
裁判員裁判(この文字列って何だか入力しにくい)のニュースを見ていると、広告ビジネスで起きていることと似たようなことがあるんだな、と思う。
今のところ結構順調な滑り出しのようだけど、被告が無罪を主張しているケースはないので、焦点は量刑になる。
結構振れ幅があるようだが、婦女暴行や殺人などでは厳しく出るようだ。「求刑8掛け」にはならないという。
当初の頃はよく記事になっていたけど、弁護士にとって厳しいのは従来のような「情状酌量」のロジックが、裁判員にとってはロジックにならないということ。
これが個人的には興味深い。
法廷のプロたちは、まあいろんな犯罪者を見ている。そうなればその中には「本気で悪いやつ」から「それなりの事情がある人」まで、さまざまだ。
殺人だってそれなりの「理由」があれば情状となる。
一方で、裁判員の中で「知り合いに殺人経験者がいます」という人はまずいない。「友人が婦女暴行したけど、それなりにいいやつです」という人もいない。
そうなると、殺人犯や婦女暴行犯は、まず「とんでもない」人ということになる。ここで弁護士が過去の生い立ちなど持ち出すと、かえって話がこじれる。「恵まれない境遇で育っても犯罪を起こさない人はたくさんいる」というのが法廷外での常識だからだろう。
で、これが何で広告ビジネスに関連するのか。
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近年、広告効果への判断が厳しくなっていると言われる。これは事業主が広告効果についての「情状酌量」を認めなくなったからだと思う。宣伝セクションと代理店の間では、「広告に当たり外れ」があるというのは暗黙の了解だった。
しかし、高額の宣伝費とその効果の関係が、他の部署の「素人裁判員」から見ると、それはあまりに緩いということになる。投資対効果が不明だ、ということになってマス広告は厳しい状況に追い込まれてきた。
インプットとアウトプットの関係も裁判に似ている。
裁判のインプットは「何人殺した」のような定量情報と「どんな事情があった」という定性情報がある。アウトプットは「懲役○年」のような定量情報中心だが猶予の有無など数値化できないものがある。
広告も「いくらかけて」という定量情報と「どんな制作物か」という定性情報のインプットがあり、アウトプットには「どれだけ売れた」「到達した」という定量情報と「イメージ改善」のような定性情報がある。
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裁判員制度で情状酌量のような定性情報のインプットが理解されないのと、「クリエイティブの妙」が理解されにくい傾向は良く似ている。
また、アウトプットの数値が「一般常識」に寄っていくところも類似性がある。広告をうった後で「今回は効かなかったなあ」は許されにくい。
裁判員制度もそうだけど、「広告の素人」がもたらしたプラス面もたしかにあるだろう。芸術家になりたいけどリスクのとれないサラリーマン・クリエイターが、企業予算にパラサイトしているような広告は減った。
ただし計測しにくい部分を捨て去ってしまうのは、思考の放棄でもある。「オレにはワケが分からん」と言いつつゴーサインを出した経営者が、パワーブランドを作ったケースもある。
マーケティングコストにも「情状」は必要なのだ。
しかし「仕分け」という対費用効果全盛の時代に、例の東京五輪招致ビデオの「10分5億円」である。こういうところで「暴利だ」と揚げ足をとられて、広告ビジネスが厳しい目で見られるのかと思うと少し空しい。