夫は商才があり、いわゆる「目端の利く」タイプだった。
妻の実家はかなりの土地持ちだったが、その土地を活かしてビジネスができると言い出したのは夫である。当時この土地は広大でも、旧市街からは外れていた。だが、やがて人の流れが変わるのだから、ここにいろいろな商店を誘致してその賃借料だけでもかなりになるぞ、と夫は言った。
戦後人口の急増に伴って、街は拡大した。夫の読みどおり人の流れは変わった。妻の家が持つ土地に出店を望む人は後を立たない。かなり、高値に設定しても後から後から店は増える。思い切ってビルを建ててみると、これがまた満杯となった。
夫は単に場所貸しをするのではない。飲食店、物販などの店舗も時代の先をいく店を発掘していく才があった。そのため、賑わいは増し、出店希望者は増えて、土地の価値はますます上がっていった。
転機が訪れたのは90年代半ばからだろうか。街を行く人の高齢化が目について、若い人が少なくなってきた。出店希望は相変わらず多かったが、昔から営業していた店の客が減って閉店したり、なんとなく寂しくなってきた。
そして、ふと気づくと今まで人がいなかった裏道に若者が集まり始めているという。
若者たちは、いままでの一等地の街はあまりカッコいいと思わなくなっているようだ。それよりも裏道にできた小さな店で、店主とやり取りしたり、場合によっては注文を聞いてもらえるような時間を楽しむようになっていた。
そのうち、段々と店じまいが増えてくると夫婦の間にも焦りが出てきた。
年齢は頼みもしないのに増えていく。今日で45歳になって気分はすっかり「後期中年」である。僕は個人事業主なので、仕事の決算も12月で、その直後に歳をとるから、否応無しに「来し方行く末」を振り返る。別に暗くなることもないんだろうけど、「ア~ア」という感じで、嬉しいというより、誕生日に食いたいものが食えるような健康と経済の状態にしみじみ感謝することくらいである。
料理を作ってくれる家族がいるのも、ありがたい。
仕事は独立して4回目の決算をしたことになる。会社を辞めるまでは不安で仕方なかったのだが、こうやって生きていることが未だに信じられないことがある。その割に、会社を辞めて後悔したことは一瞬もなく。それはそれで、なんだか怖い気もする。
1つだけ味わえないのは「会社をさぼって直帰する」という感覚である。今だから書くけど、僕は30歳で制作を離れてからはかなりワガママ勝手な会社員生活だったと思う。
入社した年は、後に"バブル"と言われる空気は薄かった。クリスマスという日が、いつの日か若い人々に無形の圧力を与えるようになるのは、その直後の頃である
社会人初めてのクリスマスイブは、周囲が淡々としていたこともあって、淡々と過ぎた。そして翌朝、例によって閑散としたオフィスに着いたら、ちょっとした異変があった。
オフィスのどこかから、クリスマスソングが聞こえたのである。
合間に聞こえるアナウンスは英語だった。どこかのラジオで、FENがつけっぱなしにされていたのである。(Far East Networkは米軍放送:今のAFN)
音楽は、とあるCMディレクターのデスクのラジオから流れていた。彼は、朝はもちろん日中も殆どオフィスに来ないのだが、そのクリスマスの朝に限って、会議か何かで早々と出社したらしい。僕が来た時には、鳴り続けるラジオを残して、既に姿を消していた。
米軍やその家族向けの放送であるから、ホリデー・プログラムである。10時、11時......と段々と人が増えてきても、クリスマス・ソングはそのまま流されていた。
これが、クリスマスなんだ。その空気だけは良く覚えている。
僕は、とても素敵な職場に勤めることができたのかもしれない。ラジオからのメロディーに耳を傾けながら鉛筆を削り、そんな感覚になったことを今でも覚えている。
Merry Christmas!!
広告会社の「寿命」を考えようと思ったのは「丸の内の広告代理店にて」に書くことを考えていた時だった。
入社して、配属後に月例の「グループ会」とかいうのがあった。まあ、月次の売上げとか役員が何を言ったということを伝達される場である。「ヘ~」と思ったのは、毎月売上げの発表が「**億円」「前年比*%」の他に「電通との倍率」が知らされることである。もちろん電通はそんなことはしているとは思えない。博報堂ならではの慣習である。
その頃の上司によれば、入社した頃は3倍以上だったのが、今では2倍ちょっとになったと喜んでいた。
だが、「約2倍」くらいで膠着した。やや記憶は曖昧だがバブル崩壊後90年代初頭のことではないだろうか。
今でも電博の単体の売上げはその程度の倍率である。だが、あまり数字に意味があるように思えない。
実は広告界も「塹壕(ざんごう)戦の時代」に突入して久しいと思うからである。
丸の内時代の話は、また思い出したら不定期で書こうと思ったのだが、書いているうちにふと思い出しことがある。
それは「会社の寿命」というお話だ。
僕が入社する前後に「会社の寿命30年説」というのが流行った。83年に日経ビジネスがデータ分析をもとに唱えたのである。もちろん100年を迎えて健在な企業も多いが、なんだか気になる話ではある。
というのも、今の広告ビジネスは「30年目」を迎えているように思うのだ。
会社の寿命は30年以上続いても「ビジネスのスタイル」は30年くらいで入れ替わる、という仮説は戦後広告ビジネスだと成り立つかもしれない。
最初の30年は終戦から80年くらいまでではないだろうか。大体50年くらいから広告費も急増する。その後2度のオイルショックまでは、経済成長とともに広告費も伸びてきた。
転機は80年ごろからである。
いまは知らないが、当時「新聞15段」を作るのは、コピーライターとデザイナーにとって最大のイベントの1つであった。つまり「全面広告」である。
先輩のライターも気合が入るので、打ち合わせは長引き、制作に入っても推敲の繰り返しとなる。結局は新聞社への送稿がギリギリとなることもあった。一旦入稿用のフイルムができても、「てにをは」を直し始めてやり直すことも多かった。
新聞社への入稿は「6日前」とか決められていたが、こういう期限はどんどん伸びる。ある漫画家は「締め切りなんてゴムのようなものだ。想像以上に伸びるが、ある時プツンとなる」と言っていたというが、たしかに伸びた。
そして、ついに「前日入稿」という荒業を体験する日が来た。
残業が多かったとはいえ、毎日、僕は9時半に出社するようにしていた。
夜遅いのが生来苦手で、大学受験の時も11時くらいまでしか起きていられず、早起きしていた。大学に入っても、酒を飲めばともかく、普通に暮らしている時は朝型だった。
そんなこともあって、とりあえず朝に行くと職場には殆ど誰もいない。ただ、最初についた先輩が、めずらしく朝型だった。
どうするかというと、お茶を飲みに行くのである。社内のビュッフェか、ビル内の喫茶店。もしくは旧都庁の脇の喫茶店のこともあった。
別に仕事の話をすることもなく、あったとしても何となく、といった感じだった。その先輩は下戸だったのだが、おかげで「素面でも、こみいった話をする」という習慣ができた。学生の時は、酔ってわけわからなくなった頃にマジメな話をするので収拾がつかなかった。そういう意味で、これはいい習慣だった。
別の先輩は、夕方になると飲みながら仕事をしていたが、これはこれで面白かった。
会社に入った頃、月の残業時間には「上限」がなかった。
いわゆる「青天井」で、いくらつけてもOKだった。100を超えるのはフツーで、毎月150くらいつけている同僚もいた。
とある先輩の「記録」は260だったそうである。
つける方もつける方だが、払う方も払う方だ。だが、別にこれは違法ではない。労使が協定を結んでいなかったのである。なぜかは知らないが、そうだった。やがて協定が結ばれて幾分落ち着いたが、手続きがやや煩雑になっただけで、相変わらず超過勤務は多かった。
交通費も緩かったが、タクシー代については「3000円までは自己申告」つまり領収書はいらなかった。これも何年かで変わったが(そりゃそうだろう)、みんなのデスクの前には「初乗りからの料金一覧」が貼ってあって、それを見ながら清算していた。
今にして思うと、当時の代理店は明らかに「マスコミ」の気風が強かったのだろう。
丸の内から赤坂や神田方面に行くのはもちろん、池袋、新宿、渋谷などのクライアントにもフツーにタクシーで行っていた。しかも首都高速である。近くの東京海上に就職した先輩が、同じようなエリアを担当していたが、呆れていた。
妙に太っ腹なだけで、さほど学ぶことのなさそうな当時の代理店のようだが、やはりいいところもあったと思う。
僕が博報堂に入ったのは1986年だった。5月の半ばに配属された制作室は東京駅丸の内南口の東京ビルの2階にあった。今も同じ名前のビルが同じ場所にあるけれど、それは数年前に建て替えられたものである。
当時は9階建てで、僕のいた会社は1階から3階の殆どと、5階、6階の一部を借りていた。
今より少ないとは言え、千数百人はこのエリアにいたはずなのに、よくそのくらいのフロアで収まっていたと疑問に思われるかもしれないが、答えは簡単。
いまや都心では見ることのない横長のビルだったのだ。とにかく、ワンフロアが広い。会社の中には長い廊下があって、南北に伸びていた。北よりの中央郵便局寄りに東の方に「コ」の字の廊下が伸びていて、グルリと回遊できるようになっている。つまり数字の「6」のような感じの作りである。
営業セクションは、この長い廊下に沿って配置されていて、制作はコの字の奥の方にいた。朝は廊下沿いは活気があるが、奥のほうが静かであった。
さらに地下のかなりの部分が会議室だった。あんなところで、よくも夜更けまで会議をしていたものだ。ちなみにマーケティングは5階の一部を使い、6階はプレゼンテーション・ルームと役員室だったと思う。今は、線路を見下ろすレストランになっているようなあたりだろう。
昔話を書こうと思ったのは、昔を懐かしむためだけに書くのではない。ただ、思い出話も忘れないうちに書いておこうと思ったのと、もしかしたら今のビジネスに参考になるかも知れないと思ったからだ。
喪中欠礼が届く季節となった。
物故者を直接存知あげないことが殆どだが、時折自分自身の知人が亡くなったようなこともある。
歳を重ねればやむを得ないとはいえ、まだ亡くなるには若すぎた人もいる。
阿部浩士さんも、そういう人だった。博報堂中部支社の営業部長で、享年51歳だった。1月11日に自宅で急逝したのである。
僕は90年から4年半ほど名古屋に勤務していたが、その時に一緒に仕事をしていた。彼も東京からの転勤組だったので、一旦は本社に戻ったのだが、その後希望して自ら名古屋へ行った。ご子息の教育環境その他を考えられてのことだったと伺っている。
1月13日の通夜に駆けつけて、最後のお別れをした。
その後、ブログに追悼を書こうと思ったのだが、さすがに筆が進まない。だが、葉書を頂いたのを機会に彼のことを記しておこうと思う。
個人的な思い出ではあるけれども、広告ビジネスに関わる人にとって、彼を直接知らなくても、知っておいて欲しいことがあるからだ。