とある飲食店街で、こんな紙が貼ってあった。時短営業はしているけれど「夜でも明るかったらどこか安心して通ることのできる通り」にしたいということで、店は閉めても明りはともすという。

ああ、優しい気持ちだなあと思っていたけど、どうもそういうことを否定する人たちもいて、たまたまそんな人が東京都知事を務めていたりすることに、ちょっと驚いたりもした。
そこで、「ああ、そうか」と思ったんだけど、これは「国防婦人会」なんだな、と。横目でしか見ていないNHKの朝ドラだけど、戦時中の描写にはよく出てきて「欲しがりません勝つまでは」を猛烈に広めて、たいがい主人公は、そして視聴者も「いや~な感じ」となる、あの同調圧力の権化のような人。

なんか、あのようなコスプレをしてみたらどうなんだろうか?とかくだらないことを考えたけど、彼女の言葉を見ていくと、いろいろな意味で巧みに「広告的」であるのではないかと思ったりもした。

ちょっと前(4/16)に「もう疲れたとか言わないでください」と記者会見で言ったのも、驚いた。これも、なんとなく戦時下な感じがしてしまったりしない?「もう歩けません」とか言って、「貴様、何をぬかすか!」みたいなのも日本的光景だったりするし。

ただ、この言葉がなぜ広告的なのか?というと、「逆に言ってみる」と明らかになる。

「もう、疲れたとはいわせない!」

ほら、これだったら栄養ドリンクの広告になる気がしませんか?
「夜の街の灯りで暖かく」というのを裏返せば、「不夜城の街は危険」という言い方もできる。実は広告というのは、1つの事象をどのように捉えるかで、人の心に働きかける。

人をやる気にさせることもできれば、人の意欲を奪うこともできる。

だから「戦争と広告」というのは、とても深い話にもなって、日本の戦時下の広告の研究も多い。そして、コロナ禍であれば、実はもう似たような状態になっているようにも見える。

ただし、現在は情報統制の時代ではない。だから、科学的根拠がうすいことを言えば、その人の信頼は下がるし、言うことを聞かなくなる。

そして、どうなるかといえば「中学生とで生徒指導の先生」みたいな関係になる。抜け道探して、荒川や多摩川わたって出かけていく。で、「やめなさい」と言って通じるのは、話者が信頼されている時だよね。

実は「街頭消しましょう」と言った時点で、これはある種の「誇大広告」で「根拠のないメッセージ」に感じられたんだと思う。

そういう企業が「また言ってるよ」と信頼されなくなるのと同じようなことが、とうぜん起きていくんじゃないだろうか。
別に広告の体裁をとらなくても、世に「広告的なもの」は溢れている。どこか心がざわつくようなメッセージを受けたとしたら、それは本来前向きであるはずの「広告的なもの」をダークサイドから操っている可能性も考えた方がいいと思うのだ。

※そういえば「医療従事者に感謝の手紙」というのも「兵隊さんへの慰問袋の手紙」のようで、なんか似たような空気感があったりするんだなあ。



東京都のコロナウィルス感染者数の数字を見ていて、ふと気になることがあったので書いておこうかと思います。

15日に2000人超えてたのが段々低下してきたのはいいのですが、なんか高齢者の感染者が減っていない気がして、東京都の発表を遡ってみました。

左上のグラフですが、全体(棒水色:左軸)は低下しているけれど、80代(折れ線緑:右軸)と90代(折れ線ピンク)は下がっていません。80代などはむしろ上がっています。

そうなると、右下のように全感染者に対する割合を見ると、直近で80代が9%くらいにあがり、90代が3%くらいになります。全都民おける、80代/90代の割合を見ると、それぞれ約5.8%/1.3%ですから、それよりも高いのです。

高齢者が重症化しやすいので、家庭内感染には気をつけましょう、という話がありました。だからこそ飲食店などを規制して若い世代の行動を変えようとしていたのだと理解してました。

しかし、全体が減少しているのに80代以上が高止まりしているのは、なぜでしょうか?ここからは、仮説になります。

  • 80代以上が多い場所で感染が広がり続けている

と考える以外に、どうも見当がつかないのです。

1つ考えられるのは、病院や高齢者施設ではないでしょうか。だとすれば、日本財団がおこなうように、そうした施設の従業員の無料PCR検査はとても有効だと思います。

そうなると、こんなことを知りたくなります

  • 高齢者の多いところでの感染の実態はどうなっているのか
  • その結果として重症者がどれだけ増えて、医療現場に影響を及ぼしているのか

というのも、状況によっては「飲食店を一律規制する」という施策を続けても、重症者の減少には直結しない可能性もあると思うからです。実際に入院患者数の減少に比べて、重症者数は高止まりしてます。

飲食店の規制は「総感染者数減少」に対しては、たしかに効果があるように見えます。しかし、高齢者の感染や重症者の増加を防ぐには別の手立てがあるのではないでしょうか。

飲食店やイベントを規制することの補償で国民の負担は増えます。「何を防ぐのか」を言う目的をハッキリさせて手を打たないと、見当はずれなところに資源が使われることにもなります。

春のように特定の施設や病院に注目が集まる状況は良くないと思いますが、全体の数値動向を明らかにして、オープンな議論をするべきではないでしょうか。

これは限られた数値情報からの仮説ですので、もちろん実態は違うかもしれませんが、そうした取材や報道があまり見られないので書いておきました。



最近の感染状況をめぐるニュースを聞いていると、「事実」がわからないと思います。最も気になるのは「医療崩壊」という言葉が定義もなしに独り歩きしていることでしょうか。

1月13日に、中川日本医師会会長が「医療崩壊から医療壊滅」になる、と記者会見で述べているのを聞いて、不思議な感覚になりました。

刺激的な言葉を使われるのは自由ですが、「行動変容を促すためのコミュニケーション」という視点で見ると、疑問があります。医療については門外漢ですが、一人の人間としてどうもしっくりこないのです。

  • 日本医師会は科学者の集団ではないのでしょうか?

医師会会長の会見動画は全体を見ることができないのですが、日本医師会はプレスリリースを出しています。ここのPDFには「崩壊」と「壊滅」の定義もなされていますが、この資料を見る限り「日本の医療には課題がある」と読むのが普通だと思うのです。

この資料は昨年10月21日に厚生労働省で議論された資料から引用されてます。問題点は既にわかっていました。何らかの手段を講じなければ一部の病院に負担が偏ります。病床が多くてもコロナウィルス感染者を受けいられる民間病院が少ないのです。

しかし会見の内容を読むと「現在の医療体制を維持するためには国民が行動を変えなければならない」ということを強調しているように思います。しかし、医師会が科学者の集団ならば「日本の医療体制の課題」を客観的に説明したほうがいいと思います。
また、このように感染症が流行している時こそオンライン診療を推進することはとても重要だと思うのですが、医師会は関心がないのでしょうか?

  • そもそも日本の医療体制はぜい弱なのか?

毎朝NHKのBS1で欧州のニュースを見ているのですが、万単位で感染者が増加しています。医療現場のひっ迫は伝えられていますが、そもそも感染者の単位が2桁違うので理解できます。こうした情報は多くの人が知っているので、「なぜ日本では?」と思うのではないでしょうか。

そうした実情を解説する記事も段々と見られます。東京新聞のこちらの記事には「病床は世界最多、感染は欧米より少ないのに…なぜ医療逼迫?」というい見出しで解説されてます。
また首相会見において『米ブルームバーグ通信の記者が「米国のように1日で万単位の感染者が出る国と比べるとかなり水準は違うにもかかわらず、国内では医療崩壊の可能性が指摘されている」として、首相の考えを聞いた』と書かれてます。首相は「国によって医療提供体制の状況や医療に対しての考え方は違う。比べることはなかなか難しい」と言ったようです。別に正確に比べなくても、日本の医療システムの特徴を説明することは必要だと思います。

  • なぜNHKも「医療構造」を深く分析して報道しないのか?

民間放送があちらこちらからコメンテーターを読んで煽情的な番組作りをするのは、まあ「そんなものだろう」と割り引けるのですが、気になるのはNHKですらこうした「医療の構造」をきちんと追っていないということです。

逆L画面にして「百貨店の閉店時間繰り上げ」などの情報を流すよりも、こういう時こそきちんとした調査報道ができるのはNHKくらいだと思っていました。医師会や政府・自治体が説明できないのであれば、国際比較などを通じて日本の医療システムをきちんと解説すればいいのではないでしょうか。

もちろん医療システムをすぐに改善できないことはわかります。しかし、実情をていねいに説明して他の先進国より「ぜい弱」であれば、そう説明したほうが納得できるし、行動変容も起きやすいのではないでしょうか。それをていねいにしないで、「崩壊」「壊滅」という言葉を繰り返すのが医者の役目でしょうか。
私たちは相当な不自由を強いられています。そういう時に「言葉を尽くす」のは科学に携わる人の役目だと思います。少なくても尾身茂氏はそのように話されていると思います。

医者の仕事は、人々の気持ちを安心させることだと思いますが、それは素人の感覚なのでしょうか。いろいろと疑問は尽きません。



(2020年5月28日)

カテゴリ:世の中いろいろ

レストランでは席間を空けて、劇場では市松模様に座る。感染症防止の観点からは「正しい」ことだろうけど、これを異常と言わないで「新しい常態」(New Norm)というのが世界的な潮流だとして、これを本当に「常態」として受け入れ続けるのか?ということについては、とりあえず先送りされている気がする。

飲食も興行もそれで経営的に成り立つのか?というような話だけじゃなくて、そもそも人間が長い時間かけて作り上げた「都市」は、本当に価値を保てるのか?そもそも、都市という存在はどうなっていくのか?というくらいの話だと思うけど、意外と論じられてない。

というのも、そもそも都市は「密」によって成り立っている。産業革命がビジネスの集中化を呼び、市民の勃興が新しい文化を生んだ。前者については、デジタル化によって分散化がもたらせていこうとしている。じゃあ、文化はどうなんだろうか。

妙に人々が距離を空けているヨーロッパの街のニュース映像を見て思い出したのは、大学2年のドイツ語の講義だった。岩下眞好先生がテキストに選んだ『ウィーン精神』はのちの和訳が出たものの、当時は英訳くらいしかなく、それでも「ないよりはマシだろう」と後からコピーをもらったほど、ドイツ語は難解だった。

学生は4人ほどだったが、原文を読むよりも先生の文化論を聴くための時間で、特にウィーンのカフェのことは印象的だった。そこには作家や批評家が集まり、話し、出会いがあり、文化が生まれる空間だった。そして、文学や演劇、音楽が生まれて、その場である建築もまた価値を持つ。それこそが「都市」の意味なんだ、と何度も聞かされた。 >> コロナは都市を殺すのか?の続きを読む



大学の講義をオンラインでやった時に、まず考えたのは「できないことに文句言っても意味がない」ということだった。

そんな頃に、いろいろな飲食店がテイクアウトを始めた。そこでふと「これって、オンライン講義のようなものじゃないか」と感じたのだ。

たとえば「そこにいること自体が楽しみ」というようなグランメゾンでは、テイクアウトで価値を出すのは難しい。一方で、定食などは店と似たようなものを出せる。丼物もそうだし、寿司だってそういう店はある。

ただ、そういう店だと「そもそも店で食べる意味はあるのか?」ということになる。

講義も同じだ。同じ教科書やパワーポイントを読んでいるだけの講義なら、その内容をアップロードして学び方を指定すれば、それでもオンライン講義になる。実は、多くの大学では「それでもいい」ということになっているのだ。

これを冷静に考えると「じゃあなんでキャンパスまで行くのだ」ということになる。テイクアウトの丼物に800円出すなら、コンビニのレトルトはその数分の一じゃないかというわけで、やがてそちらに流れるだろう。

同じうように「講義のレトルト化」は学校の付加価値を下げるわけで、実はそのあたりが大きな問題だと思うのだけど、だとするとオンライン用に「ある程度の仕込み直し」をしてライブ講義にしたい。自宅にホワイトボードは確保したけど教室の再現は無理で、かといってレトルトは避けたい。

そんな時に、ふと街を歩いて気付いた。これを機会に「カレー」のテイクアウトを始める店が結構多いのだ。それも専門店ではなく、バーなどの異業種のマスターがチャレンジしているんだ。

>> オンライン講義は「カレーづくり」に似てるんじゃないか。の続きを読む