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ラトルとベルリンフィルを聴いて、一週間が経とうとしているが、いろいろと反芻したくなるコンサートだった。チケットの入手自体が相当難しそうな中で「第九」に行けたのは幸運だったと思うが、曲の特性もあって終わった直後はホールも自分のアタマの中もグワングワンと揺れ続けたような感じだ。

ラトルがステージから語り掛けた、最後のメッセージを聴いて、もうベルリンフィルとの来日は最後になるんだろうな、と思った。個人的にはロンドン交響楽団とのコンビにも、別の期待をしている。

ベルリンフィルとの来日では、王道の名曲が多かったけれど、シベリウスやエルガーなどを聴けたら面白いだろうなぁと思う。いずれにせよ、これほどの余力を残してベルリンフィルを去る指揮者は初めてだろう。

ラトルとベルリンフィルの活動を「評価」できるほどの経験も知識もないので偉そうなことは書けないが、少なくても相当の危機感を持っていることはたしかだろう。

ちょうどラトルが就任してまもなく、クラシックの世界では「新譜」の価値がどんどんと失われてきた。

そもそも、昔の曲の新譜が後から出てくるのも不思議だが、20世紀はそうだった。録音技術が発達して、「新しい録音」自体に一定の価値があった。そして欧州以外でもファンが広がり、大衆化が進んだ。そして、カラヤンに代表されるスターが、覇を競い、メディアも煽った。 >> トップランナーこその危機感。ラトルとベルリンフィルの続きを読む



bpoベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 来日公演

指揮:サイモン・ラトル
ソプラノ:イヴォナ・ソボトカ、メゾ・ソプラノ:エヴァ・フォーゲル、
テノール:クリスティアン・エルスナー、バス:ドミートリ・イワシェンコ、
合唱:新国立劇場合唱団 (合唱指揮:三澤洋史)

 

2016年5月15日(日)15:00 サントリーホール

ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調「合唱付き」作品125

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4楽章でチェロとコントラバスが、有名なテーマを奏で始めた時に、いままでに全く聴いたことのない音楽が鳴っていることに気づいた。

特徴的にはこれ以上ない弱音、技術的には揃った音程、と書くとそれだけのようになってしまう。ただ、それ以上の得難い感覚があって、それは「いま音楽が生まれてくる」という体験を共有しているという不思議な気分だ。

クラシック音楽は過去に書かれた楽譜の再現で、馴染みのあるメロディであれば「ああ、始まったな」と思う。つまり、記憶の確認をしていることが多い。ところが、稀に「これからどうなるんだろう」と感じることがある。つまり、「新しい音楽」に立ち会っているという感覚だ。

この緊張感がだんだんと緩和されて、やがて大きなうねりが訪れていく。その頂点で、イワシェンコの朗々とした声が響いた頃から、段々と楽員の表情も緩んでくる。

卓越した技術を持つ奏者が、「いまが最高だ」という思いで弾いていることがヒシヒシと伝わってくる。ベルリン・フィルが「最高」と言われる由縁はここにあるのだろう。

音楽は、いまここで作られる。それはラトルがベルリンフィルが、聴衆を巻き込んで追求してきたことで、この日の演奏はそういう中での1つの頂点だったかもしれない。

いっぽうで、ベートーヴェンを演奏するのは難儀な時代になってきたと思う。フルトヴェングラーからカラヤンの頃までは、好き嫌いはあったとしても「こうやるんだ!」という確信があった。そしてアバドの頃から模索が始まり、それは今に至るまで続いている。

もっとも、それはベルリンフィルだけではなく、世界中の音楽家の課題なんだろう。

演奏全体を振り返ると、3楽章の後半くらいから音楽が一段とこなれて来て、フィナーレには聴いたことのないような熱量があった。ソリスト陣はもちろん、新国立劇場のコーラスも充実していた。

終演後にラトルが挨拶をした。「ありがとうございます」という日本語に続いて
”from my soul,from BerlinPhilharmoker,from my heart” そして”for your love,concentration,listening ……でその後聞き取りにくかったんだけど、~in the world と続く聴衆への感謝だった。
「外交辞令」と言う人もいるだろうが、僕はそうは感じなかった。Concentrationという言葉の選び方は、まさに「一緒に音楽をつくってくれた」人々への感謝だと思ったからである



222-Rite_of_Spring_opening_bassoon.png 2013年11月20日 ミューザ川崎シンフォニーホール
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 演奏会
シューマン:交響曲第1番 変ロ長調 作品38「春」
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 作品19
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
ヴァイオリン:樫本 大進
指揮:サイモン・ラトル
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
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いったい、今まで聴いていた「オーケストラ」とは何だったのだろうと思わされてしまう「春の祭典」だった。
「オーケストラは西洋文化の生んだ最高のソフトウェア」と、高校の先輩が言っていた言葉を思い起こす。ただし、このソフトウェアも千差万別で、そのための曲も無数にある。ただ、百年前にストラヴィンスキーの書いた意図が、ここまでクッキリと浮き上がってきた時間を経験できたことは本当に幸せだったと思う。
最高の演奏、というよりも人類史上における「共同作業の到達点」の1つだと思う。多くの人が、1つのことを成し遂げる。言葉で書けば簡単であるが、全員が対象について深く理解して、共通の認識を持ち、かつ高度な技術を有していなければこんな演奏はできない。
機能性が高い、とかパワーがすごいという言葉で片付けてはこの演奏の意味はまったく捉えられないと思う。
それって、素晴らしい食事のあとで「お腹がいっぱいです」という程度の感想でしょ。
ファゴットの冒頭から紡ぎだされるメロディから広がる不気味な世界に、異次元から割り込むEsクラリネットの衝撃。ここままでで、もう「他のオケとは全く違う集団」だということがわかる。
ストラヴィンスキーの楽譜を全員が読み込んで、その音楽を懸命に再現しようとしている。うまいだけではなく、志が高い。音楽を尊敬している。
でも、オーケストラに限らず、真剣に鍛錬した人間が、毎日努力して、「もっとうまくできるはず」と挑戦を続けている集団だってどれだけ世界にあるのだろうか。

聴き終ったあとの感想は、本当に単純だ。
「これが、オーケストラなんだ」
いや「オーケストラだったのか」と言ったほうがいいのかもしれない。。
それ以上に、言葉も無し。本当に感動した時には、また違った溜息がが出るんだなと改めて知った。