今年になって、毎日ブログを書いてみた。

前からやってみようと思ったのだが、キリがいいので始めてみた。そして、ちょうど3か月が経った。

大きな理由は、「毎日違うことを考えてみよう」ということにあった。1月1日に書いたのだが、「歳をとると時間が早く経つ」理由の1つは「恒例のこと」が原因だと思ったのだ。

「今年もここに来た」とか同じことをしていると、記憶が同じフォルダに入れられる。

「定例の仕事」ばかりだと、スケジュールは埋まっていくが、それをこなしてあっという間に時は経つ。

だから、毎日いろんなテーマでブログを書いていくというのは、「毎日を違うものにする」という意味ではいいように感じたのだ。

僕が書くのは、テーマもバラバラだ。マーケティングやメディアを論じたものは、結構多くの人が読むこともあるが、能舞台の感想などはタイトルを見ただけで通過されているようだ。

だから、毎日違うことを考えるのだが、これはよかったと思う。

何となく時間が経つのではなく、1月からの歩みをハッキリと意識しての3月だ。ブログを書くのは、自分でコントロールして時間をつくることになる。何となく追われて時間が経つのとは、ちょっと違う。 >> 毎日ブログを書いてみたら、時間の流れが変わった。の続きを読む



というわけで、3月も終わるので今回も1か月の振り返りを。

押し迫った30日に鴻海がシャープ買収を決定して、東芝は白物家電を美的集団に売却した。親が用意した縁談を振り切って、それぞれの道を歩む春なのであった、という感じではない。

そもそも、シャープが態度を決めたのは2月25日のことなので、その後の精査に一か月くらいかかったことになる。いずれにせよ、国内資本の白物家電大手は4社となった。ただ、三洋の場合はブランドがなくなったが、東芝はブランドが残る。新しい経営陣がどのような戦略を立てていくのかは興味深い。

政治的には、衆議院の解散や消費増税の再延期などが囁かれてきた。ただし、この手の政局の動きは報道によってもバラバラで、どこか霧がかかったような感じだ。その中で「民進党」が発足して、予算はアッサリ成立した。

国内では、相変わらず週刊誌発のスキャンダルが連発されている。経歴詐称や不倫など、内容自体は定番ではあるものの、キャスター就任や参院選出馬などのタイミングでビシッと刺された感じだ。

というような話が目立つ国内情勢をよそに、欧州近辺の動きは相当に激しい。ベルギーの空港でのテロがあり、ドイツ地方選挙ではメルケルへの批判票が目立った。一方で、フランスはテロ対策を念頭においた憲法改正を断念するなど、しばらくは中東からの強風に悩まされそうだ。

米国大統領選は、共和党でトランプがまだリードを保っている。競馬でいうと、まさかの大逃げが3コーナーを回ったあたりで相当のリードを保っている感じだ。共和党内部では、早くも「審議」前提での動きもあるようだが、現在2番手のクルーズも主流とは言い難いし、いろいろとアタマが痛いだろう。

一方で民主党ではサンダースが食い下がっている。トランプと同様、白人からの人気が強いのは、現在の米国の変化を象徴しているように感じる。 >> 3月が終わるので、今月の振り返りなど。の続きを読む



最近、1人で舞台を見に行ったりすることが多い。室内楽や能など、客数も少ないが、つまり世間的にはより少数派の集まっている空間だ。

オーケストラのコンサートでも、真っ当なホールなら満席でも2000人。ポピュラーに比べれば桁が違うし、スポーツイベントとは比べ物にならない。

とはいえ、サントリーホールの終演後にツイッターを見れば、その夜の感想が結構見られる。20以上も並べば、「おぉ、結構盛り上がってるな」という感じだが、それでも冷静に考えれば、ツイートしているのだ聴衆の1~2%程度ということだ。

コンサートで1人で聴いた後に、(素晴らしい!)と思っても、何となく妙な不安のようなものが広がり、しばらくしてツイッターを見てしまう。以前だったら、しばらくしてからネットの掲示板などを覗いてたこともあったが、いまはそういうメディアもなく、みんなツイッターで思い思いに言葉を発する。

ネットの向こうに、見ず知らずの人が同じように感動していて、その「つながっている感じ」というのは、たしかに悪くはない。

ただ、その感じを「心地よい」というのではなく、「悪くはない」と書いたのには理由がある。やっぱり、1人で行った舞台の後でツイッターを覗いたら「負け」なんじゃないかという感覚もどこかにあるのだ。

なぜ、その感動を、わざわざ検索してたしかめなければならないんだ?好きだから、1人で聴きに行くんだろ?

と、誰が言ってるわけでもないが、まさに天の声のようなものが何となく感じられるのだ。 >> 「つながる価値」を疑ってみる。の続きを読む



syazai前から思っていて、ここに来て本当によくわからないのが「謝罪」というものの正体だ。

今年は年初から週刊誌発のスキャンダルが連発されていて、その後には「謝罪」というものがおこなわれる。

グーグルで「謝罪」と入れて驚くのは、そのニュースの多さだ。別にニュース検索をしているのではない。一応ログアウトしてから普通に検索すると、3月28日午後だと乙武氏と白鵬の謝罪が目立つ。

しかし、本当の「謝罪」といえないような発言を、とりあえず「謝罪」と言っているようにも思う。

謝罪、という言葉には読んだとおりに「罪」の文字がある。何かを報じられたりして、それに対してリアクションした時点で「謝罪」というニュースになる。いわば、自らが何かをいったことで「罪」が後付けされるような感じもして、それが何だかしっくりこない。

そもそも謝罪は、自らの罪や過ちを認めて、それを被害者や関係者に謝るという行動だろう。日常的に「ごめんなさい」「申し訳ない」というのは、そういった時に使われる。

ただし、この手のスキャンダルの後の“謝罪”は少々色合いが異なる。

まず、罪や過ちというのがハッキリしていないことがある。相撲で「立ち合いに変わる」というのは、罪や過ちというより、世間が「好ましくない」と思う行動だろう。 >> 「謝罪のようなもの」が溢れてる。の続きを読む



41Z24P3PHZLふと、テレビを見ていたら教育に関する話などの流れで、「人の痛みがわかる人になれ」というのが出てくることがある。

これが、どうも気になる。自分が子供の頃から、大人たちはそう言ってた。しかし、その頃から僕は疑っている。本当にそれでいいんだろうか?

思いやりを持て、というのならわかる。優しくしなさい、でもいい。

ただ、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、言っている方の自己満足だと思っていた。

自分自身では「他者の痛み」というのは、そうそうわかるものではないだろう、という懐疑もある。

他人を殴った子どもに「あいつの痛みがわかるか!?」と叱っても、「わからないから殴る」わけで、どこか言葉に酔っているように感じる。

心理的な痛みとなると、もう相当にわからない。辛い人に「わかるよ」とか迂闊に言ったら、失礼になるのではないかと思い、よほど経験が類似したいない限り口にはできない。

悩んでいる人の話を聞くことは、仕事もであるし、私的にもある。そういう時に「痛み」そのものがわかることよりも、「どうして痛みを感じるのか」という因果関係を知るようにしている。

もしかすると「痛みがわかる」ことは不可能でも、「痛みに至る構造を理解する」ことは可能だし、それは他者のためになることもあるだろう。

なんで、そんなことが気になったかというと、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、日本の教育に今でもはびこる半端な精神論の象徴のように思うからだ。 >> 「人の痛みがわかるようになれ」への疑問。の続きを読む