若者はいろんなモノから「離れている」らしい。クルマ離れ、酒離れ、海外旅行離れ、テレビ離れ......もう分析も含めて聞き飽きているだろう。そもそも分析が変なのも多いし。
何でかっていうと、それは「若者」という対象に対して大人たちの勝手な思い込みがあるからだと思う。
彼らにとって「若者」とは単なる「若年層」ではない。若者は時に反抗的だが希望に満ち、羽目を外すこともあるけれど好奇心に溢れた存在。そうした暗黙の前提で若年層を捉えている。
だからいろんなモノから離れていくのが不思議なのだろう。そうして今の時代の若年層は「若者」らしくないと語ってみる。
しかし、その原因は若者にあるのではない。明らかに大人の側にあるのだ。
かつての若者が「若者」足りえたのは社会が「若者らしさ」を許容してかつ支えていたからである。
学生について言えば、親の余裕がなくなっている。仕送り額の調査でも明からだ。高度成長期は親にもゆとりがあり、金利もそこそこあったので教育費もそれなりに見通していた。一方親は学生に甘かった面もある。親世代が戦争体験者だったので物質的貧困はできる限り回避させたいという気持ちが強かったのだろう。「クルマが欲しい」といえば、とりあえず中古を買ってやったりする。
考えてみれば学生運動が活発な時代も、社会全体やメディアも若者に甘かった。戦後の自由な雰囲気を代弁してくれているので心のどこかで応援していたのか。大人が蒼ざめるのは爆弾テロ以降である。

"スマートな"消費者は余計なものを買わない。買ってしばらくしてから後悔することもない。高いだけでまずいレストランに行くこともなければ、名ばかり老舗ホテルで不快な思いをすることもない。
いや、実際にはそういうこともあるのだろうけど、その危険性はきっと低減しているはずだ。そうした消費者はネットを中心とした情報で武装しているからだ。
日本の消費者は本当に賢くなったのだろうか。自分の購買を後悔するような「オッチョコチョイ」な消費者は減ったのだろうか。
おそらく、そうだろう。大体オッチョコチョイも死語なんじゃないか。いざキーボードで入力すると結構面倒くさいし。じゃあ、何と言うのだろう。慌て者?粗忽者か?いや、それは戦前の語法になっている。
何でこんなことを言うかといえば、なんだかんだ言って、こうした「特にスマートじゃない消費者」つまりオッチョコチョイの購買が、消費市場をそれなりに活性化してきた面もあったと思うからだ。
日本の消費財メーカーの販売アイテムは異常に多く、その多くが翌年には姿を消す。これは、アカデミックな分析やコンサルタントの指摘によれば「非効率な消耗戦」だった。
ただし、オッチョコチョイの消費者がいた時代は、それでも何とかなっていた。企業も消費者も切羽詰ってなかったのだ。そして、販売促進費用が撒布されるプロセスで最もおいしい思いをしたのはマス広告の関係者だった。
未だに新製品の数は多いかもしれないが、もうオッチョコチョイは減っている。あえて確信犯でキュウリやシソの味を出すコーラがあるけれど、あれは一部の消費者がオッチョコチョイを演じてさしあげている、と考えた方がわかりやすい。
でも、「賢くない消費」というのは決してつまらないものではない。というか、「偶然」の絡んでいる消費の方が印象深いのではないだろうか。自分の経験では、そうだったりする。
おそらく「オッチョコチョイな人が減った」という発想は間違っているのだろう。誰にでも「オッチョコチョイな自分」が眠っている。堅く言えば「非計画購買」願望が多かれ少なかれあるはずだ。
だが、その願望が封印されているのだろう。そういう消費行動は人に自慢できないし、自分が愚かに見えてしまう。
そして、ネットは「スマート」を加速させた。
ある大学の先生から聞いた話である。専攻はマーケティング。
ある時その先生の師匠と、議論になった。師匠は齢70になろうかという大家である。
話の内容はマーケティングのモデルの有効性のようなものだったらしい。たしかに、モデルというのは山ほどあるけれど、それが実際の市場で通用するかしないかは議論の対象になる。
経営学のような社会科学では避けられない話なわけで。もっとも理論だけ教え込んでそのまんま、という先生もまだまだいるので、適用性の議論になること自体、実は稀だったりするのだけど。
で、ひとしきり話の後で、この師匠はひとこと漏らしたそうな。
「でもね、○○君。人の気持ちなんていうのは分からないものだからね」
いや、それはそうなんだろうけど、じゃあマーケティングって、結局何なのだろう、という話にはなってしまう。そりゃ、人の心は分からないけど、だったらリサーチしても意味はないし。
でも、僕はこの言葉に共感もする。一生懸命に市場導入を考えたのに実際は大コケだった...というようなタイミングでこれを言ってはどうかと思うが、長く研究を続けるほど、こうした気持ちになるんだろうな~というのはよく分かる。
たしかに人の心はわからない。多くの資金を投じてリサーチをしても、売れないものは山ほどある。

裁判員裁判(この文字列って何だか入力しにくい)のニュースを見ていると、広告ビジネスで起きていることと似たようなことがあるんだな、と思う。
今のところ結構順調な滑り出しのようだけど、被告が無罪を主張しているケースはないので、焦点は量刑になる。
結構振れ幅があるようだが、婦女暴行や殺人などでは厳しく出るようだ。「求刑8掛け」にはならないという。
当初の頃はよく記事になっていたけど、弁護士にとって厳しいのは従来のような「情状酌量」のロジックが、裁判員にとってはロジックにならないということ。
これが個人的には興味深い。
法廷のプロたちは、まあいろんな犯罪者を見ている。そうなればその中には「本気で悪いやつ」から「それなりの事情がある人」まで、さまざまだ。
殺人だってそれなりの「理由」があれば情状となる。
一方で、裁判員の中で「知り合いに殺人経験者がいます」という人はまずいない。「友人が婦女暴行したけど、それなりにいいやつです」という人もいない。
そうなると、殺人犯や婦女暴行犯は、まず「とんでもない」人ということになる。ここで弁護士が過去の生い立ちなど持ち出すと、かえって話がこじれる。「恵まれない境遇で育っても犯罪を起こさない人はたくさんいる」というのが法廷外での常識だからだろう。
で、これが何で広告ビジネスに関連するのか。

近頃「マス広告の崩落」のような話を聞くたびに思い起こすことがある。
もう十年前の話だ。ブランドコンサルティングという新組織を立ち上げるために、いろいろとリサーチをしていた。その一環として、つてをたどって当時戦略コンサルティングのパートナークラスの方々を訪れ、運営の要諦をたずねて回ったこともある。
その中で、大変印象的な方がいた。たしか銀座の裏手で飲んだのだけれど、結局は昔の音楽の話になって、松田聖子の歌のコード進行や歌詞のことで盛り上がった。
もちろんコンサル商売についても多々貴重な話を伺うことができた。
その後、2001年に僕は人事・人材開発セクションに異動した。いわゆる「本社」の人になったので自社の経営について考えなくてはならない。
これは初めての経験だった。
当時はブロードバンドがようやく始まり、i-modeにしても「海のものとも山のものとも」という雰囲気だった。ITバブルが崩壊して、まだまだマスメディアは安泰に思えた。
僕は、人口減少が必然だと思っていたので、将来的にマスの単価は下落すると思っていたし、早めに備えることが自分の仕事だと思っていた。
しかし、経営サイドの多くは楽観的に見えた。「マスがなくなるわけではない」という言葉を耳にすることが多かった。「なくなるわけではない」のはそうかもしれないが、「どの程度まで減少する可能性があるのか」「どのように備えるべきか」という議論をする必要があると思っていたので、食い足りない気がしていた。
そして、以前話を伺ったコンサルタントの方を再訪した。

電通が「電通デジタル・ホールディングス」という組織を作るらしい。
広告ビジネスはご存知のようにマスメディアの売り上げが急減しているわけで、いわゆる「非マス」な分野に注力しているのはいまさらの噺、いや話なんだけど改めて「デジタル」という文字を目にすると不思議な感慨もある。
つくづく、電通は「マーケティングの会社ではない」という実感と、「メディアは誰にも譲らない」という意志みたいなのを「デジタル」から感じてみるのだ。
僕がクライアントとマーケティングの課題を洗い出しているとき「デジタルをどうにかしたい」という話題は聞かない。消費財でマス広告中心のクライアントが「ネットでどうにかならないか」「インタラクティブを強化したい」という話は今でも多いけど「デジタル分野」という概念は聞かないな。
そもそも、デジタルってどういう分野に使われるのだろう?
いわゆる「ネット」というのはコンピュータをベースにした通信技術なので「デジタル」だ。またネット以前から「デジタル録音」のような技術はあって、これは「アナログからデジタル」のように、もう何十年も前からイメージされている概念だろう。
いずれにせよ、「情報処理」や「配信」の世界では「デジタル」であることは、それなりに重要なのだ。
ただし、「モノを売る/買っていただく」というマーケティングの世界では、そのデジタルによってどんなソリューションが可能なのかが重要なのだ。
放送倫理・番組向上機構(BPO)という団体の名前は最近になって、耳にすることも多い。放送番組に対する苦情などの申し立てを審理する機関で、みのもんたの番組で行き過ぎた表現があった、とかそういう個別案件の勧告をしていた。
今日発表されたのは、「バラエティー番組」全般に関する、リポート。つまり視聴者からやたらと苦情の多いバラエティー番組に対する「ご意見」である。
リポートはBPOのホームページの「第07号」である。PDFで見られるのだけれど、これは興味深い。メンバーを見ると、そう簡単にテレビに文句つけるだけとは思えないのだけれど、さすがに考えたようだ。バラエティーの過去を振り返りつつ、現場への提言になっている。
バラエティーと視聴者との関係について触れられているキーワードは、バラエティーだけでなくドラマなどにもあてはまるし、テレビ以外のメディアにも、そして広告にも合致すると思う。
『「つまんねえよ」と視聴者は言う』『視聴者は素人ではない』とか。
一方、文体など、かなり昭和臭が漂っていて、無理している感じもあるのだけれど、分析自体は骨太で、社会構造の変化を上手にかつ、学生辺りが読んでもわかるように表現しているな、と思う部分もある。
一読に値するユニークなリポートだと思うのだけど、読んでいるとなぜか哀しくなるのも事実だ。
理由は簡単だ。老いた親が、中年になってもダメなドラ息子を諭しているような感じが漂うのである。一代で財をなした偉大な創業者と、困った二代目。親の財産で食っているから、オリジナリティはなく、人望もない。
でも親も見離せないので、わかりやす~く「お説教」しているという図。
制作費や視聴率に挟まれて厳しい戦いになっている現場は、この「愛の説教」をどう感じるのだろうか。
「景気後退期こそ広告費を増やすべき」という議論がある。
というか、そういう記事があって数ヶ月前のことなので読んだ人も多いかもしれない。こちらのページでその論拠が示されている。
本文にある次の言葉が要約だ。(以下引用)
小泉氏は、過去の景気後退期の広告宣伝費とその後の売上高の相関関係を実証的に分析。「不況期に広告費を増やした企業は、いち早く業績低迷から脱出する。一方、広告費を減らした企業は業績回復に長い時間を要する」という驚くべき結果を明らかにしている。(引用以上)
さて、この議論をどう考えるべきか。事業主に聞かれることもあるが、結構スッキリしない話でもある。
「不況期の売上高と広告費に相関関係」とあるが、たしかに"相関関係"であり"因果関係"ではない。不況期でも広告費を増加させた企業はその後も売り上げを伸ばすという「現象」があるわけだ。
では、「この不況でも広告費を増やしましょう、減少などもってのほかです」とコンサルティングできるか、というのは想像つかない。
このデータはこうも読める。「過去において不況期でも広告費を減少させないだけの余裕のある企業はその後も売り上げを伸ばす」ということだ。
つまり、強い企業は逆風下では相対的にますます強くなるということである。
現在の状況が過去と異なっている面もある。インターネットなどの新媒体が増加して、新聞やテレビなどの単価は下落傾向にある。したがって、プランニング次第では、広告費を減少させても出稿量を維持することもできる。
「広告費の増減」で議論するのではなく、「出稿量の増減」で考えたほうがいいだろう。
また、この議論には続きもある。
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自宅近くのカフェに雑誌「広告」があった。
博報堂の出している雑誌であるが、退社以降目にしていない。どうなってるんだろうと思って、パラパラとめくってみた。
読み進めていくと、しばらくして、何だかとても不安な気分になってきた。
特集は「2020年をデザインする」という内容だ。「こういう時代だからこそ」というわけで、誌面には「明るい未来」が連なっている。
では、それで希望が湧くかというと、僕にとってはまったく逆で、読み進むほどに不安になるのだ。
理由は、この特集の過剰な楽観にある。
メディアの報道が消費の後退を招く恐れは、僕も自著で指摘しているし、共感するクライアントも多い。過剰な悲観報道には問題が多い。
では、過剰な楽観はどうなのだろう?
本や雑誌が売れないという話は、「ネットの時代にカネを出すのがバカバカしい」とか「そもそも不景気でカネがない」とか、割合と「おカネ」との兼合いで語られてきた気がする。
それはそれで分からないでもないのだけれど、なんか割り切れないな~という話を知り合いとしていた。モノが行き渡ってしまうと、3次産業にシフトして「物欲から情報欲へ」みたいになり、「情報大爆発」の中でいろんなビジネスチャンスがあるんだよん、という物凄く大雑把な話をみんな思っていた気がする。
まあ、そんなものだろうと僕も思っていた。
でも、そもそも「情報欲」が何となく低下しているんじゃないか?というのがその知り合いと話していたときの根拠のないカンだった。
根拠がないわけじゃないんだけど、最近殆ど本屋に行かないし、新聞も家に来るけど読まないし、テレビのニュースも見なくなっているけど、特に不便もなく仕事ができていて、情報に飢えていない自分自身を思うと、何だかそんな気もしていた。
なんてことを考えていたら、「フリーペーパーも結構大変だよん」という主旨のこんな記事があって、もしかしたら「情報欲」もホントにそこそこになっちゃったのかな、と思ったりしたのだ。