ある大学の先生から聞いた話である。専攻はマーケティング。
ある時その先生の師匠と、議論になった。師匠は齢70になろうかという大家である。
話の内容はマーケティングのモデルの有効性のようなものだったらしい。たしかに、モデルというのは山ほどあるけれど、それが実際の市場で通用するかしないかは議論の対象になる。
経営学のような社会科学では避けられない話なわけで。もっとも理論だけ教え込んでそのまんま、という先生もまだまだいるので、適用性の議論になること自体、実は稀だったりするのだけど。
で、ひとしきり話の後で、この師匠はひとこと漏らしたそうな。
「でもね、○○君。人の気持ちなんていうのは分からないものだからね」
いや、それはそうなんだろうけど、じゃあマーケティングって、結局何なのだろう、という話にはなってしまう。そりゃ、人の心は分からないけど、だったらリサーチしても意味はないし。
でも、僕はこの言葉に共感もする。一生懸命に市場導入を考えたのに実際は大コケだった...というようなタイミングでこれを言ってはどうかと思うが、長く研究を続けるほど、こうした気持ちになるんだろうな~というのはよく分かる。
たしかに人の心はわからない。多くの資金を投じてリサーチをしても、売れないものは山ほどある。
マーケティングは、どんなに科学的研究が進んでも割り切れない「あまり」のようなモノがある。人の心に関わる以上、それは所与の前提だと思っている。
ところが、そうした曖昧さを嫌う人もいる。費用対効果を追求する。当然槍玉に上がったのはマス広告だった。
一方買い手の方も曖昧さを嫌う。事前に評判を調べて、「間違いのない」買い物をしたがる。ムダは悪である。CMを見ても直線的に購買はしなくなった。
つまり、売り手と買い手がお互いに「ムダの低下」を追及していったところに、ネットを舞台とした市場が伸長した。そして、ネット上の情報を使いこなし、ポイントなどの付与サービスを使いこなすことが、賢い"スマートな"消費者とされた。
と、このストーリーに落とし穴はないのだろうか。売り手と買い手が「効率化」を追求したことで失ったものはないのか。
まだ自分の中でまとまってはいないのだけれど、老教授の言葉を耳にしてから、ずっと気になっていることである。
拝読させていただき僭越ながら非常に共感いたしました。 最近の広告は、ROIやone to one マーケディング、コンバージョンばかりを重視するあまり、従来のマスが担っていた「市場がないところに市場を創出する」「人々が想像もしていなかったプロダクト、それを使用することで変わる生活、を広告によって提示する」役目が希薄化しているように思います。
それは商品のコモディティ化や、ターゲットがあまりに細分化されたために「革新的な商品・サービス」があまりに見えづらくなってしまったからかもしれませんが、多くのプレイヤーが「マーケティングという平均点」を目指すがあまり、広告そのものがあまりにも味気ないものになっている気がします。
別段ネットに限ったことではなく、それは「人気タレントごった煮戦法」が最近やけに増えてきたマス広告のクリエイティブにも言えるかもしれませんが・・・。
ありがとうございます。単純に言えば「味気ない」。でも、実際のいろんな社会状況見ていると、「ムダ」を省きたいニーズが圧倒的に強い。それでもって「曖昧さ」の希求は”バブル的”で十把一からげになっちゃう。
しばらくは、このことをユックリ考えようかと思っています。