先週のことなのだが。
講演が都内で14時半に終わり、気がつくと予定が空いていていた。こういう時は、一人でフラリと、というかフラフラと東の方へ向かうことがある。
生まれも育ちも東京の西なので、たまに東に行きたくなる。年に一度くらい、なぜか初夏が多い。特に目当てはなく京成や東武に乗ることが多いのだが、今回は一応構想らしきものがあった。
「舎人ライナー」に乗ってみようということなのだ。構想、と言ってもそれだけ。日暮里から始発に乗って、タラタラと終点に向かう。特に目新しい景色でもないのだが、高い所を走るので荒川を越える辺りはそれなりの風景である。
見沼代親水公園という終着駅で降りた。何となく川沿いを歩く景色を想像したのだが、特に川もない。と思ったら、写真のように幅3メートルほどの小川に沿った遊歩道が続いているのだった。
のどか。
見事にひどい天気である。今日は30度を越える夏日になるかもしれないという。では、昨日、一昨日の肌寒さは何だったのか。みんな言っているが、春や秋がなく、いきなり夏や冬になっている気がする。5月でいうと、夏日と氷雨が交互にやってくるので、爽やかな五月晴れというのはどこに行ったのか。
一方で、太陰太陽暦のカレンダーを見ると21日は「小満」である。
「万物が天地に満ちる」ということで、麦の穂が育ちたうえの準備をする季節となる。
こうした二十四節気は侮れないところがある。ベランダで植えていた朝顔が、気がつくと一双葉を伸ばし始めた。まさに小満の頃からである。
朝顔は、以前も植えていた。適当にベランダの手すりにでも伸ばしておけば、それなりに絵になるのだ。
ところが、今回適当に選んで買った種の袋の裏を見て驚いた。ある程度成長したら、鉢分けしてどうこうと細かく書いてある。何だか、妙に大きくなるのだろうか?と思ってみると、この品種は「直径18センチ」ほどになるのが売りのようだった。
ダラダラとベランダに朝顔が育っていくということは今夏は期待できないわけで、巨大朝顔の生育に一喜一憂になるのだろうか。
もう先々週の話であるが、母の日ともなると夕刻には駅前の花屋に行列ができていた。
母の日にカーネーションなどを贈ったのは、後にも先にも一度だけで、たしか小学4年の頃ではなかっただろうか。一応事前にリサーチをして、きょうだいで算段して「何本くらい買えるかな」とか考えていた。
ところが、当日か前日だかに行ってみると、見事にカーネーションは値上がりしており、ほんの僅かしか買えなかった。花屋の主人と話をして、おぼろげながら「需要と供給」の概念について学んだことを覚えている。
ただし、子供心にはその市場原理は単に理不尽であり、悔しい思いだけが残ったものだ。ただ、それが高じてマルクス主義者になったかというと、全くそういうわけではなく、「二度と母の日に花は買わない」という単純な思い込みだけが残ったのである。
大体、いまもそうやって母の日の前後に花の値が上がるかどうかすら知らないのだ。
ただ、花の存在自体は妙に気になってしまい、花を買ってくるようになった。トルコ桔梗と手毬草の組み合わせは、手毬草のみが残ったので、今度は芍薬とストベリーフィールドの組み合わせである。芍薬はまだつぼみだ。
さて、花を生けるのは習慣になるのだろうか。