最近、1人で舞台を見に行ったりすることが多い。室内楽や能など、客数も少ないが、つまり世間的にはより少数派の集まっている空間だ。

オーケストラのコンサートでも、真っ当なホールなら満席でも2000人。ポピュラーに比べれば桁が違うし、スポーツイベントとは比べ物にならない。

とはいえ、サントリーホールの終演後にツイッターを見れば、その夜の感想が結構見られる。20以上も並べば、「おぉ、結構盛り上がってるな」という感じだが、それでも冷静に考えれば、ツイートしているのだ聴衆の1~2%程度ということだ。

コンサートで1人で聴いた後に、(素晴らしい!)と思っても、何となく妙な不安のようなものが広がり、しばらくしてツイッターを見てしまう。以前だったら、しばらくしてからネットの掲示板などを覗いてたこともあったが、いまはそういうメディアもなく、みんなツイッターで思い思いに言葉を発する。

ネットの向こうに、見ず知らずの人が同じように感動していて、その「つながっている感じ」というのは、たしかに悪くはない。

ただ、その感じを「心地よい」というのではなく、「悪くはない」と書いたのには理由がある。やっぱり、1人で行った舞台の後でツイッターを覗いたら「負け」なんじゃないかという感覚もどこかにあるのだ。

なぜ、その感動を、わざわざ検索してたしかめなければならないんだ?好きだから、1人で聴きに行くんだろ?

と、誰が言ってるわけでもないが、まさに天の声のようなものが何となく感じられるのだ。 >> 「つながる価値」を疑ってみる。の続きを読む



syazai前から思っていて、ここに来て本当によくわからないのが「謝罪」というものの正体だ。

今年は年初から週刊誌発のスキャンダルが連発されていて、その後には「謝罪」というものがおこなわれる。

グーグルで「謝罪」と入れて驚くのは、そのニュースの多さだ。別にニュース検索をしているのではない。一応ログアウトしてから普通に検索すると、3月28日午後だと乙武氏と白鵬の謝罪が目立つ。

しかし、本当の「謝罪」といえないような発言を、とりあえず「謝罪」と言っているようにも思う。

謝罪、という言葉には読んだとおりに「罪」の文字がある。何かを報じられたりして、それに対してリアクションした時点で「謝罪」というニュースになる。いわば、自らが何かをいったことで「罪」が後付けされるような感じもして、それが何だかしっくりこない。

そもそも謝罪は、自らの罪や過ちを認めて、それを被害者や関係者に謝るという行動だろう。日常的に「ごめんなさい」「申し訳ない」というのは、そういった時に使われる。

ただし、この手のスキャンダルの後の“謝罪”は少々色合いが異なる。

まず、罪や過ちというのがハッキリしていないことがある。相撲で「立ち合いに変わる」というのは、罪や過ちというより、世間が「好ましくない」と思う行動だろう。 >> 「謝罪のようなもの」が溢れてる。の続きを読む



41Z24P3PHZLふと、テレビを見ていたら教育に関する話などの流れで、「人の痛みがわかる人になれ」というのが出てくることがある。

これが、どうも気になる。自分が子供の頃から、大人たちはそう言ってた。しかし、その頃から僕は疑っている。本当にそれでいいんだろうか?

思いやりを持て、というのならわかる。優しくしなさい、でもいい。

ただ、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、言っている方の自己満足だと思っていた。

自分自身では「他者の痛み」というのは、そうそうわかるものではないだろう、という懐疑もある。

他人を殴った子どもに「あいつの痛みがわかるか!?」と叱っても、「わからないから殴る」わけで、どこか言葉に酔っているように感じる。

心理的な痛みとなると、もう相当にわからない。辛い人に「わかるよ」とか迂闊に言ったら、失礼になるのではないかと思い、よほど経験が類似したいない限り口にはできない。

悩んでいる人の話を聞くことは、仕事もであるし、私的にもある。そういう時に「痛み」そのものがわかることよりも、「どうして痛みを感じるのか」という因果関係を知るようにしている。

もしかすると「痛みがわかる」ことは不可能でも、「痛みに至る構造を理解する」ことは可能だし、それは他者のためになることもあるだろう。

なんで、そんなことが気になったかというと、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、日本の教育に今でもはびこる半端な精神論の象徴のように思うからだ。 >> 「人の痛みがわかるようになれ」への疑問。の続きを読む



プロ野球に関心を持たなくなったのはいつ頃からだろうか。東京生まれだが、なぜかカープファンだった。1986年の優勝は社会人1年目だったが、神宮で決めた試合を友人と観に行った。最後は津田が締めていた。

先般、カープファンという20歳くらいの女性にそのことを話したら、キョトンとしていた。生まれる十年ほど前の話なのだから、僕にとっては「大下と杉浦がMVPで広岡が新人賞」の時代を聞いているようなものだ。そりゃ、わかるわけがない。

自分のプロ野球離れの理由はわからないが、球場へ行かなくなった理由ははっきりしている。のべつ幕なしに、応援歌が鳴っているからだ。そもそも、野球というのは一定のテンポでおこなわれるものではない。昔のように外野の一部でのどかにやってた頃はともかく、妙に達者なバンドがドーム球場でガンガンやっている中での観戦は苦痛なのだ。

というわけで、賭博などの話も「まあ、ちゃんとやれよ」くらいの傍観者なのだけれど、ちょっと気になるトピックがあった。

巨人を皮切りにあちらこちらで発覚した「勝敗に絡んだ金銭授受」という謎の慣行についてのアンケート調査だ。「勝ったら総取り」みたいな話は、あまメディアでは当然のように批判されているのだけれど、このスポニチの調査結果がおもしろい。

『ツイッター「スポニチ野球記者」で緊急アンケートを実施。「良くない。悪い慣習」「許容できる範囲内」が同じ44%と、真っ二つに意見が分かれた。』ということなのだ。

もちろん、ちゃんとしたサンプリングではない。ただし、わざわざ投票するのだから「プロ野球に関心が高い人」だと思う。そして、そういう人の中に相当の擁護派がいるのだ。

僕の周りにいる野球好きは、みんな呆れていたがそうとは限らないようだ。

なんでだろう?と考えたみると、これは「放っておいてやれよ」というファンの気分なんじゃないかと思った。いきなり建前を掲げて説教垂れるメディアへの反感だろう。

ただし、もっと前だったらどうだろうか。野球ファンの存在はメジャーであり主流派だった。「なんて恥ずかしいことしてくれたんだ」が多数となるんじゃないか。

それが、賛否半々である。そして、「まあ、いいじゃん」と思う人は、自分たちだけの綴じた空間にいるのだろう。

関東ではプロ野球中継は視聴率の低下から、地上波を追われ、BSやCSの一コンテンツになった。この20年ほどの流れは、プロ野球ファンが「少数派」へと転じていく流れでもある。一方でメディア上はともかく、各球場はそれなりに賑わっていて地方分散は成功したと言われる。

社会心理学に「少数派の研究」というのがある。「沈黙のらせん」理論などが有名だが、近年「少数派の残存」という知見が注目された。

それによると、少数派の人々を支えているのは少数派の人どうしなのだという。彼らは相互に自分の立場を強化しあい、外部からの影響を受けないという。しかも、自分たちは少数派と思ってない。

これは、まさに現在のプロ野球ファンの構造だと思う。放送が減っても、野球場にはたくさんいるし、身近に少なくてもネット上ではいろんな空間がある。

そういう人たちが「プロ野球ってカネまみれじゃん」と外から言われると、頑なになるわけだ。

この、「少数派の残存」というのはいろんなところに応用できる。ガラケーを使っている人は周りもそういう人ばかりだったりする。またデモに集まっている人も、自分たちが野党勢力であり、内閣の支持率は不支持率よりも高いことを理解するのが困難なのも同じ構造というわけだ。



ドイツの地方選挙がおこなわれた。州にもよるけれど、メルケル首相のCDUは退潮で、いわゆる「反難民」の右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)が伸長したという。

米国では、トランプと反トランプが、文字通り「激突」状態になってきた。

また、ポーランドでは昨秋に政権をとった「法と正義」という右派政党が憲法裁判所を制御しようとしている。

明らかに、何かが起きている。それを極右的勢力の台頭とか反リベラルなどという評するのはやさしい。ただし、一つ明らかなことがある。

それは、一定以上の人々が支持しているという事実だ。

そして、もう一つの事実があって、それは主流のマスメディアの論調とは逆ということだ。

米タイム誌は2015年の「今年の人」に、ドイツのメルケル首相を選んだ。

トランプについては、米国のワシントン・ポストが「トランプ絶対阻止」という異例の論説を出した。エコノミストなども、強く批判している。

しかし、支持者はいる。

トランプの支持拡大などは、多くの人にとって「想像もできなかった事態」ではあるが、それはマスメディアが想像できていなかった、ということだろう。彼らの常識の外に、多くの人がいて、メディアはその波を感じることができなかった。

似たようなことは日本でもあった。2014年の都知事選で田母神俊雄氏が60万以上の得票を記録した時も、メディアは結構慌てていた。 >> メディアが正論を唱え、そして正義は遠ざかる。の続きを読む