(2011年8月19日)

カテゴリ:世の中いろいろ
タグ: ,
159-koneko.jpg

最近、近所の散歩コースで猫の家族と出会う。母と子ども4頭。3頭は母と同じキジトラなのだが、一頭だけが白い。この白い子猫がまた人懐っこいのだけれど、本当に可愛いのだ。
で、書きたいことは全然違うんだけど。
いささか旧聞に属するが(←書いてみるとかなり古くさいな、しかし)、女子サッカーのメンバーの1人の発言がツイッターで流れたことがあった。関わっていたのは大学生だった。adidasの店員の一件とか、他にもサッカー絡みのことはなぜか多いんだけど、こういうニュースを見るたびに思うことがある。
「ああ、若い人もやっぱりマスコミが好きなんだな」
と感じるのだ。たしかに若い人のテレビ視聴時間は短くなっているし、新聞も読まない。それでネットは好きなんだろうけれど、志向性の底には「マスコミ的なモノ」があるように思っている。つまり
・一対多の情報発信で
・「より多くの人に」という量的志向で
・同時性を追求する
と考えると、twitterはマスコミ的な欲求を満たすことはたしかだ。
そもそもインターネットが登場した時は「趣味・嗜好の似たような人が濃密な話ができて、時間拘束が少ない」というのがマスメディアに比べての特性と言われた。初期の掲示板なども、いろいろユニークなものがあったし、面白い個人ページもあった。たとえば、ここなんか結構好きだった。
一方ブログが普及したころから、個人HPはどんどん停滞して、SNSの発達とともに掲示板も減っていく。そこにタレントなんかも参入したあたりから、マスメディア化が着々と進んできたんだろう。

>> あえてジジ臭いネット論の続きを読む



「ポスト震災」をめぐって、いろいろな動きがある。調査の方も出ているし、消費データの傾向もわかってきた。大体のことを言えば、「マジメにしっかりした消費行動」というのが、多数派のようである。
細かい分析など、仕掛かり中の原稿などもあって、まだ書けないこともあるのだけれど、いろんな意味で「帰属意識への目覚め」が強まったんだな、ということは話を聞いていると実感する。
企業でも被災したことで求心力が高まったし、計画停電で地元への帰属も確認された人も多い。そして「日本」への帰属意識も高まった。
ただ、もっともシンプルなことは震災のあの日、まず皆が「もっとも大切な人」の安否を確認しようとしたわけで、その多くはまた家族であっただろう。消費の家庭回帰は、このあたりから始まってわけだ。
ということで、とあるプロジェクトでくだらないことを言ってしまった。
「あの地震が、夜だったりすると、たとえば”不倫中のカップル”とかが地震にあったかもしれないですよね。その時、いきなり”妻子(夫)の安否”が気になったりすると、覚めちゃったりするんでしょうね」
すると、とある方が「実はですね……」と教えてくれた。
「いや~、この震災を機に不倫を解消するカップルが結構いるみたいなんですよ……」
ああ、そうかなるほど、「正しさ」を尊ぶ今の風潮がこんなところに反映されるのか、と思いつつ、ふと「自己実現」という言葉が思い浮かんだ。

>> 地震と不倫と自己実現。の続きを読む



(2011年4月14日)

カテゴリ:世の中いろいろ

自分のブログで政治批評をやるつもりはないのだけれども、今の首相を「人事部が査定したらどうなるか」というのは興味深い話ではある。
そう思ったのは首相が「話した」と報道され、その後撤回した「10年、20年住めない」という発言の件である。実は似たような話が震災後に多い。時系列でいうと。
その1.地震直後の3月16日に内閣特別顧問の笹森清氏に「ぼくはものすごく原子力に強いんだ」などと話したことを、笹森氏が記者団に話して記事に。
その2.4月11日に公明党の斉藤幹事長代行に「細野豪志氏を原発担当大臣に」と電話で話して、報道されてその後霧消。斉藤氏は首相の大学の後輩。
その3.昨日松本健一内閣参与に「避難区域は当面住めないだろう。10年なのか20年なのか」と話したことを松本氏が記者団に話して記事に。その後両名とも否定するも大騒ぎ。
共通点があって、「大事だけど迂闊に口にしてはならないこと」を「部外者」に話して、そこから漏れるというパターンである。
簡単にいうと、このようなリーダーは査定するとかなり低いポイントになる。というか、ダメなのではないか。もし、こんなリーダーが職場にいたら?と考えればすぐわかる。
① 公式な部下よりも同期や同窓あるいは社外の人に大切なことをいう
② しかもそういう話を聞いた人の口が軽く、部下の耳にも入ってくる
③ 「口の軽い人」を見抜けず、言われた人も「軽い言葉」だと思うのでまたしゃべる
真っ当な会社なら「管理職降格」になることは間違いないだろう。
「どのくらい暮らせないか」というシミュレーションはたしかに必要だと思うし、今でも専門的な検討はされているだろうし、するべきだろう。でも、それをトップが「ポロリ」ということか。
経営者が社外の人に「もうウチの会社はダメだ」と言って、それが漏れたら社員はどう思うだろうか。
というような話なのである。
書いてて哀しくなってきたが、官邸の方が原発よりもっと恐ろしいということなのだ。



(2011年4月7日)

カテゴリ:世の中いろいろ

震災直後の「自粛ムード×停電」という状況が少し落ち着いた頃から「○○の役割」というのが目につくようになった。
周囲でもメディアでも結構目にしたのは「音楽の役割」「スポーツの役割」などのフレーズだろうか。つまり、アートやエンタテインメント、スポーツなどついつい「不要不急」とされてしまいがちな業界の人々が自問を始めたようなのだ。
その結果、チャリティーイベントなども多く行われるようになって、それはいいことだと思っている。
ただ、この「役割」ってあまり考えすぎても仕方がないように思うのだ。
「こういう時だからこそ、音楽は人々を勇気づける役割がある」というのも、正直僕は疑っている。あの混乱の中で、音楽を聞く気にはなかなかならない。やはり音楽は、楽な気持で聞きたい。
美しい歌声が人々を癒したり、スーパープレーが勇気を与えるということはたしかにあるだろう。ただ、残念なことに被災の現実は何も解決しない。
「自分にとって何ができるか」と考えることも大切だけれど、「自分がいかに無力なのか」を自省することもまた大切なのではないか。そう思ったのは4月1日に青山学院で行われた、「東北関東大震災の被災地を覚えての祈祷会」に参列したときだった。
「自らの無力と向き合い祈る」ということこそ、実は自分にとって糧となるのではないか。そんなことを痛感した。「何ができるか」と考えてもがくよりも、「何もできない」ことから見つめ直すことに、意味があるのではないか。
だから、祈る。
今の日本人の殆どは「祈る」ことが生活の中に組み込まれていない。地震の惨状をメディアで知っても、教会や寺院に行こうとした人は少なかっただろう。「神に祈る」機会や方法がわからないままに、自責の念ばかり強まってしまうことは決して幸福ではない。
あの地震が「人知を超えた」ものだったのであれば、「祈り」こそがまた人々にとって必要なのではないかと、改めて思う。



ネットを見ていて「仁科亜希子」とか「こだまでしょうか」あるいは「ぽぽぽぽ~ん」という言葉のやり取りの意味がわからなかった。昨日になって、久々に民放を見たので「AC」のネタだということがようやくわかった。
なんだ、みんなテレビ見てたんだと思ったりもする。
新聞・テレビが系列化されている日本で、「マスコミ叩き」というのは雑誌のお家芸であった。最近では、ネット上で盛んになっていて、マスコミOBの中にはそれを生業のようにしている人もいる。
たしかにAERAの表紙とかコンビニで見たときは「ダメだろこういうの」と思ったけれど逆風は想像以上だったようだ。
今回の震災報道は、まあいろいろ突っ込まれても仕方ないところは多いけれど、興味深いのは「アンチ・マスコミ」の人々のネット上の論調である。
古い話で恐縮だが「アンチ巨人」というのを思い出してしまった。今は死語になってしまったが、「とにかく巨人の嫌いな野球好き」という人々で、20世紀にはそれなりに存在した。彼らの多くは「アンチ自民」でもあったので、そういう人と迂闊に飲んだりすると午後10時を過ぎるころから説教臭くなって、大変に困ったものである。

>> アンチ・マスコミとアンチ巨人の続きを読む