(2011年12月21日)

カテゴリ:世の中いろいろ

携帯ニュースで日経[号外]というのがあって、それなりに重宝している。もっとも「そんなに慌てなくても」というようなニュースも[号外]になって、鉱工業生産指数や米国の失業率がコンマ何%か変化しても[号外]だったりする。
ただし、先日の号外は掛け値なしに号外であって、それは金正日の死亡を伝えたからだ。
これを、僕は一人で昼飯を食べようかという時に受信した。その日は、時間があったので仕事の合間に一人で散歩しながら昼飯を物色していたのだ。
しかし、それがよりによって「蒙古タンメン中本」とは。金正日と蒙古タンメン。この組み合わせは、一生忘れないかもしれない。
家でテレビを見ている時の臨時ニュースなどは、印象に薄くても、このような外出先でのニュースはなかなか忘れない。金日成が死んだときは、妻とともに軽井沢近辺を走っていて、ラジオの臨時ニュースで聴いた。この時も、唐突で驚いたものだ。宮崎勤の判決を旅行先のパリで知ったとか、一人でエヴァンゲリオンの映画を見て外に出てニュースを見たらメイショウサムソンが天皇賞に勝っていて、馬連をとったとかもいちいち覚えている。
これはいわゆるエピソード記憶なのだけれど、印象的な情報は、普段行かないようなところで知ると、その二つが連合してよく覚えられるのである。
実は、10年以上前にこれを応用して、メディアプランができないかと思っていろいろ考えていた。広告会社の研究開発部門にいた時のことだ。国際線の空港で広告を見るブランドは、それだけでグローバルな感じがするし、それは見る当人がそう思っているから。
そんな仮説でいろいろやりかけたのだが、気が変わって人事に行ってしまった。ただ、このような発想は、ネットの時代になっていろいろな広告技法となっている。
しかし「金正日と蒙古タンメン」。この妙な親和性にはかなわないだろうな。



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今年のクリスマス・イブは都内のホテルがかなり混んでいるという記事を「そうかな~」と勘繰りつつ調べたら、本当にそのようだった。「一休.com」だと、都内で空室があるのは2つだけ。他のサイトでも似たような感じだし、関西もそうだった。
この時期になると、ホテルの空き具合をチェックしていた。泊まりたいのではなく、「世間のクリスマス」を知っておきたいだけなんだけど。いつから、とは覚えていないが、まあこの数年はかなり空いていて直前にはかなりレートが低くなっていたと思う。
僕の感覚だと、2000年前後にクリスマスの過ごし方は変わったと思っている。ちょうどイブの夜に通夜に行ったことがあった。さすがに、はしゃぐ気分になれず帰宅前に近所の韓国料理屋に行ったら、若い人のグループでいっぱいだった。その前後に表参道を歩いたこともあったが、回転寿司が大行列だったりもした。
ようやく80年代的なクリスマスは、終わったのだろうと感じていて、それはホテルの予約状況などにも表れていたと思う。
じゃあ、誰が泊まるのか。かなり高額な部屋も売れているわけで、若いカップルとは限らないだろう。ファミリーユースもあるかもしれない。たしかに今年の国内消費は、経済指標では説明できないことも多いのだけれど、これもそうだんだろうな。いや「絆」とかそういうんじゃなくて。
何だか気になるのだけれど、当日は東京を離れて山の中にいる。それは、まだ珍しい方で、毎年イブには外出していない。一応過去の手帳を見ると、書いてあるのは「有馬記念」とかなぜか「墓参」だったり。昨年に至っては24も25も白いまま。
実は、やっぱり街は賑わっていたのだろうか。何だかいきなりクリスマスが気になってきた。あとで、東京の様子でも誰かおしえて。



(2011年9月21日)

カテゴリ:世の中いろいろ

クルマを買い替えることにした。欲しいクルマはハッキリしている。初めて買うメーカーなので、まず試乗に行くこととした。名門国産メーカーだが、一時期窮地に陥り、海の向こうからのカリスマ経営者によって再生された企業である。
試乗車がある場所を検索したら、隣の駅の店にある。土曜の午後に妻と訪れた。
入ると客が二組。一組は営業が応対。もう一組はサービスが応対していた。
シーン、としている。他に店員はいない。接客中の二人は、全くこちらを見ない。
奥の受付まで歩いて行った。誰もいない。
さて、どうしたものか。と思ったのだが、呼ぶ方法もない。
「ごめんくださ~い」
とは言わなかった。やがて、サービスの人がこちらを気にしている。試乗の件を伝えたら、やっと呼んでくれた。
「○○○を試乗したいのですが」
「すいません。今は置いてません」
「……」
HPの掲載の件を謝ることもなく、他の店を探します、とかもない。
さて、どうしようか。と思い、別の店に電話して試乗車を確かめてから行く。今度はちゃんと店員が出迎えた。当たり前なんだが、いい店に見えるのがすごい。
試乗して顧客カードを出されたので、とりえずメールアドレスだけ書いた。
その後、まったく連絡はない。
冷やかしと思ったのか、それならそれでもいいんだけど、この店もどうかなという気になる。
結局、3軒目でようやく真っ当な人に出会えたので、ここで買うことにした。
しかしここまでの仕打ちというか、ひどい対応でありながら買いたいクルマを作っているのはすごいと思うんだが、大丈夫なんだろうか。どうやらこの会社はかなりの国内シェアアップを今後狙っているという。
しかし「土曜の午後に客が来ても誰も出てこない販売店」をドンと構えているような状態で、シェアも何もないのでは。一応心配してみるのである。もうすぐユーザーになるわけだし。
「今こそモノづくりの底力を」
うん、とてもいいメッセージだと思う。CMもいいと思った。ところが現実は大変だ。
「今やモノ売りの底割れが」着々と進行しているようなのである。
がんばってほしい。いいクルマ作っているのだから。



「博報堂を辞めました」という文章を読んだ。自分も同じ経験をしているのだけれど、経緯を書いたことはない。というか、辞めた頃に理由を聞かれるのだが、講演会向け、友人向け、得意先向けとかいろいろ言っているうちに、わかんなくなっちゃったのだ。まあ、理由がいくつかないと大きな決断はできないんだけど、段々と辞めた理由を忘れている気もする。
だから、ああやって宣言できるのって何かすごいなとか思う。ただ、途中の「エリート街道」というのは思わず苦笑した。博報堂がエリートかどうか、とかそもそも現代においてそんな街道があるのかという突っ込み以前に、あの言葉を一人称で使ったのは初めて見たからだ。
そのことはともかく、件の文は「肩に力が入った」感じで、それは一般的に褒め言葉ではないのだけれど、でもいろんな意味で読み手を黙らせるものがあった。それは、真摯にものを考えた人ではなくては、書けない文だからだろう。
それにしても、「博報堂を辞めました」って、妙に語呂が良くって「電通を辞めました」だとなんか違うな、と思ったら「七五調」なんですね。だから、前に五文字つけて「古池や 博報堂を辞めました」でも「雀の子 博報堂を 辞めました」でも、ほらいけるでしょ。って全然いけてないけど。
「秋深き 博報堂を 辞めました」うむ、なんか妙にしみじみする。
もちろん語呂がいいから辞めたわけじゃないんだろうけれど、新平さん、広い海へようこそ。



どうしても気になることなんだけど、そもそも「生命と経済」って対立的に語られるものなんだろうか。
昨日、大江健三郎や坂本龍一らが「原発再稼働をやめて」と声明を出したという。あの惨状を見れば、そう考えることが特段偏った考えではないと思うのだけれど、記事にあったこの一節が気になる。
「経済活動を生命の危機より優先すべきではない」
経済=お金であり、経済学=お金の学問のように考える人がまだ多いのかもしれない。しかし、経済というのは人の生命を支えるために存在し続けるものだ。
電力が不足すれば、たしかに経済活動は停滞する。しかし経済の停滞は、決して生命を救わない。リーマン・ショック後に、どのようなことが起きたかを思いだせばすぐわかる。
放射能の影響を最も受けるのは、子どものような弱者だ。しかし経済停滞で影響を受けるのも、また弱者である。
そういう想像力、というか常識が欠落したまま「経済か生命か」という誤った二項対立が流通している。そのままでエネルギー問題は前進しない。そのことをまず共有しなければ、何も進まないのに極端な意見が好まれる。安全で安定した生活を望む人にとって、本当の敵がどこにいるのかを考える時だと思う。