マーケティングROIについての基本的な文献として、その名も「マーケティングROI」と言う本がある。(J.Dレンズゴールド/ダイヤモンド社/2003・日本語版2004)
この中で広告に関してこんな記述がある。(65ページ)
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目先の販売増加を狙った大衆向け宣伝活動がある一方で、水準の高いブランド広告は、長期にわたって持続する顧客との感情面での結びつきとブランド選好をつくり出し、またその企業に関する株式市場の評価にまで影響する可能性がある。この種のブランド戦略に関する投資判断を、無理に標準のマーケティングROIの等式に当てはめようとすることは現実的ではない。個々の投資ごとに増分価値を見極めることは不可能だからだ。本書に紹介するマーケティングROIのプロセスを用いて、この種の投資を管理する目的のためには、これらの広告を一般管理費として考えるのがよい。そのうえで、ブランド広告をブランド・エクイティ(ブランド資産)の算出法を用いて管理できれば、その投資測定法はいっそう強力なものになる。
(引用ここまで/下線山本)
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一読してわかるとおり、ブランド広告の効果をROIの視点では測りきれないと言っている。もちろん、これについては以下のような疑問も提示されるだろう。
企業内のマーケティング担当者が、社内から厳しくROIを問われるようになって久しい。これは欧米でも同様らしく、MBAをとった学生は「チェックできる側」の財務系の仕事を希望して、マーケティング志望が減っているという。大学の先生に聞いた話である。
実際にマーケティング担当者から相談を受けることもある。この場合広告予算そのものに関わるので、代理店の人には話しにくい状況もあるわけで。
全般的な傾向として言うと、短期的販促については経験値も高まってきて、社内でも納得されるようになりつつある。一方ブランディングに関わるコミュニケーション費用は、それほどキッチリ説明できない。
この話を聞くと、人事採用のことを思い出す。人事は長期的な視点で採用するが、現場は即戦力を求める。しかし、即戦力は「今がピーク」の可能性もある。
「どうしてああいう採用なのか」と問われた経験は人事担当者は持っているだろう。しかし、あえてハンパな反論はしない。それはプロの判断でありあえて計測はしないからだ。
人材ROI、という発想もあったようだが定着はしていない。
ちょっと前のネット広告が新聞広告を逆転したというニュースで、思い起こすことがあって、それは会社を辞めた理由についてである。
「公式の」理由はいろいろとあるけれど、わざわざ言わなかった「理由」もあって、その1つは僕がマスメディアのコミッション・ビジネスの将来性に懐疑的だったからだ。
その一方で、経営層は全然「ダイジョーブ」だと思っていた。
わざわざ人材開発を希望したのも、マス広告のコミッションに依存しないで「稼げる人材」を育てることが急務だと思ったからだ。
「こうすれば新しいビジネスができる」といろいろ考えたのだけれど、本気でやろうとしないので、1人でやってみることになった。まあ、経営というのもそんなもんだった。
まあ9年前のことである。今に比べれば業界はまだまだノンビリしていた。
困ったのは「まだまだマスは大丈夫」とのたまう役員などが「ポジティブ思考」だという好意的評価がされちゃうことだった。
「いやあ、あの人は前向きだから」と部下からも慕われ、上からも評価されたりする。
今になって思うのは「ポジティブ・シンキング」と「ノー・シンキング」は紙一重ということ。何にも考えていない人は前向きになれる。危機感の強い人は疎まれる。
普通に考えれば結論は簡単だった。だが、その「普通」が難しいのである。

マーケティングや経営論には戦争の比喩が使われることも多い。
ただし、比喩というのは「ほどほどにする」というのが望ましい。一つの体系と、もう一つの体系が完全に一致するというのは、実際はないのである。
したがって、マーケティングが戦争でも恋愛でも、別に「盆踊り」でもいいかもしれない。
「マーケティングは盆踊りだ」
それで、幾つかの共通点を挙げれば、命題としては成立する。でも、それは決してアカデミックでも、まして実践的でもない。ただの大喜利だ。
さて、実際に「近代戦の目的」というのは何か。以前自衛隊の人に直接聞いたのだけれど「より広い領土の確保」だと言う。したがって戦闘行為自体は当然目的ではない。
これは、「領土=シェア」と考えれば、それなりの意味を持つように思える。特に日本のように人口の減少が起こっている市場は、「限られた陸地」と同じだ。当然競合からのシェア奪取が重要な目的となる。
どのような人を標的にするか、というのは戦略レベル。どのような手段でその領土をいただくか、というのが戦術レベル。空爆か歩兵戦か?のような比喩も分かりやすい。僕も使うことがある。
ただし、先にも書いたように比喩というのは、ほどほどにしないと「たとえ話の整合性」ばかりが気になってしまう。
実は「領土=シェア」にも落とし穴はある。
昨週書いた「離れ」論は、いろいろ反響があった。ちょっと気になる男女の件を書いておきたい。
クルマ離れ、というのは男性がクルマを所有することが「モテ」に直結するという事実、というか思い込みがあったから2ドアクーペなどがやたらに売れていた。女性の価値観が変わればそうした需要はなくなる。
酒離れ、というけれど、どちらかといえば戦後の成長期が「飲みすぎ」だった可能性もある。特に好景気下の男性の縦社会は酒類と相性がいい。飲みに行く理由は山ほどあって、飲めない人も無理して飲んで酔うことで帰属を確認できた。
これも環境が変われば、飲酒の動機が減るのは当然だ。
考えてみれば女性の免許保有率は上がったし、酒も飲むようになった。若い女性が何かから「離れた」という話は聞かない。むしろ「進出」の方が多いのではないか。
ラーメンも鉄道もカメラも落語も。かつては男性文化の典型だった分野で女性がいることは当たり前だ。
そう、かつての若者は男女間で消費力に差があったのだ。雇用格差はもちろん、学生のバイトだって女性のできることは限定的だった。だから、「昔の若者」を消費面で語る時に、実は「昔の若い男と今の若い男」の比較になっていることが多い。
このあたりをわからないまま「離れ論」を垂れ流すメディアの論調もまあテキトーである。
実は新しい本の執筆に取りかかっている。今週はほとんど自宅の仕事場にこもっていた。執筆モードなのでアタマは活性化するのだけれど、本で書くべきこと、なぜか本の内容と微妙にずれたアイデアばかり浮かぶので、それを毎日ブログに書いていた。
というわけで、"離れ"三部作のオチは、予想通り?マスメディアの話ということになる。
実は○○離れに絡む若者論のトーンにちょっとした疑問があった。
昔からの伝統的若者論というのは、彼らのマナーや言葉遣い、ファッションなどに大人が「苦言を呈し」一方で別の識者が「それなりの理解」を示しながらユルユルと論じられていた。まさに五輪選手の服装問題がそれである。
つまり若者の「規範の変化」についての是非が問題だった。漱石を読むとそういう会話も多いけど、まあ昔から繰り返される普遍的な話であろう。
ただ○○離れの話は「規範の変化」ではない。クルマに乗らない、酒を飲まないというのは「嗜好の変化」である。だから、企業にとっては重要な研究テーマだけれど、それ自体に「いいか悪いか」は関係ないのだ。
ところが、そうした現象は「深刻」であり、「若者の元気のなさ」や「コミュニケーション能力不足」とかいうキーワードで下手な味付けをされてニュースとして提供される。
結局、○○離れを「いけないこと」にしているのはマスメディアなのだ。

若者がいろんなことから離れているなら、年寄りはどうなのか。
個人的に気になるのは「年寄りの常識離れ」である。
かつて老人は、集団の中で畏怖され尊敬もされた。長寿であること自体が稀だったので、それなりに生き残って来た人は生への感謝が強かったのだろう。
だから、社会においてそれなりの扱いを受けてきたのである。
しかし、今や老いることは単なる通過点である。生への感謝を忘れた老人は、常識すら忘れていく。
若者を責める論調はあっても、老人を指弾する人は少ない。「暴走老人!」という本があったけれど、むしろ老人に同情的なトーンでもある。
しかし、実際に困った年寄りは多い。スポーツクラブの更衣室で係員に注意されて逆ギレしていた人や、店でネチネチとクレームたらす人は本当によく見かけた。
「見かけた」と何となく過去形で書いたのは、一昨年秋の大不況から目撃件数が減ったからである。おかげでスポーツクラブも平穏だけど、不況の効用もそれなりにはあるのだろう。
ただ、老人予備軍がこれまた大変らしい。自治体の方に聞けば分かるけれど、団塊世代の大量退職は「住宅地のクレイマー」の大量発生をもたらした。
役所への要望を言うのは、子持ちの主婦が多かったという。しかし彼女たちの中には「改善しましょう」という姿勢を持つ者もそれなりにいたらしい。役人によってはその声を活かして予算を取ったりする。
ところが団塊男性のクレーマーは、単に言いっぱなしでかつ威張るのでタチが悪いという。
若者はいろんなモノから「離れている」らしい。クルマ離れ、酒離れ、海外旅行離れ、テレビ離れ......もう分析も含めて聞き飽きているだろう。そもそも分析が変なのも多いし。
何でかっていうと、それは「若者」という対象に対して大人たちの勝手な思い込みがあるからだと思う。
彼らにとって「若者」とは単なる「若年層」ではない。若者は時に反抗的だが希望に満ち、羽目を外すこともあるけれど好奇心に溢れた存在。そうした暗黙の前提で若年層を捉えている。
だからいろんなモノから離れていくのが不思議なのだろう。そうして今の時代の若年層は「若者」らしくないと語ってみる。
しかし、その原因は若者にあるのではない。明らかに大人の側にあるのだ。
かつての若者が「若者」足りえたのは社会が「若者らしさ」を許容してかつ支えていたからである。
学生について言えば、親の余裕がなくなっている。仕送り額の調査でも明からだ。高度成長期は親にもゆとりがあり、金利もそこそこあったので教育費もそれなりに見通していた。一方親は学生に甘かった面もある。親世代が戦争体験者だったので物質的貧困はできる限り回避させたいという気持ちが強かったのだろう。「クルマが欲しい」といえば、とりあえず中古を買ってやったりする。
考えてみれば学生運動が活発な時代も、社会全体やメディアも若者に甘かった。戦後の自由な雰囲気を代弁してくれているので心のどこかで応援していたのか。大人が蒼ざめるのは爆弾テロ以降である。

"スマートな"消費者は余計なものを買わない。買ってしばらくしてから後悔することもない。高いだけでまずいレストランに行くこともなければ、名ばかり老舗ホテルで不快な思いをすることもない。
いや、実際にはそういうこともあるのだろうけど、その危険性はきっと低減しているはずだ。そうした消費者はネットを中心とした情報で武装しているからだ。
日本の消費者は本当に賢くなったのだろうか。自分の購買を後悔するような「オッチョコチョイ」な消費者は減ったのだろうか。
おそらく、そうだろう。大体オッチョコチョイも死語なんじゃないか。いざキーボードで入力すると結構面倒くさいし。じゃあ、何と言うのだろう。慌て者?粗忽者か?いや、それは戦前の語法になっている。
何でこんなことを言うかといえば、なんだかんだ言って、こうした「特にスマートじゃない消費者」つまりオッチョコチョイの購買が、消費市場をそれなりに活性化してきた面もあったと思うからだ。
日本の消費財メーカーの販売アイテムは異常に多く、その多くが翌年には姿を消す。これは、アカデミックな分析やコンサルタントの指摘によれば「非効率な消耗戦」だった。
ただし、オッチョコチョイの消費者がいた時代は、それでも何とかなっていた。企業も消費者も切羽詰ってなかったのだ。そして、販売促進費用が撒布されるプロセスで最もおいしい思いをしたのはマス広告の関係者だった。
未だに新製品の数は多いかもしれないが、もうオッチョコチョイは減っている。あえて確信犯でキュウリやシソの味を出すコーラがあるけれど、あれは一部の消費者がオッチョコチョイを演じてさしあげている、と考えた方がわかりやすい。
でも、「賢くない消費」というのは決してつまらないものではない。というか、「偶然」の絡んでいる消費の方が印象深いのではないだろうか。自分の経験では、そうだったりする。
おそらく「オッチョコチョイな人が減った」という発想は間違っているのだろう。誰にでも「オッチョコチョイな自分」が眠っている。堅く言えば「非計画購買」願望が多かれ少なかれあるはずだ。
だが、その願望が封印されているのだろう。そういう消費行動は人に自慢できないし、自分が愚かに見えてしまう。
そして、ネットは「スマート」を加速させた。
ある大学の先生から聞いた話である。専攻はマーケティング。
ある時その先生の師匠と、議論になった。師匠は齢70になろうかという大家である。
話の内容はマーケティングのモデルの有効性のようなものだったらしい。たしかに、モデルというのは山ほどあるけれど、それが実際の市場で通用するかしないかは議論の対象になる。
経営学のような社会科学では避けられない話なわけで。もっとも理論だけ教え込んでそのまんま、という先生もまだまだいるので、適用性の議論になること自体、実は稀だったりするのだけど。
で、ひとしきり話の後で、この師匠はひとこと漏らしたそうな。
「でもね、○○君。人の気持ちなんていうのは分からないものだからね」
いや、それはそうなんだろうけど、じゃあマーケティングって、結局何なのだろう、という話にはなってしまう。そりゃ、人の心は分からないけど、だったらリサーチしても意味はないし。
でも、僕はこの言葉に共感もする。一生懸命に市場導入を考えたのに実際は大コケだった...というようなタイミングでこれを言ってはどうかと思うが、長く研究を続けるほど、こうした気持ちになるんだろうな~というのはよく分かる。
たしかに人の心はわからない。多くの資金を投じてリサーチをしても、売れないものは山ほどある。