(2016年6月13日)

カテゴリ:世の中いろいろ

また、というか最悪の銃乱射事件が米国で起きた。

最近だとパリのテロでもそうだったし、いつも感じるのだけれど、銃撃で多くの人が亡くなった事件の報道は、しばしの沈黙を呼ぶ。

他のニュースを超えて、一瞬時間が止まって言葉を失う。2012年12月の小学校での乱射事件では、たまたま米国内にいたのだが、混乱と恐怖で画面が凍ったような感じになる。

大災害などもで息をのむ瞬間があるけれど、こうした沈黙ではない。少しでも助かるように、というザワザワした感覚だ。

ただし、銃の事件は何か違う。人が人を殺める。それも、短時間に大量の人々を、1人の人間が葬ってしまう。それは、銃という武器の特性かもしれない。

生から死へのプロセスが、あまりに短く瞬間的だ。命乞いも祈る時間さえないまま、この世から去って行く。そして、武器を持つ人間は、遠い距離にいることもできる。

歴史小説などを読んでいて気づくのだが、銃が登場した後とその前では、戦いの描写、ことに「落命の瞬間」の描き方が全く異なる。

一番わかりやすいのは、日本の戦国時代だろう。ちょうど、鉄砲が導入されていく過程にあるだけに、作者によって描写の味付けが異なる。考証の詳細はわからないが、やはり劇的な場面においては、槍や刀が登場する。

もっとも、吉川英治の三国志のように、英雄同士が刀で戦い「数百合を数えて」というのはかなり大袈裟だろう。ただし、その後も「剣豪小説」は成り立っても、銃だとなかなかそうはいかない。 >> 銃と沈黙。の続きを読む



4120R3EDRHLネット上でこんな見出しのニュースがあった。

子供が親を「呼び捨て」「ちゃん付け」 そんな親子は「気持ち悪い」か

5月23日のフジテレビ系「バイキング」で「子どもが親を名前やちゃん付け」で呼ぶことを許せるかどうか?というテーマだったそうな。

番組の視聴者アンケートでは3割ほどが「許せる」ということだが、教育評論家などは「好ましくない」という話だ。まあ、「どんどんやれ」というコメントにはならないだろう。

ただ、十代の若者が家族に対していだく感覚は結構前から変化している。「おばあちゃん、かわいい」みたいな言い方に戸惑ったという話も、15年以上前だったと思う。いま調べたら「かわいいおばあちゃんになりたい」みたいな記事が出てきた。

で、「家族をお互いにどう呼ぶか」というのは、言語学や日本語論の分野でも結構面白い。この議論を提示したのは、慶応義塾大学の言語学者の鈴木孝夫氏だが、「ことばと文化」はいま読んでも本当に奥が深い。

言語学の概略から文化論まで、まさに縦横無尽に語ってくれる。

1973年の出版で、海外事情の紹介などは、いま読むとやや時代を感じるが、論旨の骨格は太い。amazonの言語学カテゴリーでは1位である。 >> 「家族をどう呼ぶか」は日本語ならではの問題だった。の続きを読む



消費増税の「先送り」が決まった。

経済政策的には賛否があるようだが、僕が気になるのは「先送り」という発想である。

個人的には、この言葉を聞くと「嫌な感じ」がする。それは、性格とか職業によっても異なるかもしれない。

僕の知ってる限り、フリーランスや起業家で「先送り」を好む人はいない。つまり、面倒なこと、難しいことは先に片づける。そうしないと、肝心のこと、つまり自分にとって大切なことができないからだ。

人の助けを借りることができない以上、すべてのことの優先順位を自分で決める。先送り、というのは、常にアタマの中に「余計なコブ」が付着しているような感じがする。「目の上のタンコブ」というが、あれがアタマの中にできている感じだ。

そういうこともあってか、メールに対するリアクションの時間は組織の大きさに比例しているように感じる。

とはいえ、会社員の時は先送りをすることもあった。ただし、それは組織で決めていた。そのうち、「ペンディング」などと横文字を使うようになって、そうするとちょっとは合理的な意思決定にも見える。

もちろん、それは違う。先送りとは、往々にして「見てみぬふり」なのだ。

じゃあ、どうして組織では先送りができるのだろう。それは、例の「余計なコブ」をみんなで分け合っているからだと思う。1人で心配するより、10人で心配している時の方が気が楽だ。 >> 「先送り」を嫌う人は少数派なんだろうなぁ。の続きを読む



ダービーが終わった。レース自体はダービー史上に残る激戦だったと思う。上位人気馬どうしの戦いになったが、「生まれた年が悪かった」と嘆きたくなる関係者も多いだろう。こうなってくると「史上最強の年」とかの話になり、時代を超えた夢のレースを語りたくなる。

もっとも、競馬は陸上競技とは異なり「最速タイム=最強」という発想にはならない。だから、馬好きが「史上最強馬」について語るのは、終わりのない言葉の遊戯になる。ここでムキになる人がいるが、それこそ野暮の骨頂だろう。

最近、自分よりも20年くらい年下ながら、競馬のキャリアは似たような友人と話すことがある。「もし戦わば」もおもしろいが、ふと気がつくと僕は「できるだけ昔」の話をついついしたがるということに気づいた。

だから、同じ三冠馬でも2005年のディープインパクトよりは、1994年のナリタブライアンのダービーを「府中で見た」経験を話してしまう。別に、ナリタブライアンが最強といいたいわけではない。知っている中で「できるだけ昔の話をしたがる」のだ。

それで気づいた。そういえば、歳をとった人が「昔はすごかった」というのは、もう本能の領域なのだ。

つまり、自分にとって「もっとも古い体験」を話すことで、何らかの承認欲求を満たしているのだろう。 >> 「昔はすごかった」は、ある種の承認欲求なんだろうな。の続きを読む



スマートフォンを一時使ってみたことがある。携帯電話との併用だ。結局2年ほどで止めて、ipad miniにした。携帯の方は通話とSMSだけのプランで、ipad miniは4Gだ。妻は同じく携帯とアンドロイドのタブレット。MVNOなので、固定電話とあわせてもすべての通信費は月10,000円を切るくらいだ。

しばらくは、このプランでいくだろう。

タブレットはスマートフォンに比べて大きい。そのメリットは当然あるのだけど、ipad miniだと片手では持つのが精いっぱいだ。kindleなどでページをめくるくらいはできるが、それ以上の操作は難しい。電車で立っている時など、できることは限られる。

しかも、ポケットには入らない。もう少し小さいサイズなら可能だろうが、8インチというのは、そういう大きさなのだ。

不便に感じるのは、見知らぬ土地で地図機能を使う時くらいだろうか。あと、待ち合わせの店でメッセージをやり取りするとき。飲食店のテーブルに、あのサイズのデバイスを置くのはいかんせん野暮だし。

ただ、この不便さには相当のメリットがあるわけで、それがスマホを持たない理由だ。

「片手で操作して、何となく画面を見る」

そういう「無目的な指の動き」に束縛されないで済む。 >> スマホ中毒は、指の中毒だと思う。の続きを読む