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カテゴリ[ キャリアのことも ]

新幹線「のぞみ」でトラブルが続いている。床下から煙とか天井から異音とか。
ある記事によれば、N700系の初期故障が出る時期だという。故障した車両に乗りたくはないが、いきなり大トラブルよりはバグを修正してもらった方がマシなのかもしれない。
初期故障、という表現で思い出したのだが、社会人のキャリアでも「初期故障」はある。新卒3年目くらいまでの会社員が「こんなはずじゃなかった」状態に陥ることだ。決定的に壊れるのは本人も周囲も困るけれど、適度な初期故障はかえっていいのかな、と思うことがある。
程度の差はあるけれど、自分の仕事や会社のあり方についてアタマを悩ませて悶々とすると「会社と自分の関係」について自分の言葉で考えられるようになるのだ。
初期故障をちゃんと修理できれば、やがて巡航速度に乗る。そして初期故障の効果は、後輩を持つ頃に現れるのだ。同じような初期故障を起こす後輩に対して「会社っていうのはね」と自分の言葉で説明できる。
いまどき初期故障に無縁だった社員はむしろ単に盲目的だったりする人も多い。この手の社員が30歳くらいになると妙に若手に対して威圧的になる。
マネジメントから見れば、適度な初期故障を起こさせること。つまり入社間もない若手が「こんなのでいいんでしょうか」と言いやすい空気を作り、それに対してオープンに話しあえるのがいいのだと思う。
いまどき問題のない職場はない。でも一番の問題は、それを隠すような濁った空気なのだと思う。


「立ち位置」という言葉を聞いたのは、2001年の頃で社内の先輩が口にしていた。その方は現場の制作から本社に転じていて、まあなんというか悩んでいたような気がする。
「仕事の上での立ち位置が大事なんだ」というような話で、まあ意味は分かるのだけど「タチイチ」なんて聞いたことがなかった。今でも辞書では見ない。
ただし「立場」ではよくないようで、広告業界特有の言葉の先走りかと思っていた。そのうち若い人も言い始めて「直人さんの立ち位置は......」とか言う。
「立場」というのは主に言い訳に使われていて、管理職が「気持ちは分かるがオレの立場では......」というように拒絶の口実になっていた。
したがって部下は「あの上司は自分の立場ばっかり」という陰口を言う一方で、「部長の立場を超えて動いてくれた」とかいうのは賞賛だったりする。
このように「立場」をしっかりさせることは、ネガティブな面が強調されやすかったが「立ち位置」は、ポジティブに捉えられていた。そんな気がする。
「得意先でも上司の前でも立ち位置が変わらない先輩」などは、若手からは好意的に見られているようだ。
ただし、個人的にはこの「立ち位置」はあまり好きではなく、何となくギョーカイ特有の「口にすると心地よい」物言いに聞こえる。
組織がフラットになって、管理職をプレイングマネージャーとかいうようになってしまい、与えられた「立場」が流動化したことが原因の一つだと思う。その結果、上も下も「立ち位置探し」。みんな自分のポジショニング探しに夢中になっている
あと、広告代理店なんかでは相変わらず、やたらチーム人数が多いようだ。得意先に「何か最近の代理店さんって、ますます大人数で来るんですけれど」という話を事業主から聞くことが多い。リーマンショック以降だろうか。
結局自分の社内ポジショニングのために労力を使う。それって何なんだ。やっぱ「立ち位置」って胡散臭い。


今年は多くの大学生に会って、就活の相談を受けた。そろそろ佳境のようだが、気になったことをまとめてみた。

学生時代に「大したことをしていない」からといって怖がることはない。殆どの学生は大したことはしていない。小さいことでも「懸命にやったこと」を冷静に話せれれば十分だ。

業界への適性や才能があるかどうかで悩む必要はない。その業界や企業を「志望しよう」と思うこと自体がその人の才能。才能がない人はそもそも志望しようとすら思わない。

自分の大学のネームに不安を抱くな。抱いた時点でもう何歩も後退している。就職に強い学生は皆「根拠のない自信」を持っているだけだ。でも、時にはその思い込みがパワーになる。

「何かが足りない」と言われるのは当たり前。その足りない最後の1ピースを見つけるのが就活プロセス。あきらめないで最後まで探し続けた人は結果を出せるはず。

「何がしたいかわからなくなる」「自分のことがわからなくなった」それも当然。就活は自分という魔物との戦い。みんな、恐れながら戦っている。迷ったら今「してみたい」ことをぶつけるしかない。

どんな時代でも可能性は次世代にしかない。ガンバレ、就活生。


キヤノンマーケティングジャパンが、来年の新卒採用について「重要なお知らせ」を載せている。
「訳あって、今年の採用活動に出遅れます。」という見出しの文章を読むと、採用活動を夏以降にするという趣旨が書かれている。
理由の1つは「業績の先が読めないので3月の決算以降にする」ということ。もう1つは「学生の学ぶ機会を奪わない」ということらしい。
僕は大学の講義で言っていたし、本にも書いたけど就活の早期化には以前から疑問を呈している。一部の「出足のいい学生」ばかりが有利になるし、そもそも授業もサークルも3年夏からグチャグチャになる。インターンも本来の趣旨を外れて青田刈りの場になっているケースも多い。
このキヤノンMJの動きはそういう意味では全うだと思うし、ハッキリ宣言するのもいいと思うのだけど、それでもどこかに疑問は残る。
1つは「結局不景気に押されてか」という感覚がぬぐえないことだ。本当に学生と向かい合って考えるのなら、景気低迷や採用計画とかに関係なく夏以降の採用になったんじゃないかと。
もう1つは「キヤノン株式会社」は、別に普通の採用をするらしい、ということ。HPを見ると、とりあえず採用を始めようとしているように見える。
ただ、採用担当者にとっては「誰かに言い出してほしい」タイミングではあったと思う。そういう意味では「日本経団連会長のグループ会社」というのは、先陣を切るには絶妙のポジショニングなのかもしれない。
いずれにせよ就活スケジュールの見直しは、いいことだと思う。理由が不景気でも何でも、現状よりは遥かにいい。HP上でのこういう「出遅れ宣言」が企業評価の向上につながるなら、安価な投資だろう。


東京に戻って、間もなく異動希望を出す機会があった。結果として約半年で、希望通りに研究開発セクションに移った。
もともと僕は、PRかマーケティングをやりたかった。大学時代に選挙理論と予測モデルを先行していて統計などの知識もあったし、もともと分析することが性にあっていたのだ。
もちろん制作で学んだことはいろいろあったけれど、「そもそもやりたいこと」に取り組みたいというのが希望の理由である、
だが、それは理由の半分、というより3分の1くらいかもしれない。
あとの3分の1は「どう考えても広告制作では一流になれない」という直感的確信である。当時の仕事仲間は2つ上に谷山雅計さん、2つ下に前田知己君がいた。現在二人とも独立して活躍されているのは周知の通り。一緒に仕事をしたデザイナーには1つ上に永井一史さん。
周囲がすごいので、とにかく自分に見切りをつけるには絶好の環境だったのである。
一方、ある意味素晴らしい環境だったので、希望して異動したことを驚く声が当然多かった。
この異動はちょうど30の時だったが、このタイミングは重要だったと後でわかる。あまり早い踏ん切りは後の後悔につながりかねないが、タイミングを逸するともう人生の選択肢は数少ないのである。
当時"キャリア"という概念はアタマの中になかったけれど、ほとんどの人が"??"と思うような希望を出して実行したことは、キャリアの観点からも決して間違ってなかったと思っている。
仕事をする上で「頑張り」と同じくらい、「見切り」も大切なのだ。
ちなみに制作を離れたかった理由の残り3分の1は「忙しいのが嫌い」だったからである。働くのは嫌いでないけれど、20代独身の頃ならともかく、30代で結婚もしたのに毎月100時間を越える超勤というのは、僕の理想的な生活とはかけ離れていた。
この辺りの価値観は人それぞれだし、「忙しいから制作は嫌です」というほどバカ正直でもなかったので、もっともらしい理由で異動をしたのだけれど。
当時に比べて、広告界という海は大荒れである。ただし「頑張り」と「見切り」のバランス感覚は、今まで以上に大切なのではないか。いろいろと若いビジネスパーソンや学生から話を聞きながら、15年前を思い起こす年末年始だった。



新年になった。
一年前は「2009年の気になること」とか書いていたのだけど、今年はそういうことを思いつかない。
それよりも、自分自身が独りで仕事をするようになって5年経ち、いろいろと来し方行く末を考える歳になっている気もする。
今でも、「よく会社を辞めたものだ」と自分自身が信じられない気もする。その判断を悔やんだことは一度もないのだけれど、組織命令もなければ定年もない今の状況は「過剰な自由」のように感じれられることもある。
ここ何年かの正月は妻の実家のある愛知で過ごす。元旦に新幹線に乗り、3日か4日に帰京するパターンが多い。今年は雪景色の中で乾杯して、昨日戻った。20代後半に働いていた名古屋市内で昼食をとり、散歩するのも慣わしになっている。
地下道を歩くと、20年前のままの店もあるが、様変わりという感じだ。ファッションも飲食も、日本全国、というより世界中同じようなブランドがあちらこちらに見られる。
見知らぬ土地で、20代後半を一人で過ごしたことは、今の仕事をする上で力になっている気もする。孤独への耐性が少しはついたのではないだろうか。昨日も中心部の栄交差点にいると、初めて転勤の下見出張に来た時の不安な気分を思い出す。
名古屋での4年半は"まだ"コピーライターだった。しかし、自分自身は広告制作の仕事を続ける気は段々と失せていた。バブル期の東京を遠目に見ていて、「何かが違う」と感じていた。
東京に戻る1年ほど前、ちょうど新たな人事制度が始まろうとしており職種転換の希望が出せそうだった。しかし、転勤と職種転換を一緒に行うのは困難のようだったので、制作職として戻ることになった。
あの時、名古屋で感じていたことは何だったのだろう。当時の名古屋は地味な街だけど、身近なところに「リアルな生活」があった。東京中心のメディアが振りまくイリュージョンは、いつまでも通用するのだろうか?そんな感覚だった気もする。
その半年後に訪れた転機は、振り返るとまさに「岐路」だった。(一応続く)


広告会社の報酬の問題は、広告関係者だけではなく事業主なども含めた重要な問題だと思っている。日本では社内でプロのマーケターを育てている企業が少数派なので、広告会社の人材がマーケティングに貢献する割合が高い。
きちんと、働いている社員に報酬を払わなければ、優秀な社員は逃げていき、それはクライアントにとっても損失になる。
したがってフリーライダーの増加は、彼らの人件費を負担しているクライアントにとってもロクな話ではないのだ。
一方で、広告会社の社員と話してみると「賃下げは嫌だ」とか駄々っ子みたいなことを言っているわけではない。要するに「見通しを説明して欲しい」と思っているだけなのだ。
仮にその広告会社が上場企業であれば株主も同じように思うだろう。
これからの広告会社の待遇を明らかにする前に、経営陣は次のようなことを明快にする必要はあると思う。
・現時点で「フリーライダー」が発生していることを認める
・ビジネス環境の変化に伴いフリーライダーの再教育を実施する
・再挑戦の機会を活かせない者への待遇を明らかにする
・経費の低減には限界があり、原価低減のために仕入先と緊張感のある取引が求められることを明らかにする
・経営上の責任があるのかないのか。あるとすれば何を怠ったことが問題だったのかを説明する
広告会社の経営陣があまり悲観的なことを語るのは、たしかに問題はある。広告という行為は前向きな見通しと不可分だからだ。だが、楽観的な見通しを語りつつ、危機感を持つことは当然可能だ。楽観と危機感は両立する。
ちなみに、危機感なき楽観を「脳天気」という。
これはどの業種でも言えることだ。あなたの会社の経営者はどうだろうか。


salary-negotiation.jpg
ちょっと前のことだが「業界人間ベム」氏のエントリー「広告業の将来」というのがあって、ああ、結局このクリティカルな問題に突入してきたな、という印象をもった。
クリティカルというのは広告ビジネスの報酬のことである。
「またある意味、広告業はいったん平均賃金を下げてでもしっかり働いてくれる社員をどれだけもっているかの勝負になる。」
エントリー内のこの一文が象徴するように、広告会社、特にマスに依存したレガシー系の場合、現在の経営状況で手をつけられるのは、人件費にならざるを得ないのだ。
だが、それだけでいいのだろうか?僕は人事系の仕事もしているので、ちょっと別の視点で見てみたい。
売り上げが低下した場合、広告会社の経営者が人件費に目をつける。
これは、目の付け所として50%は正しい。しかし、ここだけで収益を改善しようとすれば大きな代償をこうむることになるだろう。
たしかに、収益における人件費比率はまだ高い一方で、年収水準が他業種に比べて低くないのであれば、人件費を削ろうとするのは経営の着眼点としては当然である。
ただし「総人件費が高い」というのは問題の本質ではない。「それなりの給与をもらっていながらフリーライダー(ただ乗り)と化している社員が多い」ということが問題の本質なのである。


>> 広告会社の給与を再考する。の続きを読む

いつ頃からはハッキリわからないのだけれど、就職にまつわるビジネスの世界では、妙な「カリスマ」が出てくる。
そして、彼らやその信者は「熱い」メッセージが好きだ。
しかし、就職活動という「仕事選びのプロセス」が過剰な熱気を帯びることは、また危険だと思う。
生涯を左右する選択は、基本的に冷静もおこなわれるべきだからだ。
一部の就活ビジネスに関わる人のメッセージは、時に「カルト化」しているように見えるのも、また不思議であり、不安である。
カルトというのは、特定の人の主張やメッセージに対して、多数が「無批判に信じ込む」ような状況だ。無批判に信じる事によって、「自分でものを考える」プロセスが省略されることが、心地よいのである。
もっとも、社会問題化するカルトとは異なり、「就活のために高額なツボを買った」という被害があるわけではない(多分)。一時的に、カルトなオーラを出す「就活カリスマ」のおかげで、無事就職できた人もたくさんいる。
じゃあ、別にカルト化についてそんなに気にしなくてもいいのではないか...。そんな声も聞こえそうだ。


>> 就活は「合同結婚式」か。の続きを読む

就職戦線、という言葉がある。受験戦争という言葉もある。
ただ、就職活動というのは戦争ではないと思う。じゃ、何で戦争化してしまったのか。それは、就活を「戦争」にすることでビジネスを成立させて来た人がいたからだ。
いわゆる就転職支援会社である。
大学入試のように「人気ランキング」で企業を序列化して、学生に情報を発信する。採用側と学生側の間を取り持つこうした企業活動を、はなから否定するわけじゃないが、いま相当な転機に来ているような気もする。
気の利いた大学生は、就活の途中で「就職と恋愛」の類似性を指摘する。見た目のいいものどうし、能力の高いものどうしが恋愛で結ばれるとは限らない。ジグソーパズルのように不定形同士が合うかどうか、という点で共通点がある。
もう少し考えると、面白いことがわかる。恋愛と戦争はまったく逆のベクトルを持つということだ。恋愛は生命の誕生につながるが、戦争は生命を奪うことにつながる。
就職が企業にとっても学生にとっても「生産的な行為」であるなら、ランキング化して競争をあおるような行為は、本質的に「就職」の価値の正反対にある。若い人の言葉だと「マギャク」という感じだろう。


>> 就職活動は「戦争」ではない。の続きを読む