さてさて、3月になった。

リストを見てみると、そうだそうだ奥泉光『雪の階』(中央公論新社)ではないか。これは、そうとうやられたなあ。昭和初期を舞台にした長編だけれど、ミステリーというには収まりきらないスケールで、歴史小説というにはファンタジックだ。1年を振り返っても、フィクションでは一番響いたかな。詳しくはすでに、こちらのブログに書いてある。

ノンフィクションではヴィンセント・ディ・マイオ『死体は嘘をつかない』(東京創元社)がよかった。筆者は親子2代にわたる検死医で、多くの犯罪に立ち会い、裁判にもかかわったきた。単なる「犯罪小説の裏側」にとどまらずに、事件を通じて米国社会の構造が浮かび上がって来る。検死に関わる話は小説にも多く、「またかな」という気もしたけれど、この辺りの複層的な厚さが類書とは全く違った。

佐藤賢一『遺訓』(新潮社)は、西郷隆盛を描いているのだけれど、主人公は沖田総司の甥であり、カギを握るのは庄内藩に連なる人々。佐藤賢一ならではのスケール感があり、なんか「日本の歴史専門です」みたいな小説家は、ちょっとつらいんじゃないかな、と余計な心配をしてしまう。 >> 【2018年の本から/3月】『雪の階』から新訳の『アンナ・カレーニナ』まで。の続きを読む



というわけで、本日は今年2月に読んだ本から。

振り返ってみると、最も印象的なのはヒュー・マクドナルド『巡り逢う才能』(春秋社)だった。1853年という1年の間に欧州で起きた音楽家たちの劇的な邂逅を描いた一冊だ。若いブラームスに、悩めるシューマン、胸を張るワーグナー。この本については、こちらのブログでも書いている。ただ、クラシック音楽に関心がないとととっつきにくいだろう。

で、意表を突かれて面白かったのが、ダン・アッカーマン『テトリス・エフェクト』(白揚社)だ。あの有名なゲームは、1984年に旧ソ連で生まれた。このタイミングが絶妙で、やがて来るペレストロイカやらなにやらの嵐の中で、世界規模のライセンス争奪戦になる。

冷戦時代のスパイ小説、というより下手なフィクションより全然面白い。

門井直喜『銀河鉄道の父』(講談社)は直木賞受賞作品で、高評価に付け加えることもない。ただ近年のこうした賞はどこか「功労賞」みたいなこともあるけれど、この受賞はまさに作品に対してもものだろう。同じ作者の『家康、江戸を建てる』(祥伝社文庫)も、お薦め。

長谷川晶一『幸運な男――伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』(インプレス)は、「ノンフィクション読後感大賞」とかあったらトップ争いをするんじゃないだろうか。スワローズファンはもちろんだけど、野球に関心のある人なら何かが響くはずだ。タイトルが素敵で、内容が裏切らない。

廣瀬匠『天文の世界史』は、予想外と言っては失礼だけれど、宇宙を通じて文化と科学の歴史を解き明かす一冊。科学者が書いた宇宙のホントは一味違って、占星術の伝播や宇宙をめぐる哲学まで縦横無尽。文系が読んでも理系が読んでも「ああ、そうなのか」となれる稀有な本だけど、新書でとっつきやすいのもありがたい。

佐光紀子『「家事のし過ぎ」が日本を滅ぼす』は鋭い指摘もあるんだけど、ロジックが時に甘かったり、タイトルの雰囲気で損をしている感じがする。

霧島兵庫『信長を生んだ男』(新潮社)は、弟の信行に焦点を当てた作品。山ほどある信長ものの中で異彩を放っていていた。

アビゲイル・タッカー『ネコはこうして地球を征服した』(インターシフト)は、既にネコに征服されている方々には強くお勧めする。これからも納得づくで被征服者としての人生を歩んでほしい。

服部龍二『佐藤栄作』(朝日選書)は、既に多くの証言なども出てきた現在となっては、あまり新しい発見は感じられない気もしたけれど、包括的な評伝はたしかに初めてかもしれない。

ただ、この時代を知りたいなら、2017年に出版された山崎正和『舞台をまわす、舞台がまわる 』(中央公論新社)に尽きるのではないだろうか。

で、この月に読んで「なんでこれ読んでいなかっんだ!」と驚いたのが、歌野晶午『ずっとあなたが好きでした』(文春文庫)だ。この作者は好きなんだけど、2014年の初版を見逃してたようで、昨年末に文庫化されていた。とにかく、ずんずんと読み進めて、この大仕掛けに唸ってほしい。相当精緻な仕掛けなので、もうあまり書かないし、邪推はなしに読めばいいと思う。

ネットのレビューにはいろいろ書いてあるけど、多くは同業者の嫉妬じゃないかと思うほどだよ。

 

 



12月になると「今年の○○」が特集される。いろいろ見ているうちに、ふと「自分の読んだ本」を振り返ってみようかと思った。すべてとなると大変なので、抜粋になるし今年以外も混じりそうだけど。

新刊を中心にするつもりだが、古典も読むのでその辺りは寄せ鍋みたいなものになるかもしれないけれど、まずは1月から。

例年のことなんだけれど、12月になると「今年のミステリー」などが出てきて「ああ、これ読んでないや」ということで年末年始は謎解き三昧になる。今年もそんな感じだったし、正月を1人で過ごすという初めての体験もあって、いろいろ読んだ。

で、今年のベストなども既に出ている中でいまさら感はあるんだけど、日本人作品だと今村昌弘『屍人荘の殺人』(東京創元社)が各ランキングのトップで、海外だと陳浩基『13・67』(文藝春秋)と、ウィングフィールド『フロスト始末』(東京創元社)が高評価だった。

どれも十分に面白かったけれど、個人的には『13・67』がミステリーの精緻さと、独特の空気感でとても好きだ。あまりに良かったので、4月には香港旅行に行ってしまったくらいだ。

『屍人荘』は、まあタイトル通りにSF的な仕掛けに見えるけれど、構成としては「あり得る話」として成立させている。今年は「カメラを止めるな!」もあり、あの手の話はやはり構成次第では相当面白いものができるわけだ。

フロストの最終作は、実は10年ほど前の作品だが未訳だったものだ。ファンにとっては惜別の気持ちはあるけれど、いろいろな意味で「予想の範囲内」という感じかな。

ノンフィクションでは、板谷敏彦『日本人のための第一次世界大戦史』(毎日新聞出版)が、興味深いアプローチだった。著者はエコノミストだった方なので、経済面からのアプローチが明晰だ。一次大戦は日本人には今一つなじみが薄いところもあるが、2016年に出た飯倉章『第一次世界大戦史―諷刺画とともに見る指導者たち』(中公新書)がなどと併せ読むのもいいかもしれない。

ただし、『夢遊病者たち』(みすず書房)は、相当先の課題になりそうだけど。

歴史小説では、有名武将の初陣を描いた宮本昌孝『武者始め』(祥伝社)や、幕末の相撲というユニークな切り口の木村忠啓『ぼくせん』(朝日新聞出版)あたりが印象的だった。

クラシック音楽に関わる書き手で、読むたびに唸ってしまう岡田暁生『クラシック音楽とは何か』(小学館)はビギナー向きのようでいて、深い。

島田雅彦『深読み日本文学』(集英社インターナショナル)は、深読みというより妥当な読み解きで、いい意味で「浅い」と思うわけで、古典を再読したい人にはお勧めできる。

というように振り返ると『13・67』は今でも印象が強いんだけど、実は読んでいて誤植を見つけた。書店には二刷もあったけど、直ってないので文藝春秋にメールしたら、ていねいに返事が来た。文春ほどの会社でもこんな誤植があるのかと驚いたけど、初版では読んだ人も気づかないんだなと驚いた。

だって、結構重要な登場人物の苗字だったのに!

さて、こんな感じで12ヶ月分も書けるんだろうか。

【追記】調べていたら、今村昌弘氏の新刊は『魔眼の匣の殺人 』ということで来年2月に東京創元社から出るようだ。既に予約をしているようだが、どうやら次作も「あの世界」らしいよ。

 



多くの著名人が大病を告白し、そのプロセスを語ることも多くなった。難しいこともあるだろうけれども、意味はあると思う。

病は、孤独だ。本人はもちろん、家族にとってもそうだ。見知らぬ人のできごとでも、「そういう人がいるんだ」という事実は、力になる。それは実感としても経験がある。

そして、棋士の先崎学九段が書いた『うつ病九段』は、そうした数ある「闘病記」の中でも、とてもとても価値がある本だと感じた。

自らの経験を「客観的に記述する」ことはそもそも難しく、病であればなおさらだし、うつ病であれば想像もつかない壁があるだろう。

だから、ここには彼の経験のすべてがあると期待したわけではない。それでも、発病から快復に至る過程には静かな感動がある。

それは決して劇的なストーリーではない。ミサのような静かな宗教曲を、ジーッと聞いてるうちに、気づいたら曇り空に陽が射していた――そんな感覚になる一冊だ。

よく言われるが、うつ病になる可能性は誰にでもある。しかし、自分の中にもまだまだ大きな誤解があったんだなと思った。

うつ病は「だいたいいまだに心の病気といわれている。うつ病は完全に脳の病気なのに」と語られる。この話は、終盤になって精神科医である、実兄の言葉だ。 >> 『うつ病九段』は、すべての人に希望を届けてくれる。の続きを読む



もう1ヶ月以上も前だが、上野で行われていた藤田嗣治の展覧会に行った。

まだそれほど混んでいることもなく、ゆっくり見ることができた。年譜を追うようにした構成であり、彼の作品を見るということ以上に、彼の人生を追うような感覚になる。

一人の、それも波乱に満ちた芸術家の生涯は興味深いものがあるけれど、では、作品を見て心が動かされるかというと、それはまた別の問題だなあ、と改めて思ったりもした。

藤田嗣治の作風は、生涯を通じて大きく変化する。それは、多くの芸術家に見られることだろう。

でも、じわじわと滲むようにして変化する人もいるし、天啓を得たかのように転換点の作品を描く人もいある。そして藤田の場合は、ある時期にクルッと舞台が回るように、別の顔が出てくる。その舞台回転は何度も起きる。

藝大では黒田清輝門下らしい光を見せるし、パリへ渡ればキュビズムを難なく模し、モディリアーニをなぞる。あの乳白色はたしかに「発明」だと思うけれど、その後南米では、全く異なる光を描き、そして戦争画へと続く。

しかし、僕の心の中で、何らかの共感のようなものは湧いてこない。

もっとも、普通の人が偉大な芸術家に共感できるわけない、という考え方もあるだろう。

でも、僕はちょっと違うと思うのだ。 >> 「出来過ぎる画家」藤田嗣治を見て、『ゴッホの耳』を思い出す。の続きを読む