カテゴリ[ 広告など ]
(2016年9月26日)

カテゴリ:広告など
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「広告代理店」という言葉を嫌う人がいる。「広告会社」というべきだ、というのだが今一つ理由が分からない。ネガティブなイメージがあるから、というらしいが僕はピンとこない。

いまは現役を引退しているような年代の人がそう言い出したようで、知らないうちに「広告会社」という表現が増えた。

しかし、そうした言い換えは、本質を見失う。自分の仕事に誇りを持っていれば「広告代理店」でいいのはないか。もちろん、事業主体となるビジネスが増えたということもあるだろうが、そうなったら、そもそも「広告会社」ではないだろう。

僕は文章中では、文脈に応じて「広告会社」とも「広告代理店」とも書く。ただ、自己紹介で経歴をいう時は「広告代理店」という。なんか結構響きが好きなのだ。

だって、「人ができないこと」をするってことでしょ。それはまさにプロフェッショナルでなくては務まらない。それに扱いが1兆円を超えても「店」というのも何だかいいじゃないか。

代理店という言葉は、agencyの訳語だろうが、他には旅行代理店ぐらいか。そして、世界で最も凄みのあるエージェンシーは、おそらくCIAだろう。 >> 広告「代理店」であること。の続きを読む



電通のデジタル広告を巡る話が慌ただしい。9/23の日経朝刊が「インターネットでの広告掲載について、不適切な取引をしていた」ことを報じていて、間もなく記者会見が始まる。

ある程度前から話は出ていたので、社外でも知っている人は多かったようだ。

金曜16時の発表から逆算するように、休日前の21日に豪州のメディア、翌日はFTが書いて、今朝「親会社」の日経の記事という流れだ。

FTは”overcharging”という表現になっているが、「実際に出稿したよりも多くの金額を請求した」ということだと思われる。

実際の状況は発表されるまで不明だが、こうした不正は広告ビジネスの根源を揺るがすことになるので、影響は相当広がるだろう。

広告の出稿は、広告代理店が依頼を受けてメディアを購入して出稿する。

これが、紙媒体であれば「エビデンス(証拠)」として、掲載紙誌を直接持参すればいい。会社の封筒はよくあるが、代理店の場合大きな紙袋まであるのはそういう理由もある。

これがラジオやテレビになると、もちろん持っていくわけにはいかない。相当な本数が全国で流れるのだから「やりました」というのを信じるしかない。それは、ネットも同じだ。

いわば「納品」を視認できないわけなのだから、広告ビジネスは高いモラルが求められる。ところが、こういう事件は過去にもあった。 >> 電通の「地下空洞問題」と、過去の不適切事件。の続きを読む



(2016年6月2日)

カテゴリ:広告など

IMG_1684昨日、花屋に立ち寄った。アジサイもきれいだったが、一足早くヒマワリだ。夏を先取りするのはいいが、わざわざ梅雨を急ぐこともないし。

で、昼間にテレビを見ていて、シーブリーズのCMで、「ああ、福士蒼太?でも花王に出てなかったっけ?」と思って調べようとして、気づいた。そうだ、中川大志じゃないか。

昨年も同じようなことをしていた気がする。

「福士蒼太 中川大志」で検索すると、山ほど比較写真が出てくるけど、顔つきだけじゃなくて、CMタレントとしてのポジションが似てるんだろうな。

タレントの選定って、結構シンプルで、福士蒼太の場合はもちろん「爽やか」「フレッシュ」がキーワードだろう。花王のリセッシュ、アサヒの三ツ矢サイダーなど、実にわかりやすい。Fit’sに出ていたこともある。

中川は今年の「AOKI」のフレッシャーズキャンペーンに出ている。そう、おじいさん・おばあさんまで出てくるんだけど、ああいうのがリアルなんだろうなと思った記憶がある。で、調べてみたら福士は少し前に「はるやま」のフレッシャーズキャンペーンだったようだ。やっぱ、フレッシュがカギなんだ。 >> 夏CM界の守護神、福士蒼太系。の続きを読む



五輪の新エンブレムが決まった。まあ、万人が納得するデザインなどできるわけもないのだから、決まったものを大切に育てていくということだろう。それにしても、この選考で感じたのは、いわゆる「グラフィックデザイン」が転機、というより終焉を迎えているのではないか?ということだった。

一般的にグラフィックデザインというと、二次元上の作品を指すが、メディアも多様化ししているので、正確には「平面デザイン」と言った方がいいのかもしれない。紙を中心とした媒体を念頭に置いたものである。

当初の佐野研二郎氏の案は、類似性が問題になったが、個人的に感じたのは「グラフィックデザイン界の呪縛」が強いなあということだ。一方で、当時の審査員の顔ぶれを見ればあの作品が選ばれたことも理解できる。

僕が気になったのは、東京のTと、日本の日の丸についてのこだわりが強すぎるのではないか?ということだった。特にTの文字をモチーフにすると水平と垂直が強調される。それは、どうしてもスポーツの躍動性とは離れていってしまうように感じた。 >> 五輪新エンブレムで感じた、「平面デザイン」の終焉。の続きを読む



マンションの広告のポエム化している、というのは結構前から話題になっているが、揶揄したような記事や、エリアごとの分析はあっても「なぜポエム化するか」というそもそもの話にはあまりなってないようだ。

先日、とある広告制作者とこの話をしていたら、結構広告表現の本質に迫って、やがて哲学的な話になってなかなか面白かった。

結論からいうと、マンションや住宅の選択基準は、「スペックまみれ」になっているので広告表現はポエム化するしかない、ということではないだろうか。

家を購入する過程は、家族の人数や年齢、予算、立地など様々な条件をクリアしていく過程でもある。そもそも広告見て「じゃ、買ってみっか」とはそうそうならない。

一方で、広告コピーとは「価値の提示」と「意味の付与」が最大の役割だ。この場合、商品選択の際に「スペックでガチガチ」になってしまったら、広告クリエイティブの余地がない。

だから、スペックだけが選択理由にならないような商品は、広告が活躍しやすい。

たとえば「ポカリスエット 広告」でグーグルの画像検索をしてみる。ビートたけしがいて、ダルビッシュがいる。そして、いまの広告は母と娘だ。昨年は、女子高生を主役にした「潜在能力をひき出せ」が話題になったが「汗は体くれたサインだ」という時もあった。ポカリスエットの成分は同じだが、広告が価値を提示している。

その製品の位置づけを、つまりブランドポジショニングを明示しているから、「ポエム」にはならない。

「いつかはクラウン」というコピーがあった。人生におけるクルマ選びの終着点ということを上手に表現している。この時代は、クルマ選びも今ほどスペックまみれにはなっていなかったのだろう。エンジンやシャシーとかを超えて、上手に意味を付与したのだ。 >> マンションポエムの話をしてたら、広告の本質論になってしまった。の続きを読む