゾルデ」が、魂を抜かれるような演奏だった。このアンコールに唖然茫然とした人も、また多かったんじゃないだろうか。



反田恭平ピアノリサイタル 2017年9月1日 オペラシティコンサートホール

武満徹:遮られない休息/シューベルト:4つの即興曲 op.90, D.899/ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ/リスト:ピアノソナタ ロ短調 S.178

【アンコール】ショパン練習曲集op.12-1/ドビュッシー:ベルガマスク組曲より「月の光」/シューマン(リスト編曲)「献呈」

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聴こうと思いつつ、うっかりするとチケットが入手できない人気で、この全国ツアーも完売だったようだ。11月に同じホールで小菅優のリサイタルがあり楽しみにしているのだが、さっき確認したらまだ席があった。

日本人ピアニストとしての人気は既にトップなのだろう。客の95%は女性で宝塚並みの比率で、平均年齢は歌舞伎座よりは若いけど想像以上には高い。

単純に世代的に見ると「無数の母に支えられた」感じで、もしかしたら羽生結弦が出るリンクはこんな感じなのか、そういえばジャニーズも人によっては自分の同世代が追っかけてるよな、とか。

いかん。マーケティングの仕事に関わっていると、開演前から「ムダな仮説思考」だけがアタマに渦巻く。

最後に供されたメインデッシュはリストのソナタだが、4年前に来日したユジャ・ワンが直前に変更した。それなりの覚悟がいる曲なのだろう。彼の今夏のツアーでも、札幌と東京だけだ。

でも、。そのリストは拍子抜けするどに、淡々として、でも堂々としている。難局に「挑みかかる」という力みがなくて、「さてどうするんだろ」と構えている自分が、いかに「普通の人」なのかと、思い知らされる。

いっぽうで、シューベルトは驚くような一瞬がたびたびあったけれど、後半になって少し集中力が落ちてきたように感じた。シューベルトの曲って、音の核が限りなく散らばっていくような感じで、ともすると「生きている鰻をつかまよう」と苦闘しているような風情になってしまう。

「鰻を好きにさせておきながら逃がさない」ような感じが、達人のシューベルトにはあるんだろうけど、まあそれはいつかの話だろう。
シューベルトをリストのように弾いて、リストをシューベルトのように弾けちゃう。そんな印象かな。

そして、一番驚いたのは、アンコールの「月の光」の冒頭だ。譜面の音を出すだけなら、誰だってできそうな曲で、息を呑むような響きが生まれる。ホロヴィッツが弾く「トロイメライ」を思い出したけれど、こういう人を天才というのだろう。

で、気になることは2つあって、まず彼はこれからどんな曲を弾いていくのか。いまはロマン派中心で、ベートーヴェンやモーツアルトはまだ想像しにくいのだけれど、バッハなどはおもしろいかもしれない。ただ、どんな道のりをイメージしているんだろう。

もう1つは、コンサートをどのような空間にしたいのか?ということかな。この日は誕生日ということもあって、ドビュッシーの後にあの「マングース」の着ぐるみが出てきて、MCがお祝いを述べて、来年のツアー概要が発表された。

本人の挨拶もあって、和やかな空気になっていたのだけれど、この日は「ファンの集い」だったのか、「コンサート」だったのか。
往年の「吉野家コピペ」のように、「刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか」とまではいかないけど、そういうことについてはマネジメントの人たちが考えることだろう。

しかし、あらためて気づいたけど、女性客って「ブラボー」って言わないんだなぁ。