
さて、昨日に引き続きmixiのCMを素材にしてメッセージ分析を試みてみよう。
今回は価値構造についてである。まずはクラシックな価値構造分析をおこなってみた。
とっかかりはキャッチコピーである。「mixiってる=つながってる」と読ませているので、機能価値は「つながる」ということと分かる。
問題はこの先、情緒価値から社会・生活価値への流れなのだけれど、これが3つのCMで異なっているように見える。
一般的には1つのブランドでは1つの価値構造を持たせるので、そういう意味では定石とは異なる面もある。
あえて言えば、「卒業」と「茶色い犬」は情緒価値的には「しっとり」という意味で類似している気もするけれど、「卒業」篇は現在イキイキと働いている姿が映るので、単なる「しっとり」とも異なる。
昨日見たようにセグメントも多様であれば、訴求価値も「mixiってる」以外はまた多様になっているのである。
なお、このキャッチコピーだが「mixi」というブランド名が含まれている。こうした「ブランド名読み込み」のコピーが採用される場合は大体2つのケースがある。
1つは「ブランド名の認知向上」に目的が徹している場合。
2つ目は、コピーがブランド価値をうまく言い当てられず、コピーライターが悩んでしまった場合である。
今回の事情はわからない。ただし3つのCMがそれぞれ異なる価値を訴求しているということは、そもそも「mixiの価値は一言で言い表せないから」からこそ生まれてきたということもあるだろう。その結果、「mixiってる=つながってる」という「当然だけれど圧倒的に正しい機能価値」がキャッチコピーになったという可能性があると思う。その上でいろんなターゲットや価値構造を順列組み合わせ的に考慮して制作されているように見える。
実は、違和感の正体はここにある。
mixiのCMが流れている。ホームページのここを見たら3篇作っているようなのだが、一通り見た時にちょっとした違和感を感じた。
何でかな、と思ってノートに分析してみたら、すぐに分かった。
今日の内容は3篇とも見ていただくことを前提に書いているのだが、結論から言うとこの図表のように「見事なまでに」異なる属性のセグメントを描いているのである。
基本的には「はじめよう」ということで登録制にともなうノンユーザー狙いだと思われるが、それだけでもないようだ。
「卒業」篇は地方の高校を出て上京していくというストーリー。ローカルエリアを睨んでいるのだろう。描き方はミドルユーザーに見える。
これは「距離が遠くなる」というタイミングで、SNSの情緒価値を強化しようとする意図に思える。
「友だちと一緒に」篇はOLだが「同期」という非公的ネットワークへの帰属である。1人のOLはヘビーユーザーのようだが、もう1人はノンユーザーのような描き方だ。エリアは都市部。
「茶色い犬」篇は子どものいる会社員男性。一戸建てのようなので郊外のイメージだ。帰属は家族のように思えるが、mixiでつながっているのは会社の後輩のようなので、これによって先のOL篇とは補完関係にある。
違和感、というのはCMを見ているのに、何だか「企画書」を見ているような気分になるのだ。というか、オリエンテーション、プレゼンテーション、さらにはその後の議論などが何となく創造できる。
4月から大学の講義で「広告分析による戦略読解」を取り入れようと思うのだが、このCMなどは格好の材料になりそうである。
CMへの評価はそれぞれだとは思うが、今回はあくまでも戦略分析の素材ということで読解を続けたい(つづく)
※注:mixiのHP内にはこの3篇のCMのつながりや背景についてのページがあるが、今回はあくまでもオンエアしている3篇のみを分析素材にした。
広告代理店がブランドマネジメント手法を開発して「主力商品」に育てようとしてからどのくらい経つのだろうか。
と思って、自分のことを思い出した。僕が代理店でシステムつくりのメンバーになって、「ブランド本」を出したのが1998年で、もう12経っている。(本題と関係ないのだが何となく呆然...初めて自分の名前で論文出した時ってまだ34歳だったのか...)
と、気を取り直して「広告代理店がブランド構築に関わる」ということについて、ちょっと考えてみたい。
広告代理店が企業のブランド構築を主導すると、幾つかの「クセ」が出てくる。それが最近曲がり角に来ている気もするのだ。
まずは、コミュニケーションを重視したがること。場合によってはマス広告に「落とし込む」ことばかりを考えているような人もいる。概して年配の営業に多いのだけれど、これはもはや通用しないだろう。
そして、全体的に情緒価値を重視したがること。「機能だけではなく、消費者との絆を大切」というのは正論なんだけれど、情緒価値だけの差別化は、景気後退時には通用しないことが明らかになりつつある。
その結果、ブランディングの対費用効果については「ムニャムニャムニャ」になってしまいやすい。
しかし、一番困難なことは情報量が飛躍的に増えた結果、企業が想定したブランド価値が伝達しにくくなっていることだと思う。丁寧に価値規定をしたところで、消費者はブランドをさまざまな面から知るようになった。
マーケティングROIについての基本的な文献として、その名も「マーケティングROI」と言う本がある。(J.Dレンズゴールド/ダイヤモンド社/2003・日本語版2004)
この中で広告に関してこんな記述がある。(65ページ)
###(以下引用)
目先の販売増加を狙った大衆向け宣伝活動がある一方で、水準の高いブランド広告は、長期にわたって持続する顧客との感情面での結びつきとブランド選好をつくり出し、またその企業に関する株式市場の評価にまで影響する可能性がある。この種のブランド戦略に関する投資判断を、無理に標準のマーケティングROIの等式に当てはめようとすることは現実的ではない。個々の投資ごとに増分価値を見極めることは不可能だからだ。本書に紹介するマーケティングROIのプロセスを用いて、この種の投資を管理する目的のためには、これらの広告を一般管理費として考えるのがよい。そのうえで、ブランド広告をブランド・エクイティ(ブランド資産)の算出法を用いて管理できれば、その投資測定法はいっそう強力なものになる。
(引用ここまで/下線山本)
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一読してわかるとおり、ブランド広告の効果をROIの視点では測りきれないと言っている。もちろん、これについては以下のような疑問も提示されるだろう。
企業内のマーケティング担当者が、社内から厳しくROIを問われるようになって久しい。これは欧米でも同様らしく、MBAをとった学生は「チェックできる側」の財務系の仕事を希望して、マーケティング志望が減っているという。大学の先生に聞いた話である。
実際にマーケティング担当者から相談を受けることもある。この場合広告予算そのものに関わるので、代理店の人には話しにくい状況もあるわけで。
全般的な傾向として言うと、短期的販促については経験値も高まってきて、社内でも納得されるようになりつつある。一方ブランディングに関わるコミュニケーション費用は、それほどキッチリ説明できない。
この話を聞くと、人事採用のことを思い出す。人事は長期的な視点で採用するが、現場は即戦力を求める。しかし、即戦力は「今がピーク」の可能性もある。
「どうしてああいう採用なのか」と問われた経験は人事担当者は持っているだろう。しかし、あえてハンパな反論はしない。それはプロの判断でありあえて計測はしないからだ。
人材ROI、という発想もあったようだが定着はしていない。
ちょっと前のネット広告が新聞広告を逆転したというニュースで、思い起こすことがあって、それは会社を辞めた理由についてである。
「公式の」理由はいろいろとあるけれど、わざわざ言わなかった「理由」もあって、その1つは僕がマスメディアのコミッション・ビジネスの将来性に懐疑的だったからだ。
その一方で、経営層は全然「ダイジョーブ」だと思っていた。
わざわざ人材開発を希望したのも、マス広告のコミッションに依存しないで「稼げる人材」を育てることが急務だと思ったからだ。
「こうすれば新しいビジネスができる」といろいろ考えたのだけれど、本気でやろうとしないので、1人でやってみることになった。まあ、経営というのもそんなもんだった。
まあ9年前のことである。今に比べれば業界はまだまだノンビリしていた。
困ったのは「まだまだマスは大丈夫」とのたまう役員などが「ポジティブ思考」だという好意的評価がされちゃうことだった。
「いやあ、あの人は前向きだから」と部下からも慕われ、上からも評価されたりする。
今になって思うのは「ポジティブ・シンキング」と「ノー・シンキング」は紙一重ということ。何にも考えていない人は前向きになれる。危機感の強い人は疎まれる。
普通に考えれば結論は簡単だった。だが、その「普通」が難しいのである。

マーケティングや経営論には戦争の比喩が使われることも多い。
ただし、比喩というのは「ほどほどにする」というのが望ましい。一つの体系と、もう一つの体系が完全に一致するというのは、実際はないのである。
したがって、マーケティングが戦争でも恋愛でも、別に「盆踊り」でもいいかもしれない。
「マーケティングは盆踊りだ」
それで、幾つかの共通点を挙げれば、命題としては成立する。でも、それは決してアカデミックでも、まして実践的でもない。ただの大喜利だ。
さて、実際に「近代戦の目的」というのは何か。以前自衛隊の人に直接聞いたのだけれど「より広い領土の確保」だと言う。したがって戦闘行為自体は当然目的ではない。
これは、「領土=シェア」と考えれば、それなりの意味を持つように思える。特に日本のように人口の減少が起こっている市場は、「限られた陸地」と同じだ。当然競合からのシェア奪取が重要な目的となる。
どのような人を標的にするか、というのは戦略レベル。どのような手段でその領土をいただくか、というのが戦術レベル。空爆か歩兵戦か?のような比喩も分かりやすい。僕も使うことがある。
ただし、先にも書いたように比喩というのは、ほどほどにしないと「たとえ話の整合性」ばかりが気になってしまう。
実は「領土=シェア」にも落とし穴はある。
昨週書いた「離れ」論は、いろいろ反響があった。ちょっと気になる男女の件を書いておきたい。
クルマ離れ、というのは男性がクルマを所有することが「モテ」に直結するという事実、というか思い込みがあったから2ドアクーペなどがやたらに売れていた。女性の価値観が変わればそうした需要はなくなる。
酒離れ、というけれど、どちらかといえば戦後の成長期が「飲みすぎ」だった可能性もある。特に好景気下の男性の縦社会は酒類と相性がいい。飲みに行く理由は山ほどあって、飲めない人も無理して飲んで酔うことで帰属を確認できた。
これも環境が変われば、飲酒の動機が減るのは当然だ。
考えてみれば女性の免許保有率は上がったし、酒も飲むようになった。若い女性が何かから「離れた」という話は聞かない。むしろ「進出」の方が多いのではないか。
ラーメンも鉄道もカメラも落語も。かつては男性文化の典型だった分野で女性がいることは当たり前だ。
そう、かつての若者は男女間で消費力に差があったのだ。雇用格差はもちろん、学生のバイトだって女性のできることは限定的だった。だから、「昔の若者」を消費面で語る時に、実は「昔の若い男と今の若い男」の比較になっていることが多い。
このあたりをわからないまま「離れ論」を垂れ流すメディアの論調もまあテキトーである。
実は新しい本の執筆に取りかかっている。今週はほとんど自宅の仕事場にこもっていた。執筆モードなのでアタマは活性化するのだけれど、本で書くべきこと、なぜか本の内容と微妙にずれたアイデアばかり浮かぶので、それを毎日ブログに書いていた。
というわけで、"離れ"三部作のオチは、予想通り?マスメディアの話ということになる。
実は○○離れに絡む若者論のトーンにちょっとした疑問があった。
昔からの伝統的若者論というのは、彼らのマナーや言葉遣い、ファッションなどに大人が「苦言を呈し」一方で別の識者が「それなりの理解」を示しながらユルユルと論じられていた。まさに五輪選手の服装問題がそれである。
つまり若者の「規範の変化」についての是非が問題だった。漱石を読むとそういう会話も多いけど、まあ昔から繰り返される普遍的な話であろう。
ただ○○離れの話は「規範の変化」ではない。クルマに乗らない、酒を飲まないというのは「嗜好の変化」である。だから、企業にとっては重要な研究テーマだけれど、それ自体に「いいか悪いか」は関係ないのだ。
ところが、そうした現象は「深刻」であり、「若者の元気のなさ」や「コミュニケーション能力不足」とかいうキーワードで下手な味付けをされてニュースとして提供される。
結局、○○離れを「いけないこと」にしているのはマスメディアなのだ。

若者がいろんなことから離れているなら、年寄りはどうなのか。
個人的に気になるのは「年寄りの常識離れ」である。
かつて老人は、集団の中で畏怖され尊敬もされた。長寿であること自体が稀だったので、それなりに生き残って来た人は生への感謝が強かったのだろう。
だから、社会においてそれなりの扱いを受けてきたのである。
しかし、今や老いることは単なる通過点である。生への感謝を忘れた老人は、常識すら忘れていく。
若者を責める論調はあっても、老人を指弾する人は少ない。「暴走老人!」という本があったけれど、むしろ老人に同情的なトーンでもある。
しかし、実際に困った年寄りは多い。スポーツクラブの更衣室で係員に注意されて逆ギレしていた人や、店でネチネチとクレームたらす人は本当によく見かけた。
「見かけた」と何となく過去形で書いたのは、一昨年秋の大不況から目撃件数が減ったからである。おかげでスポーツクラブも平穏だけど、不況の効用もそれなりにはあるのだろう。
ただ、老人予備軍がこれまた大変らしい。自治体の方に聞けば分かるけれど、団塊世代の大量退職は「住宅地のクレイマー」の大量発生をもたらした。
役所への要望を言うのは、子持ちの主婦が多かったという。しかし彼女たちの中には「改善しましょう」という姿勢を持つ者もそれなりにいたらしい。役人によってはその声を活かして予算を取ったりする。
ところが団塊男性のクレーマーは、単に言いっぱなしでかつ威張るのでタチが悪いという。