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    <title>広告って、なに？</title>
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    <updated>2010-03-10T08:01:32Z</updated>
    
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    <title>キャリアの初期故障。</title>
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    <published>2010-03-10T07:45:30Z</published>
    <updated>2010-03-10T08:01:32Z</updated>

    <summary>新幹線「のぞみ」でトラブルが続いている。床下から煙とか天井から異音とか。 ある記...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="キャリアのことも" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="初期故障" label="初期故障" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p>新幹線「のぞみ」でトラブルが続いている。床下から煙とか天井から異音とか。<br />
ある記事によれば、N700系の初期故障が出る時期だという。故障した車両に乗りたくはないが、いきなり大トラブルよりはバグを修正してもらった方がマシなのかもしれない。<br />
初期故障、という表現で思い出したのだが、社会人のキャリアでも「初期故障」はある。新卒3年目くらいまでの会社員が「こんなはずじゃなかった」状態に陥ることだ。決定的に壊れるのは本人も周囲も困るけれど、適度な初期故障はかえっていいのかな、と思うことがある。<br />
程度の差はあるけれど、自分の仕事や会社のあり方についてアタマを悩ませて悶々とすると「会社と自分の関係」について自分の言葉で考えられるようになるのだ。<br />
初期故障をちゃんと修理できれば、やがて巡航速度に乗る。そして初期故障の効果は、後輩を持つ頃に現れるのだ。同じような初期故障を起こす後輩に対して「会社っていうのはね」と自分の言葉で説明できる。<br />
いまどき初期故障に無縁だった社員はむしろ単に盲目的だったりする人も多い。この手の社員が30歳くらいになると妙に若手に対して威圧的になる。<br />
マネジメントから見れば、適度な初期故障を起こさせること。つまり入社間もない若手が「こんなのでいいんでしょうか」と言いやすい空気を作り、それに対してオープンに話しあえるのがいいのだと思う。<br />
いまどき問題のない職場はない。でも一番の問題は、それを隠すような濁った空気なのだと思う。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「立ち位置」って胡散臭い。</title>
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    <published>2010-03-07T09:37:56Z</published>
    <updated>2010-03-07T09:39:47Z</updated>

    <summary>「立ち位置」という言葉を聞いたのは、2001年の頃で社内の先輩が口にしていた。そ...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
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        <category term="キャリアのことも" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="立場　立ち位置" label="立場　立ち位置" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p>「立ち位置」という言葉を聞いたのは、2001年の頃で社内の先輩が口にしていた。その方は現場の制作から本社に転じていて、まあなんというか悩んでいたような気がする。<br />
「仕事の上での立ち位置が大事なんだ」というような話で、まあ意味は分かるのだけど「タチイチ」なんて聞いたことがなかった。今でも辞書では見ない。<br />
ただし「立場」ではよくないようで、広告業界特有の言葉の先走りかと思っていた。そのうち若い人も言い始めて「直人さんの立ち位置は......」とか言う。<br />
「立場」というのは主に言い訳に使われていて、管理職が「気持ちは分かるがオレの立場では......」というように拒絶の口実になっていた。<br />
したがって部下は「あの上司は自分の立場ばっかり」という陰口を言う一方で、「部長の立場を超えて動いてくれた」とかいうのは賞賛だったりする。<br />
このように「立場」をしっかりさせることは、ネガティブな面が強調されやすかったが「立ち位置」は、ポジティブに捉えられていた。そんな気がする。<br />
「得意先でも上司の前でも立ち位置が変わらない先輩」などは、若手からは好意的に見られているようだ。<br />
ただし、個人的にはこの「立ち位置」はあまり好きではなく、何となくギョーカイ特有の「口にすると心地よい」物言いに聞こえる。<br />
組織がフラットになって、管理職をプレイングマネージャーとかいうようになってしまい、与えられた「立場」が流動化したことが原因の一つだと思う。その結果、上も下も「立ち位置探し」。みんな自分のポジショニング探しに夢中になっている<br />
あと、広告代理店なんかでは相変わらず、やたらチーム人数が多いようだ。得意先に「何か最近の代理店さんって、ますます大人数で来るんですけれど」という話を事業主から聞くことが多い。リーマンショック以降だろうか。<br />
結局自分の社内ポジショニングのために労力を使う。それって何なんだ。やっぱ「立ち位置」って胡散臭い。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>ガンバレ、就活生。</title>
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    <published>2010-03-04T00:37:37Z</published>
    <updated>2010-03-04T00:43:37Z</updated>

    <summary>今年は多くの大学生に会って、就活の相談を受けた。そろそろ佳境のようだが、気になっ...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
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        <category term="キャリアのことも" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="就活　相談" label="就活　相談" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p>今年は多くの大学生に会って、就活の相談を受けた。そろそろ佳境のようだが、気になったことをまとめてみた。<br />
＊<br />
学生時代に「大したことをしていない」からといって怖がることはない。殆どの学生は大したことはしていない。小さいことでも「懸命にやったこと」を冷静に話せれれば十分だ。<br />
＊<br />
業界への適性や才能があるかどうかで悩む必要はない。その業界や企業を「志望しよう」と思うこと自体がその人の才能。才能がない人はそもそも志望しようとすら思わない。<br />
＊<br />
自分の大学のネームに不安を抱くな。抱いた時点でもう何歩も後退している。就職に強い学生は皆「根拠のない自信」を持っているだけだ。でも、時にはその思い込みがパワーになる。<br />
＊<br />
「何かが足りない」と言われるのは当たり前。その足りない最後の１ピースを見つけるのが就活プロセス。あきらめないで最後まで探し続けた人は結果を出せるはず。<br />
＊<br />
「何がしたいかわからなくなる」「自分のことがわからなくなった」それも当然。就活は自分という魔物との戦い。みんな、恐れながら戦っている。迷ったら今「してみたい」ことをぶつけるしかない。<br />
＊<br />
どんな時代でも可能性は次世代にしかない。ガンバレ、就活生。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>ROIと問い詰める文化。</title>
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    <published>2010-03-01T23:57:02Z</published>
    <updated>2010-03-02T00:01:21Z</updated>

    <summary>企業内のマーケティング担当者が、社内から厳しくROIを問われるようになって久しい...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="マーケな目" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="マーケティング　roi" label="マーケティング　ROI" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p>企業内のマーケティング担当者が、社内から厳しくROIを問われるようになって久しい。これは欧米でも同様らしく、MBAをとった学生は「チェックできる側」の財務系の仕事を希望して、マーケティング志望が減っているという。大学の先生に聞いた話である。<br />
実際にマーケティング担当者から相談を受けることもある。この場合広告予算そのものに関わるので、代理店の人には話しにくい状況もあるわけで。<br />
全般的な傾向として言うと、短期的販促については経験値も高まってきて、社内でも納得されるようになりつつある。一方ブランディングに関わるコミュニケーション費用は、それほどキッチリ説明できない。<br />
この話を聞くと、人事採用のことを思い出す。人事は長期的な視点で採用するが、現場は即戦力を求める。しかし、即戦力は「今がピーク」の可能性もある。<br />
「どうしてああいう採用なのか」と問われた経験は人事担当者は持っているだろう。しかし、あえてハンパな反論はしない。それはプロの判断でありあえて計測はしないからだ。<br />
人材ROI、という発想もあったようだが定着はしていない。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>経営者というのはこのようにROI的な判断では限界のある事柄についても意思決定をしている。<br />
それは有体にいえば「博打」であり、スマートに言えば「資源の傾斜配分に関わる意思決定」だ。<br />
問題になるのは「問い詰める文化」が蔓延している企業である。何でもかんでもROI的に問い詰めるのが上手な人が重宝がられて出世してしまうと、その企業は結局縮小均衡に陥ってしまうことがある。経営判断の前段階で「失敗はないが成長もない」プランしか並ばないからだ。<br />
当然マーケターは身動きもできない。こうした「「問い詰め上手」が幅を効かせないようにするのも、また経営の大切な技術である。<br />
説明責任という言葉が独り歩きして、「問い詰める」ことが正義だと思い込む。もっともそれは会社内だけの問題ではないかもしれないが。</p>]]>
    </content>
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    <title>twitter</title>
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    <published>2010-03-01T07:08:11Z</published>
    <updated>2010-03-01T07:20:12Z</updated>

    <summary>最近執筆などでPCの前にいることが多い。で、原稿に飽きるとtwitterを眺めて...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="挨拶" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p>最近執筆などでPCの前にいることが多い。で、原稿に飽きるとtwitterを眺めて知り合いをポチポチフォローしていたら、始めたらしいということが広まってしまったようなので何かとりあえず書いてみた。<br />
実は昨年7月からアカウントあるのだけど、何となく放置していたわけで。<br />
いずれにせよ、まとまった話はこちらに書くと思いますれど。ちなみにユーザー名はnaoto_yam で、<a href="http://twitter.com/naoto_yam">こちら</a>です。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>日本人は農耕民族だから。</title>
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    <published>2010-02-28T15:07:53Z</published>
    <updated>2010-02-28T15:10:26Z</updated>

    <summary> 日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族。どうして、こんな話がいまだにアチコチで飛...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="分析もしてみる" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="日本人　農耕民族" label="日本人　農耕民族" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="Agriculture01.jpg" src="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/Agriculture01.jpg" width="288" height="210" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span><br />
日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族。どうして、こんな話がいまだにアチコチで飛び交うのだろう。<br />
ヒトはもともと採集・狩猟で生きていたが、何らかの条件が整い農耕を始めて、定住した。そこに古代文明が始まったわけで、西洋でも東洋でも「農耕」が現在の文明の前提になる。（僕の参照本は「銃・病原菌・鉄」）<br />
ただ、日本人が米作文化で、欧米が肉食というのは確かにそうだろう。教科書にも出てくる「三圃制」は牧畜と農業の一体化を志向している。<br />
それに比べると日本の肉食の歴史は浅い。だからといって、何も日本が突出して「農耕民族」というのは変だ。（僕の参照本は「肉食の思想」）<br />
そんなの欧米の農業生産の規模を見ればよくわかる。<br />
じゃあ、どうして「日本人＝農耕」「欧米人＝狩猟」な話になったのか。仮説を考えてみた。<br />
その1。江戸時代まで産業革命がなく、かつ肉食文化がなかったため、欧米と比較して「農耕中心の国」という自己イメージが定着した。たしかに士農工商で、「石高」のように米が経済の中心になっていた面はある。<br />
その2。敗戦直後には日本の就業人口の50%以上は第一次産業だった。しかし、その後地方から都市への人口移動が起きたが、これも米軍占領後の急速な変化だったので、反面的に農村が日本人の原風景として共有された。政治も農業に手厚かった。<br />
その3。経済のグローバル化が進む中、日本と西洋の経営を比較するうちに、「でも日本人は農耕民族だから」というエクスキューズが変化を好まない人にとっては便利に機能した。防衛機制の一種かもしれない。<br />
こう考えてみると「日本人は農耕民族だから」というのは根拠がない一方、"ある種の人"には便利なフレーズだったということが分かる。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>成果主義も、規制緩和も、アグレッシブなネットの世界も「農耕民族である日本人」には向いていないと主張する人がいたのだ。<br />
「グローバルとか何とか言っても、日本人は農耕民族なんだから」<br />
この一言で新しい波を拒んでいた人は、もちろん広告業界にも山ほどいた。その意味不明なフレーズが、新たな芽をつぶす"体のいい口実"になっていたのだろう。そんな気がする。そういう人は「時期尚早」というフレーズも好きだ。いつの時期が適切かは決して言わないのに。<br />
今でもこうしたテキトーなフレーズで逃げ切りを図る年寄りには、横目で睨んで近寄らないことをお勧めしたい。<br />
そもそも食糧自給率がここまで低下していながら、自分たちを「農耕民族」と称することがかなりケッタイなのだから。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>「ポジティブ」の罠。</title>
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    <published>2010-02-26T06:41:58Z</published>
    <updated>2010-02-26T06:43:35Z</updated>

    <summary>ちょっと前のネット広告が新聞広告を逆転したというニュースで、思い起こすことがあっ...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="マーケな目" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="広告　コミッション" label="広告　コミッション" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p>ちょっと前のネット広告が新聞広告を逆転したというニュースで、思い起こすことがあって、それは会社を辞めた理由についてである。<br />
「公式の」理由はいろいろとあるけれど、わざわざ言わなかった「理由」もあって、その１つは僕がマスメディアのコミッション・ビジネスの将来性に懐疑的だったからだ。<br />
その一方で、経営層は全然「ダイジョーブ」だと思っていた。<br />
わざわざ人材開発を希望したのも、マス広告のコミッションに依存しないで「稼げる人材」を育てることが急務だと思ったからだ。<br />
「こうすれば新しいビジネスができる」といろいろ考えたのだけれど、本気でやろうとしないので、１人でやってみることになった。まあ、経営というのもそんなもんだった。<br />
まあ9年前のことである。今に比べれば業界はまだまだノンビリしていた。<br />
困ったのは「まだまだマスは大丈夫」とのたまう役員などが「ポジティブ思考」だという好意的評価がされちゃうことだった。<br />
「いやあ、あの人は前向きだから」と部下からも慕われ、上からも評価されたりする。<br />
今になって思うのは「ポジティブ・シンキング」と「ノー・シンキング」は紙一重ということ。何にも考えていない人は前向きになれる。危機感の強い人は疎まれる。<br />
普通に考えれば結論は簡単だった。だが、その「普通」が難しいのである。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>戦争とマーケティング。</title>
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    <published>2010-02-23T08:10:07Z</published>
    <updated>2010-02-23T08:12:56Z</updated>

    <summary> マーケティングや経営論には戦争の比喩が使われることも多い。 ただし、比喩という...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="マーケな目" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="マーケティング　戦争" label="マーケティング　戦争" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="cat_soldier.jpg" src="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/cat_soldier.jpg" width="247" height="303" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span><br />
マーケティングや経営論には戦争の比喩が使われることも多い。<br />
ただし、比喩というのは「ほどほどにする」というのが望ましい。一つの体系と、もう一つの体系が完全に一致するというのは、実際はないのである。<br />
したがって、マーケティングが戦争でも恋愛でも、別に「盆踊り」でもいいかもしれない。<br />
「マーケティングは盆踊りだ」<br />
それで、幾つかの共通点を挙げれば、命題としては成立する。でも、それは決してアカデミックでも、まして実践的でもない。ただの大喜利だ。<br />
さて、実際に「近代戦の目的」というのは何か。以前自衛隊の人に直接聞いたのだけれど「より広い領土の確保」だと言う。したがって戦闘行為自体は当然目的ではない。<br />
これは、「領土＝シェア」と考えれば、それなりの意味を持つように思える。特に日本のように人口の減少が起こっている市場は、「限られた陸地」と同じだ。当然競合からのシェア奪取が重要な目的となる。<br />
どのような人を標的にするか、というのは戦略レベル。どのような手段でその領土をいただくか、というのが戦術レベル。空爆か歩兵戦か？のような比喩も分かりやすい。僕も使うことがある。<br />
ただし、先にも書いたように比喩というのは、ほどほどにしないと「たとえ話の整合性」ばかりが気になってしまう。<br />
実は「領土＝シェア」にも落とし穴はある。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>まず、この領土には人がいる。そして、消費市場における人は、陸地における人と異なり、勝手に動く。自ら情報を獲得して、製品やサービスに不満があれば、別の企業のものを使う。<br />
そう考えると、「領土＝シェア」発想はかなり受身の消費者を前提にしているように思えるのだ。「囲い込み」という発想で失敗したケースはそもそも消費者像を読み違えていたケースが多いように感じる。<br />
もう一つの落とし穴。それは、市場の規模は人口ではなく購買能力の総和で決まるということだ。つまり、人口が停滞していても、貯蓄などを消費に回し始めれば市場は拡大する。また支出の総和が限定されていても他のカテゴリーからお金が回る「消費の組み換え」が起きるかもしれない。これは機会である。<br />
つまり「領土が限られている」という前提は疑ってもいい。<br />
もっとも国内の多くの市場は停滞から縮小に向かっているので、競争戦略をしっかりおこなうことは必須だろう。しかし、新しい価値と市場を創造するのもマーケティングの重要な役割であり、その場合「戦争」の比喩には少々限界が出てくる。<br />
そういう「価値創造｣に関してどうしても比喩を使いたい人は、「恋愛」に喩えるかもしれない。しかし、そもそも比喩がなくても議論はできるじゃないか。<br />
マーケティングに戦争の知恵を借用するのはありだと思うが、戦争用語でマーケティングごっこをするのは「ほどほど」がいいと感じるのだ。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>女子と男子。</title>
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    <id>tag:www.naotoyamamoto.jp,2010:/blog2//7.1287</id>

    <published>2010-02-23T02:07:58Z</published>
    <updated>2010-02-23T04:38:29Z</updated>

    <summary>昨週書いた「離れ」論は、いろいろ反響があった。ちょっと気になる男女の件を書いてお...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="マーケな目" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="女子　男子　消費" label="女子　男子　消費" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="GirlBoy.gif" src="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/GirlBoy.gif" width="228" height="248" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>昨週書いた「離れ」論は、いろいろ反響があった。ちょっと気になる男女の件を書いておきたい。<br />
クルマ離れ、というのは男性がクルマを所有することが「モテ」に直結するという事実、というか思い込みがあったから2ドアクーペなどがやたらに売れていた。女性の価値観が変わればそうした需要はなくなる。<br />
酒離れ、というけれど、どちらかといえば戦後の成長期が「飲みすぎ」だった可能性もある。特に好景気下の男性の縦社会は酒類と相性がいい。飲みに行く理由は山ほどあって、飲めない人も無理して飲んで酔うことで帰属を確認できた。<br />
これも環境が変われば、飲酒の動機が減るのは当然だ。<br />
考えてみれば女性の免許保有率は上がったし、酒も飲むようになった。若い女性が何かから「離れた」という話は聞かない。むしろ「進出」の方が多いのではないか。<br />
ラーメンも鉄道もカメラも落語も。かつては男性文化の典型だった分野で女性がいることは当たり前だ。<br />
そう、かつての若者は男女間で消費力に差があったのだ。雇用格差はもちろん、学生のバイトだって女性のできることは限定的だった。だから、「昔の若者」を消費面で語る時に、実は「昔の若い男と今の若い男」の比較になっていることが多い。<br />
このあたりをわからないまま「離れ論」を垂れ流すメディアの論調もまあテキトーである。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>僕が気になるのは、いつの間にか社会に出ても「女子･男子」になってきたことだ。何でだろう？<br />
これは僕の仮説だけれど、女性が自らを「女子」と定義して、その鏡面に「男子」を置いたのだと思う。<br />
リリーフランキーの「女子の生きざま」を会社の後輩の、それこそ「女子」な女性が大喜びしていたのが１０年以上前だけど、おそらくその頃から、着実に女性は女子となってきた。女子は、いつまでも女子で、独身でも妻でも母でも、「女子」となる。「女子」であるならいつまでも消費行動の自由が許容されるので、大変都合がよい。<br />
そして「メガネ男子」あたりからの「○○男子」は結局女子の消費対象として生まれてきた。<br />
女性は自らの意志で女子となり、男性は女性の意志によって男子とされた。気づいた企業やメディアは「女子化」「男子化」をあおり、虚像もまた再生産される。<br />
そして、それに気づいた男性はやがて「男子」になろうと思う。その時に、とりあえずクルマや酒は「男子」に必要ないことに気づいたのではなかろうか。<br />
どんな時代でも自分たちが心地よく生きていくための本能が働く。その本能に追いつけない人が、理屈をこねるのだ。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>マスメディアのマス離れ。</title>
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    <published>2010-02-18T23:26:59Z</published>
    <updated>2010-02-18T23:52:50Z</updated>

    <summary>実は新しい本の執筆に取りかかっている。今週はほとんど自宅の仕事場にこもっていた。...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
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    <category term="マスメディア　若者" label="マスメディア　若者" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="cat-on-newspaper.jpg" src="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/cat-on-newspaper.jpg" width="400" height="265" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>実は新しい本の執筆に取りかかっている。今週はほとんど自宅の仕事場にこもっていた。執筆モードなのでアタマは活性化するのだけれど、本で書くべきこと、なぜか本の内容と微妙にずれたアイデアばかり浮かぶので、それを毎日ブログに書いていた。<br />
というわけで、"離れ"三部作のオチは、予想通り？マスメディアの話ということになる。<br />
実は○○離れに絡む若者論のトーンにちょっとした疑問があった。<br />
昔からの伝統的若者論というのは、彼らのマナーや言葉遣い、ファッションなどに大人が「苦言を呈し」一方で別の識者が「それなりの理解」を示しながらユルユルと論じられていた。まさに五輪選手の服装問題がそれである。<br />
つまり若者の「規範の変化」についての是非が問題だった。漱石を読むとそういう会話も多いけど、まあ昔から繰り返される普遍的な話であろう。<br />
ただ○○離れの話は「規範の変化」ではない。クルマに乗らない、酒を飲まないというのは「嗜好の変化」である。だから、企業にとっては重要な研究テーマだけれど、それ自体に「いいか悪いか」は関係ないのだ。<br />
ところが、そうした現象は「深刻」であり、「若者の元気のなさ」や「コミュニケーション能力不足」とかいうキーワードで下手な味付けをされてニュースとして提供される。<br />
結局、○○離れを「いけないこと」にしているのはマスメディアなのだ。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>企業のほとんどは○○離れに対していろいろ知恵を絞っているが、マスメディアは違う。「新聞を読まない」のは「いけないこと」で、「ネットを楽しむ」のは「依存」として批判の対象になる。<br />
こうして、本来「嗜好の変化」である「○○離れ」を無理して「規範の変化」にすり替える。この手の報道とそこに寄せられるコメントの気持ち悪さの本質は、この"すり替え"にある。<br />
自分たちが変わろうとしないで、変わってしまった若者がどうしても許せない。<br />
でも、そうしてマスメディアは本当の「マス」を見失っちゃったわけだ。何のことはないマス離れだ。<br />
マスは単なる「大人数」ではないと思っている。部数何百万とか、視聴率が何%とかいうことは、もはやメディアの価値ではない。<br />
頭数ではなく、その時代の「大きな潮流」がマスなのである。それはいつの時代にも存在する。いま、その潮流に参加している人は全国紙や地上波テレビのユーザーよりは少ないかもしれないが、問題は潮流の勢いと方向である。<br />
淀んだ大海より、急流の渓谷。その先に次の海がある。でも、そこに飛び込めていないことが「マス離れ」の本質なのだと思う。<br />
</p>]]>
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    <title>年寄りの常識離れ。</title>
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    <published>2010-02-17T23:24:35Z</published>
    <updated>2010-02-17T23:27:36Z</updated>

    <summary> 若者がいろんなことから離れているなら、年寄りはどうなのか。 個人的に気になるの...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="マーケな目" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="経営者　高齢" label="経営者　高齢" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="monkey-with-glasses.jpg" src="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/monkey-with-glasses.jpg" width="340" height="300" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span><br />
若者がいろんなことから離れているなら、年寄りはどうなのか。<br />
個人的に気になるのは「年寄りの常識離れ」である。<br />
かつて老人は、集団の中で畏怖され尊敬もされた。長寿であること自体が稀だったので、それなりに生き残って来た人は生への感謝が強かったのだろう。<br />
だから、社会においてそれなりの扱いを受けてきたのである。<br />
しかし、今や老いることは単なる通過点である。生への感謝を忘れた老人は、常識すら忘れていく。<br />
若者を責める論調はあっても、老人を指弾する人は少ない。「暴走老人！」という本があったけれど、むしろ老人に同情的なトーンでもある。<br />
しかし、実際に困った年寄りは多い。スポーツクラブの更衣室で係員に注意されて逆ギレしていた人や、店でネチネチとクレームたらす人は本当によく見かけた。<br />
「見かけた」と何となく過去形で書いたのは、一昨年秋の大不況から目撃件数が減ったからである。おかげでスポーツクラブも平穏だけど、不況の効用もそれなりにはあるのだろう。<br />
ただ、老人予備軍がこれまた大変らしい。自治体の方に聞けば分かるけれど、団塊世代の大量退職は「住宅地のクレイマー」の大量発生をもたらした。<br />
役所への要望を言うのは、子持ちの主婦が多かったという。しかし彼女たちの中には「改善しましょう」という姿勢を持つ者もそれなりにいたらしい。役人によってはその声を活かして予算を取ったりする。<br />
ところが団塊男性のクレーマーは、単に言いっぱなしでかつ威張るのでタチが悪いという。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>いずれにせよ加齢に伴って、周囲への悪影響は出ざるを得ないのだけれど、そんなの本人が謙虚になっていれば防げたりはする。<br />
となると、「本人が謙虚にならない環境の年寄り」が問題で、かつ彼らが権力を持っていると周囲の不幸は計り知れない。そう、経営者の潮時の話だ。<br />
あるコンサルタントに「なるほど！」と思う話を聞いた。どんな名経営者でも加齢とともに「短気になったら黄信号」だというのだ。このタイミングを逸して会社をグチャグチャにしてしまった人の事例を聞くと、背筋に寒いものが走る。<br />
歳をとるとなぜ短気になるのかはわからないが、経営者などの場合、「なぜ、できないんだ」という感覚が強くなるからだと思う。「自分ならできた」という思い込み。しかし人は記憶を美化してしまう。<br />
歳を重ねた結果「幼児的万能感」が復活するように思えるのだ。<br />
経営者の「短気化＝黄信号」は70前後で顕著化することが多いらしいけれど、恐ろしいのはこの傾向が若年化することである。耳にするのは課長やグループリーダーなど40代の短気化だ。きっと80年代までの記憶が脳内で美化されていて、現実が見えなくなっているのだろう。<br />
そうやって黄信号が点滅している職場では、今日も若者が本当に大切なことから「離れて」いくのかもしれない。<br />
</p>]]>
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    <title>若者の「若者」離れ。</title>
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    <published>2010-02-17T04:39:16Z</published>
    <updated>2010-02-17T08:46:35Z</updated>

    <summary> 若者はいろんなモノから「離れている」らしい。クルマ離れ、酒離れ、海外旅行離れ、...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
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    <category term="若者　消費" label="若者　消費" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="demo.JPG" src="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/demo.JPG" width="380" height="250" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span><br />
若者はいろんなモノから「離れている」らしい。クルマ離れ、酒離れ、海外旅行離れ、テレビ離れ......もう分析も含めて聞き飽きているだろう。そもそも分析が変なのも多いし。<br />
何でかっていうと、それは「若者」という対象に対して大人たちの勝手な思い込みがあるからだと思う。<br />
彼らにとって「若者」とは単なる「若年層」ではない。若者は時に反抗的だが希望に満ち、羽目を外すこともあるけれど好奇心に溢れた存在。そうした暗黙の前提で若年層を捉えている。<br />
だからいろんなモノから離れていくのが不思議なのだろう。そうして今の時代の若年層は「若者」らしくないと語ってみる。<br />
しかし、その原因は若者にあるのではない。明らかに大人の側にあるのだ。<br />
かつての若者が「若者」足りえたのは社会が「若者らしさ」を許容してかつ支えていたからである。<br />
学生について言えば、親の余裕がなくなっている。仕送り額の調査でも明からだ。高度成長期は親にもゆとりがあり、金利もそこそこあったので教育費もそれなりに見通していた。一方親は学生に甘かった面もある。親世代が戦争体験者だったので物質的貧困はできる限り回避させたいという気持ちが強かったのだろう。「クルマが欲しい」といえば、とりあえず中古を買ってやったりする。<br />
考えてみれば学生運動が活発な時代も、社会全体やメディアも若者に甘かった。戦後の自由な雰囲気を代弁してくれているので心のどこかで応援していたのか。大人が蒼ざめるのは爆弾テロ以降である。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>社会人になっても大人が20代を支えていた。「私の履歴書」とかには20代の頃の失敗談がよく出てくるが、だから今の若手に「失敗を恐れるな」といっても説得力はない。<br />
もはや会社には失敗のできないような空気が蔓延して、そういう人事制度になりつつある。余裕のない環境で導入された実力主義は、先輩たちを保身に走らせる。「お前がダメだとオレの評価が下がるんだ」という露骨な言葉を発する上司が増えた頃から、若者は「若者」であることを辞めようと思ったに違いない。<br />
そして、若者は「若者離れ」を始めた。その原因が自分たちにあることを直視しないで、若年層の行動を嘆いても意味はない。<br />
昨日書いた「オッチョコチョイな消費」だって、オッチョコチョイできる舞台がなければ、無理だろう。<br />
それは、もはやマーケティングの域を超えているのだろか。<br />
あと１つ気になるのだけれど、今のステレオタイプな「若者」論が無意識に男性の今昔を比較していることだ。女性について言うと「離れ」論はあまり有効ではないと思う。これについては、またいつか考えてみたい。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>オッチョコチョイの効用を再考する。</title>
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    <published>2010-02-16T02:32:32Z</published>
    <updated>2010-02-16T02:41:04Z</updated>

    <summary> &quot;スマートな&quot;消費者は余計なものを買わない。買ってしばらくしてから後悔すること...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="マーケな目" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="スマート消費" label="スマート消費" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="impulse_shopping.jpg" src="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/impulse_shopping.jpg" width="400" height="249" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span><br />
"スマートな"消費者は余計なものを買わない。買ってしばらくしてから後悔することもない。高いだけでまずいレストランに行くこともなければ、名ばかり老舗ホテルで不快な思いをすることもない。<br />
いや、実際にはそういうこともあるのだろうけど、その危険性はきっと低減しているはずだ。そうした消費者はネットを中心とした情報で武装しているからだ。<br />
日本の消費者は本当に賢くなったのだろうか。自分の購買を後悔するような「オッチョコチョイ」な消費者は減ったのだろうか。<br />
おそらく、そうだろう。大体オッチョコチョイも死語なんじゃないか。いざキーボードで入力すると結構面倒くさいし。じゃあ、何と言うのだろう。慌て者？粗忽者か？いや、それは戦前の語法になっている。<br />
何でこんなことを言うかといえば、なんだかんだ言って、こうした「特にスマートじゃない消費者」つまりオッチョコチョイの購買が、消費市場をそれなりに活性化してきた面もあったと思うからだ。<br />
日本の消費財メーカーの販売アイテムは異常に多く、その多くが翌年には姿を消す。これは、アカデミックな分析やコンサルタントの指摘によれば「非効率な消耗戦」だった。<br />
ただし、オッチョコチョイの消費者がいた時代は、それでも何とかなっていた。企業も消費者も切羽詰ってなかったのだ。そして、販売促進費用が撒布されるプロセスで最もおいしい思いをしたのはマス広告の関係者だった。<br />
未だに新製品の数は多いかもしれないが、もうオッチョコチョイは減っている。あえて確信犯でキュウリやシソの味を出すコーラがあるけれど、あれは一部の消費者がオッチョコチョイを演じてさしあげている、と考えた方がわかりやすい。<br />
でも、「賢くない消費」というのは決してつまらないものではない。というか、「偶然」の絡んでいる消費の方が印象深いのではないだろうか。自分の経験では、そうだったりする。<br />
おそらく「オッチョコチョイな人が減った」という発想は間違っているのだろう。誰にでも「オッチョコチョイな自分」が眠っている。堅く言えば「非計画購買」願望が多かれ少なかれあるはずだ。<br />
だが、その願望が封印されているのだろう。そういう消費行動は人に自慢できないし、自分が愚かに見えてしまう。<br />
そして、ネットは「スマート」を加速させた。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>しかし消費者の「オッチョコチョイ」な部分を目覚めさせてあげるのはマーケターの重要な仕事なんじゃないか。それは無駄遣いを奨励することではない。消費行動の、というか人生の体験を豊かにするための手伝いと言っても大げさじゃない。<br />
というより、そういう気概がなければマーケターは「拡声器の設計者」に過ぎないのだ。<br />
インターネットは、もともと偶然性の宝庫だったと思う。リンクを辿っていくと、どんどん色んなことが分かっていく。そこから消費行動が生まれることもあるだろう。<br />
ただし、最近はそういうことが減っている。同じような領域でリンクがグルグル回っているから、「カテゴリー内のベスト」を選択するにはいいけれど、カテゴリーを超えるダイナミックさがない。<br />
ネットがマスとの差異化を強調するあまり、オッチョコチョイ消費の潜在力を生かしていないのではないか。そして、マスメディアは「ネット」のようになりたがり、ショップチャネルばかりが目立つ。<br />
スマートに徹することは、豊かなのか。幸せなのか。<br />
再考のときが来ていると思う。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>とある老教授の言葉。</title>
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    <id>tag:www.naotoyamamoto.jp,2010:/blog2//7.1282</id>

    <published>2010-02-15T03:51:01Z</published>
    <updated>2010-02-15T03:53:42Z</updated>

    <summary>ある大学の先生から聞いた話である。専攻はマーケティング。 ある時その先生の師匠と...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="マーケな目" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="マーケティング　心理" label="マーケティング　心理" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p>ある大学の先生から聞いた話である。専攻はマーケティング。<br />
ある時その先生の師匠と、議論になった。師匠は齢70になろうかという大家である。<br />
話の内容はマーケティングのモデルの有効性のようなものだったらしい。たしかに、モデルというのは山ほどあるけれど、それが実際の市場で通用するかしないかは議論の対象になる。<br />
経営学のような社会科学では避けられない話なわけで。もっとも理論だけ教え込んでそのまんま、という先生もまだまだいるので、適用性の議論になること自体、実は稀だったりするのだけど。<br />
で、ひとしきり話の後で、この師匠はひとこと漏らしたそうな。<br />
「でもね、○○君。人の気持ちなんていうのは分からないものだからね」<br />
いや、それはそうなんだろうけど、じゃあマーケティングって、結局何なのだろう、という話にはなってしまう。そりゃ、人の心は分からないけど、だったらリサーチしても意味はないし。<br />
でも、僕はこの言葉に共感もする。一生懸命に市場導入を考えたのに実際は大コケだった...というようなタイミングでこれを言ってはどうかと思うが、長く研究を続けるほど、こうした気持ちになるんだろうな～というのはよく分かる。<br />
たしかに人の心はわからない。多くの資金を投じてリサーチをしても、売れないものは山ほどある。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>マーケティングは、どんなに科学的研究が進んでも割り切れない「あまり」のようなモノがある。人の心に関わる以上、それは所与の前提だと思っている。<br />
ところが、そうした曖昧さを嫌う人もいる。費用対効果を追求する。当然槍玉に上がったのはマス広告だった。<br />
一方買い手の方も曖昧さを嫌う。事前に評判を調べて、「間違いのない」買い物をしたがる。ムダは悪である。CMを見ても直線的に購買はしなくなった。<br />
つまり、売り手と買い手がお互いに「ムダの低下」を追及していったところに、ネットを舞台とした市場が伸長した。そして、ネット上の情報を使いこなし、ポイントなどの付与サービスを使いこなすことが、賢い"スマートな"消費者とされた。<br />
と、このストーリーに落とし穴はないのだろうか。売り手と買い手が「効率化」を追求したことで失ったものはないのか。<br />
まだ自分の中でまとまってはいないのだけれど、老教授の言葉を耳にしてから、ずっと気になっていることである。</p>]]>
    </content>
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    <title>自治体と広告会社。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/archives/2010/01/post-141.html" />
    <id>tag:www.naotoyamamoto.jp,2010:/blog2//7.1281</id>

    <published>2010-01-31T02:42:47Z</published>
    <updated>2010-01-31T02:47:23Z</updated>

    <summary>2016年に東京オリンピックは実現できなかった。 それはそれで、まあ仕方ないとは...</summary>
    <author>
        <name>山本直人</name>
        
    </author>
    
        <category term="トピック" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="電通　オリンピック" label="電通　オリンピック" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.naotoyamamoto.jp/blog2/">
        <![CDATA[<p>2016年に東京オリンピックは実現できなかった。<br />
それはそれで、まあ仕方ないとは思うのだけど「いくらかかったんだよ」と突っ込まれる時勢なので、とりあえず正直に報告されたらしい。<br />
総額は150億円で、その財源は都税と民間資金だったけれど、民間からのお金が想定より少ないため、6億円の赤字になるという。<br />
なんで、それを知ったかというと「じゃあ電通に6億円負けてもらいましょうか」という<a href="http://www.asahi.com/national/update/0131/TKY201001300412.html">ニュース</a>を見たからだ。<br />
一番金払った電通に債権放棄をしてもらおうという話になっているという。<br />
似たような話は横浜でも起きているようで、こちらは開国博「Y150」がこれまた厳しい決算になるので、博報堂とADKに減額交渉をするということが<a href="http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1001160003/">こちら</a>で報じられている。<br />
似たような話で、ちょっと違うのは開国博の場合は契約があって、それを根拠に話が進行していることだ。どうやら概算で契約したけど、イベント契約後に金額を確定というものだったらしい。<br />
そうなると当然減額交渉というのはあり得ることだし、法的措置というのも可能性が出てくるだろう。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>東京都の場合は、記事を見る限り「難しいだろう」と言っているくらいだから「お願い」モードに見える。契約書の存在や形態もよくわからない。<br />
もっとも東京五輪の招致は「10分で5億円」のビデオ制作費を電通に払ったことが昨年こうした<a href="http://www.asahi.com/national/update/1209/TKY200912090484.html">トピック</a>になった。何となく落としどころの金額があるのかもしれない。<br />
自治体側の気持ちも分からなくはないけど、横浜の林市長が言っているように、発注側にも一定の責任はあるだろう。ただ、この話は広告業界の外から見るとどうなんだろうか。<br />
特に納税者の視点になれば「いらない公共事業」の一つになるだろう。こんなカタチで広告会社への金の流れがあぶりだされると、民間企業の経営者も自社の広告費の支払いに関心を持つかもしれない。<br />
それにしても、今まであまり出てこなかった「公共機関と広告会社」のニュースが表に出てくるようになったのも、何か理由があるのだろうか。そういえば<a href="http://www.asahi.com/national/update/1004/TKY200910030360.html">郵政と博報堂」の件</a>を一面トップにしたのも朝日新聞だったけど、今回の東京五輪の件も他紙のサイトでは見なかった。これが偶然かどうかはわからない。<br />
</p>]]>
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