一般的に言って、価格が重視される市場では広告の作品性の議論にはならない。ディスカウントショップが典型だけど、消費者の方が「安い方を選ぶ」という基準を持っているので、「こっちが安い」ということだけ教えてもらえばいいのである。
「こっちが安い」ことだけを伝達するのに、別段の作品性はたしかにいらない。
ユニクロなんかの場合どうなんだろうか。
「いまこれがこれだけの値段!」というのは同社のHPやチラシ広告で十分伝わる。ユニクロの価値の根源は価格である。
それでうまくいっている時に、いわゆる「ブランド広告」とか必要なのか?というのは一般的な疑問である。
これに対して、旧来の広告ビジネスは、いろんなデータを見せていた。ブランド価値調査とかを新聞社などと組んでやって、「これだけ広告したから調査で上がってます」というやつだ。
だが、これは広告出稿を促すロジックであって、ちゃんとした因果関係が証明されているわけではない。
そういう大げさなことをしないで、消費者個々人の心理をもう少し見てみれば、別のことがわかる。
最近の売上げを見ても、ユニクロのユーザーの満足度は高いと推察できる。「ユニクロを買うこと」は「実現したい」のではなく、「実現している」消費行動だと思う。
そのようなユーザーは、「何を教えてほしい」と思うのだろうか?
それはユニクロを買う「より合理的な理由」である。
たしかにユニクロは「安さと品質」のバランスで伸びてきた。だが、もう少し高いブランドを「本当は買いたいんだけど」我慢している消費者もいるはずである。
そうした消費者にが教えてもらいたいことは、こんなことじゃないかな。
「ユニクロを買うのは、"賢い"選択なんだよ」
「作品性が高い広告」が機能する時には次の3つの理由があるのでは、というのが昨日の話だった。
1.多くの消費者が「実現したい消費行動」をアタマの中に抱いている。
2.しかしその行動にいたる「合理的な理由」を自分では持っていない。
3.そうした行動をする「理由」を人から教わりたいと思っている
例えば「大きなクルマを買いたい」と思っているけれど、「ちょっと贅沢かな」と思い合理的な理由を自分に持っていない。そんな時
「となりのクルマが小さく見えます」
「いつかはクラウン」
「きっと新しいビッグカーの時代が来る」
という「合理的な理由」を広告に教えてもらっていた。クルマの広告に品質感が要求されていた時代には、そうした背景があった。
そういう意味で、ステップワゴンのアニメは構造は同じでも、方向性という意味では画期的だった。
「大きなクルマを買いたい」けど景気が悪い中で合理的な理由がない時に
「子どもと一緒にどこ行こう」
というのはやはり広告が合理的な理由を教えてくれたわけである。
ただ、この「合理的」というのが曲者で、これは「本人の中で納得できる」という意味であって、価格性能比がどうこうという意味ではないんだけど。
また80年代の百貨店が「不思議大好き」とか「好きだからあげる」でビジネスできていたのも同じで、消費者が「買い物はしたいがどの百貨店がいいのか」というのを自分の中で持っていない時には、それなりの役割を果たしたのだと思う。
その時、三越や高島屋の顧客は別にそんなことを考えなかったけど、西武や丸井の潜在顧客にたいしては「オシャレな広告」があることで買う側が何となく納得していたのだろう。
そう考えると、広告の作品性の重要さが相対的に低下していることがわかる。
簡単に言えば、情報の発信側の優位性が低下した結果、消費者が自分で「合理的な理由」を見つけてしまうようになったことが最大の要因であることがわかる。
しかも「実現したい消費行動」自体が変わってきているのである
河野武さんのブログsmashmediaに「広告=作品論の是非」というシンプルかつ奥深い問題提起があって、僕も書いてみようと思ったんだけど、今日は大学の今年度最終講義の日で帰宅したら予定外に軽く飲んだ上に、これからまた自宅の近くで飲む気になってしまったので、今夜は軽めに書いておこうかと。
広告に作品性とか芸術性があるべきかどうか、というのはとても重要に見えて、実は業界の外の人にとってはどうでもいい話である。
だって、事業主にとっては利益が最終目的だからだ。
何で、広告業界の人が作品論が好きか?とかいろんな背景があるけど、結論から言うと「作品性があって、モノが売れる広告」もあれば「作品性もひどく、モノが売れない広告」もあるわけで、広告がこのどちらかなら議論にはならない。
問題は「作品性はひどいが、モノは売れる広告」が存在してかつ目立つ時代に、「作品性はある(つもりだ)けど、モノが売れない広告」を作り、かつそれで指弾されることが増えた「マス右派」の黄昏クリエーターが、ネット広告への嫉妬や無理解で議論を歪めていることがひとつ。
また一方で広告におけるターゲティング機能の役割を過剰評価している「ネット左派」の人の議論もまた極端になった結果、「広告=作品論と、その否定論は極右と極左な感じがしていて、大事なのはきっとその間にある」という河野さんの指摘はその通りだと思う。
では、「その間」について書いておきたいのだけど、何か今日はやる気がないので、大学からの帰りのクルマで考えたことだけを書いておきたい。
100年に一度、というのは米国の金融危機で言われたが、それは米国が戦争で大負けしてない上に、本土が戦場になっていないからだと思う。
日本の場合、数十年前の大戦の方が今より遥かに大変である。
米国の場合「大恐慌以来」という連想なのだろうが、そのまま日本に持ち込まれているうちに都合よく使われている。
どうも発端は政治ではないか。
「100年に一度だから、いま解散するわけにはいかない」
あとは、どうにでもなる。
「100年に一度だから、人員削減はやむを得ない」
「100年に一度だから、上カルビを食べている場合ではない」
不況の連鎖なんて、このようにして起きるのである。100年に一度、というのは「消費にマイナスインパクトを与えたキャッチコピー」としては、大賞受賞と言ってもいい。
ただ冷静になればわかるのだが、普通に経済活動は進行していて、モノの売り買いはいたるところで行われている。成長への見込み違いがあるから「対前年比90%」でも大騒ぎになる。
いま、起きている負の連鎖は「成長を過剰に見込んだ」セクターで起きている。というか、バブルの崩壊というのは毎回のように「成長を過剰に見込む」ことが原因で、大体は不動産や金融で起きていたのだが、今回は製造業でも起きてしまったので、風景が違う。
そして「成長を過剰に見込んだ」もう1つの業種がメディアだったと思う。
09年の気になることをパラパラと書いてきたが、もう1つあるのが若い男性の消費者である。
ここ20年の消費構造変動を規定した最大の要因は未婚率の上昇、つまり典型的な「ファミリー」の相対的減少だ。F1やM2のような性・年齢のセグメントは無力化しているのが象徴的である。
そして、未婚率の上昇を調べると面白いことが分かる。
男性はオイルショックのあとに上昇が始まっている。経済的インパクトで、結婚を先延ばししたことと、若い人の間で「モラトリアム」が指摘された時代背景が一因だろう。
そして女性は80年代後半から上昇する。こちらは86年の雇用機会均等法の実施と、バブル経済の影響だろう。
ここ20年くらいの消費の変化をso why?で解いていくと、この女性の意識と行動変化でかなりのことが説明できる。女性の可処分所得が増加して、男性の領域にもどんどん入ってくる。いま発売されているHanakoは「東京いい男カタログ」で、日経WOMANは「働く男子リアル図鑑」である。
女が男を愛でる、というのは愛でる側に経済的優位性があるからで、これはもう10年くらいズンズンと広がっているけど、先の特集を見ると、タイトルだけでも「身も蓋もない感じ」が滲んでいて、味わい深い。
PLAYBOYの休刊など「女性を愛でる」メディアは衰える一方である。
では、今後も女性が消費市場をリードするかというと、どうなのかな?という気もしている。
簡単に昨日の続きを。
過剰な低価格志向は社会全体の幸せを減じていくだろう、という小山薫堂氏の発想は「正しい」と思いつつ、書かれている文脈にどうしても「共感」はできないと書いた。
1つは「価格志向にならざるを得ない人」の存在の増加が無視されていることであるが、もう1つの理由について書いておきたい。
これは、消費者心理を学ぶ上で重要なことでもあるのだ。
僕が気になるのは「お金は欲しいものを手に入れるだけでなく、応援したい企業や焦点、作り手に拍手を送るために使うものです」という発想である。ここには購買行為に「倫理や正義」のような側面があるという発想になっている。僕はここにいささかの胡散臭さを感じるのだ。
モノを買うというのは「欲求の交換」だと思っている。もう少し上品に言って「満足の交換」。人はお金を出して欲求を満たし、お金をもらって欲求を満たす。それは、生理的欲求や所有欲を満たすというだけではない。別の欲求もあるのだ。
今日の日経新聞朝刊の「「インタビュー領空侵犯」というコーナーで脚本家の小山薫堂氏が「安さだけで買うな」という言っている。
「お金は欲しいものを手に入れるだけでなく、応援したい企業や焦点、作り手に拍手を送るために使うものです」というわけで、幾つか具体的に例を話している。
マヨネーズがスーパーで180円で売られていても、商店街のおばあちゃんの店で200円で買う。
池波正太郎はタクシーに乗るとチップを渡していた。運転手の愛想が良くなり次の客などに好影響を及ぼして、「幸せの連鎖」が広まる。
小山氏はかつてソニーのAIBOを3台買った。ソニーの挑戦する姿勢に拍手するつもりだったと言う。
消費が萎縮して過度の価格志向に走り、貯蓄だけが高止まりするのは結局社会にとって良くないことの方が多いと思うので、考え方は間違っていない、というか正しいと思う。
参考までに、現経済財政担当相の与謝野馨氏が一昨年に官房長官退任直後の頃のインタビューではこんなことを言っている。
「物価が上がらず、100円ショップで何でも買えるのはいい話なんですよ。さっき私も買ってきたんですが、このハンドタオル、2枚で99円ですよ。いいでしょう。」
この発想で経済が萎縮するよりは、小山氏の方が「正しい」と僕は思うのだけど、ただ「哀しい」違和感の方が先に立つ。
その哀しさはどこにあるのだろうか。
いろいろ今年の気になることは、まだあるのだけど、ここに来て「ワークシェア(リング)」の話が急浮上して来たので書いておきたい。
それは「ワークシェア」と「マーケティング」「広告」の関係である。あまり関係ないように思えるかもしれないが、実は大有りかもしれないのだ。
仮説から言うと、「ワークシェア、もしくはそれに近い働き方が定着すると、マス・マーケティングとりわけAttentionを起点にする広告はますます効果が低下する」ということである。
まず、ワークシェアが導入された場合の消費行動への影響を考えてみよう。
まず思いつくのは「賃金の低下が消費を収縮させる」ということである。これは、実際に起こり得るだろう。
しかし、中期的にみると、どうなるのだろうか?意外といい方向に向かうかもしれない。
年末年始のニュースがネタ枯れの時期に「派遣村」を立ち上げた主催者は、「耳目を集める」という一点においては優れたプランナーだったと思う。
官公庁が見下ろす日比谷公園というロケーションもそうだが、「派遣村」というネーミングも上手だ。これは、そのままニュースにしやすい。いわゆる"キャッチー"な言葉である。そういう意味では「DASH村」と同様の分かりやすさがあった。
ただし、問題はこの派遣村に来た人は百人単位であって、非正規雇用者の失業者はその100倍以上の規模になるということである。あそこに来ることもできない何万もの人々を取材するよりも日比谷公園にカメラを持っていった方が、テレビや新聞にとってはラクなのだろう。まあ、今さらだけど、それが今の日本の報道の水準ではある。
ただ、この「派遣村」報道は別の効果をもたらしている。
話題が「村」に集中しているので、昨年末にさんざんニュースで出てきた「派遣を切った企業名」が見えなくなっているのである。

年が明けると「今年を予測する」ような話題も多いが、あまり意味はない気もする。年が変わったからといって、それはカレンダー上の「節目」の話でしかないし。
じゃあ、年明けにいろいろ今後のことを占う意味がないかというと、そうでもない。多くの企業においては、3月決算と4月からの予算確定が迫っているので、マーケティング方針のあらかたが見えてくるだろう。
というわけで、今週は今年の国内消費市場についてタラタラと気になることを。
まずは、マスメディアと広告。
昨秋からの経済"パニック"は、既に12月半ばくらいから一段落しているように見える。メディアは雇用問題で騒がしいけれど、あれは経済というより政治課題だと思う。いまこれを書いている時点で、東証は一時的に9000円台に戻っているが、このあたりも昨月半ばから堅調に見えていた。
だからと言って3月決算に向けて、対前年比で広告や販促活動予算が上積みされることは考えにくい。原材料・原油・ドルのトリプル安が企業の収益にプラスの影響を与える可能性はあるが、その差益は企業の利益確保に回されるだろうし、販促に回す場合は値引きの原資となるだろう。
さらに今の中東の混乱によっては、トリプル安は再度修正されるかもしれないし。
そこで、戦々恐々となるのが4月からの予算設定である。