
クルマは幸せの象徴であった。少なくても広告表現上はそうだし、現実生活においてもそうだった。現実と広告の世界におけるシンボルは一致していたのだろう。
とりあえず「あった」と過去形で書いてみたものの、いつ頃まで「象徴」であったのだろうか。もちろん、高度成長期はそうだろう。僕が入社したあとにバブルが来て、その頃も同様の文脈だった。
潮目が変化したのは、90年代半ばだと思う。この頃に複数の自動車のCMがきわめて類似したアプローチをとった。
「クルマを買うまでのプロセス」を描いたのである、
それまでのクルマの広告は、「商品をいかによく見せるか」が最大テーマだったといってもいい。そのために海外のダイナミックな景観を求めてロケに行ったり、走りのシーンにこだわり続けた。
そこにおけるクルマは「完成された商品」であり、その完成度の高さを競い合っていたともいえる。
一方で「買うまでのプロセス」を描くのは日用品(=コモディティ)の世界の常套手段である。スーパーマーケットなどの売り場が登場するのは、食品やトイレタリーでは、これまた頻出の映像だった。商品の完成度よりも、消費者との距離を縮めることが広告の役割だったのである。
その手法をクルマが取り入れた。売り場にあるクルマが気になったりして、それを買うまでのストーリーを描いていく。具体的車種で言うと、ルキノ(日産)、カレン(トヨタ)、ファミリア(マツダ)である。どれも94年の広告である。バブル崩壊が決定的になった頃だ。
その頃から、クルマはひたすら日用品としての役割を求められるようになったと思っている。高級車を中心に「憧れのクルマ」が描かれることもあったけれど、大きな流れは変わっていない。
国内の自動車販売はたしかに不振である。だが、「移動手段としてのクルマ」のウェイトはどうなのか。都市部においては公共交通の発達で低下していると思うが、地方においてはまだ上がっている。コンパクト・シティに転ずるまでにはまだ時間もかかるので、クルマ必須の郊外型ライフスタイルは当面緩やかに拡大するだろう。
そうなると「18歳になったら、とりあえず中古の軽を買いに行く」というのが、現実的な自動車の消費行動である。そのリアリティにどれだけ接近できるのか?
いまの自動車の広告は、この「リアリティへの接近競争」のようになっている気もする。
そう考えると、クルマだけではなく、いろんなカテゴリーでのリアリティ探しが混沌としている。混沌の原因は、シンプルだと思う。日本の社会における「リアルな幸せ」がわからなくなっているからなのだ。(まだ続く)