naoto_yamamoto:Blog / 桃園雑科帳
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カテゴリ[ 見聞きした ]

もう先々週なのだけど、東京宝塚の「カサブランカ」を見た。
いや、どうなることかと思ったけど、十分に「カサブランカ」だった。あとでDVD見たいなという気分になって実際に借りて見たんだけど、出来が悪けりゃそうは思わない。
カサブランカのような作品は時代の申し子だ。一組のカップルというのは、過去から未来に無数に存在する「小さな物語」だけど、異国間の戦いのような「大きな物語」は、その"大きさ"が時代によって異なっている。
もし、いまの日本で「大きな物語」を作ろうとすると結局不自然になって、嵐の「最後の約束」みたいに「やってることは大きいけど、動機の物語は小さい」くらいじゃないとおさまりがつかない。
戦争を背景にしたラブストーリーに名作が多いのは、小さな物語と大きな物語の交錯が劇的な効果をもたらすわけで、その交錯をどう扱うかで、お話の出来が変わってくる。
この手の脚本では、小池修一郎は磐石だな、と改めて思うわけだが、主役以下も十二分に健闘していて、新トップの大空祐飛もちゃんとボギーになっていた。(全く同じわけではないけど、もちろん)

カサブランカ@東京宝塚の続きを読む

立川談春が、世田谷・成城ホールを舞台に「アナザーワールド」という会を始めるというので、その1月公演に行った。三夜連続で同じ演目のようで、前半が根多おろしの「鰍沢(かじかざわ)」で、後半がお手の物の「明烏」という一夜である。
明烏はいつもより、軽めでテンポのいい流れだった。前半がそれなりの大作なのでこのバランスは悪くないと思う。
さて、鰍沢だが何と言うか困った話ではある。野暮を承知で言えば「サスペンス」ということなのだろうが、そんなもので片付けられる話ではない。
しかもこの話、というか一応「鰍沢」を初めて生で聞いたのが、困ったことに昨夏の三遊亭白鳥の「鰍沢」なのだ。当然白鳥ワールドでこれはこれで面白いのだけれど、このおかげで変な「思い出し笑い」をしてしまうのである。
「鰍沢」を聞きに行く、というのは噺を楽しみに行くという行為とは違う気がする。ある種芸の出来を眺めに行くようなものになりがちで、それはそれで面白いのだけど。
結局、誰がやっても「演者にとっては難儀な噺だよな」という感想が先に立つ。何に似てるんだろう、この感覚。リヒャルト・シュトラウスの「死と変容」あたりだろうか。
鰍沢といえば、昨夏の「予習」のためにダウンロードして聞いた圓生の鰍沢が印象的だ。内容ではなく、その後に収録された自らによる「芸談」が面白い。
登場人物の「お熊」という女性を「いけぞんざい」に描いてはいけないのだと延々と力説する。そして、そういう描写は志ん生が持ち込んだのだと、かなり怨念のこもった批判を始めるのだ。
という本筋と異なるところが印象に残る。やはり難儀な噺なのである。

ショスタコーヴィチの夜は素晴らしかった。ゲルギエフとマリインスキーの話なんだけど。
いきなり曲目が変更になっていて、しかも協奏曲、しかもショスタコの1番である。トランペットも含めて、これが素晴らしい演奏だった。
この時点で、メインのシンフォニーの成功は半ば約束された感じである。観客が、指揮者とオケ、ソリストに最大の祝福を送っている。
こういう日のコンサートは、まずうまくいく。コンサートホールが祝祭の場になっているのだから。
というわけで、メインの交響曲第10番は、サウンドにおいても、内容の濃さにおいて、そして何より「ノリ」が良かったのである。
たしかに、チャイコフスキーは「古典」であったと考えると納得がいく。ショスタコーヴィチは、彼らロシアの人々にとって「同時代の共感」がヒシヒシと伝わってくるのではないか。
若い楽員も多いが「ソヴィエト」のことを知る人々もメンバーには多いだろう。
彼らがショスタコーヴィチを演奏する時、果たしてどんな思いが胸をよぎっているのか。僕には想像もできないが、とにかくできる限りの拍手で彼らを祝福したのだった。

ゲルギエフといえば「難聴」というのが我が家でのキーワードである。
2004年にウィーンフィルと来日した際の、チャイコフスキーの5番のコンサート。友人夫婦が二組4枚入手したので、誘われたのだ。
サントリーホールであったのだが、席は二箇所に別れて、僕は迷わず2階の奥まった席を選んだのだけれど、彼らも迷わずにLAブロックを選んだのだった。
そして、コンサートの翌日に奥様の耳の聞こえが悪くなり医者に行ったら「音響性難聴」と診断されて1週間くらい聞こえが悪かったそうである。
そのような爆演であった。
昨日はそのゲルギエフとマリインスキー歌劇場オケのオール・チャイコフスキーで、いきなり「1812年」である。
今回もサントリーホール。舞台に近い人の耳は大丈夫だろうか。
結論から言うと、この日の演奏はきわめて室内楽的で見通しがよく混濁の少ない、それでいて締めるべきところは締めるチャイコフスキーだった。ピアノ協奏曲を挟んで、メインは交響曲4番だったけれど、最後の3分間に硝煙の匂いが少々漂ったものの、爆薬は浪費しないような演奏だった。
胸焼け覚悟で中華料理を食いに行ったら「油通し」はしてません、想像以上にヘルシーな味わいというか、素材優先、つまり楽曲が良く見える演奏なのである。
ゲルギエフは指揮台をおかず、アクションも小ぶりで、このオケと「通じ合って」いることを感じさせる指揮ぶりだった。

油分控えめ?ゲルギエフ@サントリーホールの続きを読む

久しぶりに新国立劇場に行った。
「ヴォツェック」である。木曜の14時。直前に思い立ったのだがS・A以外は完売という繁盛ぶりである。
はじめて聞くけれど、陰惨な狂気の物語であり、それで平日午後からこの人出である。好事家が多いのか、まあ人のことは言えないのだけれど97年にこの劇場がオープンしたときには想像もつかない光景だ。
歌舞伎座だって平日昼興行が成り立っていて今月なぞ昼席は完売ではあるけれど、オペラしかもベルクでこんなに人が来るんだ。
演奏が始まってまず分かったのは、午前中ジムでランニングをして、家でメシ食って約一時間後のベルクは、恐ろしく眠くなるということだった。
ただし睡魔が去った後は恐ろしく冴えて、聞き入ったけれど。
初めて見るのだが、演出が「斬新」であることはわかる。だって水浸しなんだから、舞台が。ただし、あまりに説明的で「狂気」には遠い気もした。
歌手は誰が飛びぬけて、という印象ではなかったが、オケのできがよかったと思っている。東フィルは06年に聞いたハーディングの「復活」での金管の醜態に愛想を尽かしてしばらく聞いてなかったけれど、今日は精緻なアンサンブルで金管も決まっていた。
あと、子ども店長、じゃないや子役がなかなか。カーテンコールでもオケと子どもで拍手が強かった。
終演と同時に「ブー」が約一名だけど、終演直後のブーイングってどうなのか。歌手やオケなどの個別に対してはなかったようなので演出に対してかもしれない。
それなら演出家が登場したとき(しない日もあるが)にすればいいんじゃないかと。オケもグチャグチャ、歌手はヘロヘロという演奏ではなかったし、あくまでも当日評価されるのは演奏家なのだから、ああいうブーイングは心地よいものではない。
ついでに書くと日本人のブーイングは(ブラボーもそうだけど)音楽的じゃない。昨日もそうだが「ブー」とカタカナ言ってはbooingじゃないでしょ。
海外の録音でもブーイングを聞くけど「booooo」と唸るような声があちこちから湧いて来る感じ。
とは言え新国立劇場も、いい劇場になってきたんだな、という感じを強くした。採算ベースに乗りにくい公演のための施設を作ってよかったと思う。もう、国立でこういう施設作ろうすると今後はみ~んな"仕分け"されちゃうんだろうな。

ドボルザークのチェロ協奏曲は難しいのだろう、とつくづく思う。生演奏で「楽譜通り」に演奏されたものを聴いた記憶がない。どうしても音程が荒れて、無傷にはならない。
かつ、チェロの音もディスクで聴くようにクッキリとは出てこないことが多い。
12日にサントリーホールで聴いた、ヨーヨーマとヤンソンス=バイエルン放送響のコンサートでもその印象は残った。ただし、それは第一楽章の提示部までだったのだけど。
2楽章の後半からグングンとチェロの音が伸びてきて、フィナーレではオケの分厚いサウンドとともに幸せな気分になれる。ここでのアンコールは、なんとバイエルンの主席とのデュオ。その後、ソロで一曲。
後半のワーグナープロは、タンホイザー序曲と神々の黄昏、そしてワルキューレの騎行。こういう「名曲コンサート」的なプログラムなのだけど、緊張感が持続するところが凄い。
バイエルンはヤンソンスとのコンビで聞くのは3回目だけど、一部の奏者が若返っているようで、以前スタミナ不足を感じたトランペットもキラキラ感抜群。木管とホルンはドボルザークのチェロとのハーモニーが至福。

南ドイツの森にチェロが響いて。の続きを読む

逆転裁判に、また行ってしまった。「ヅカのギャクサイ」は今年の2月に見たのを、ここに書いたのだが、今回の再上演は既にその頃に発表だった。
当然、今回も「買い」である。
前回の舞台で、このゲームを舞台化する上でのある程度の「お約束」は確立されたので、今回はストーリー展開や歌をゆっくり楽しめた。前から3列目というのは初めてだったけど、客席に降りて目の前で歌っているときなど「自分のために歌ってくれてる」という錯覚感満載で、かなり楽しめた。
基本的には「逆転裁判2」の第4話のエッセンスを取り入れているけれど、ストーリー自体はかなりアレンジされていて、犯行やトリックはオリジナル設定。
ちゃんと犯人のバックグラウンドも「宝塚らしさ」があって、これはこれでまとまっていたと思う。
ACTシアターもサカスも初めて行った。ACTは席自体はいいポジションだったのだけど、終演後の動線の悪さに辟易した。2階のエントランスまで全員を戻すので、かなり滞る。1Fのドアを開ければ済むことなのに。
サカスは「都心の再開発施設」というよりは、「郊外型のSC」が赤坂の街なかにねじ込まれた感じ。店舗のラインナップや、内外装に微妙な「まとめました」感がある。
そういえば最近移転したテレビ局の新社屋の周りは、結構フツーの場所になっている気がする。昔は独特のザワザワした空気があったんだけど。

久しぶりに宝塚に行った。妻がよく行っているのだが、僕が付き合う公演はは1年で片手にも満たない。男性としてはそこそこ行っているほうなのか、どうなんだろうか。
ただ、それなりに演目を厳選しているので、前評判のいいものに行くことが多い。いきおい再演物の割合も増える。
20日に見た「太王四神記」はVer.2と銘打っているが、年初に演じられて評判のいいプロダクションの「バージョンアップ再演」ということになるのだろう。
韓流のドラマなどはまったく見たことがないのだけど、今回は予習なしで見た。
想像以上に面白かった、というのが自分なりの単純な結論である。
韓国のドラマというと「濃密」というイメージがあるのだけど、その濃さは宝塚のプロダクションとしては結構合うのだろうなと思う。もともとに比べて「希釈」してはあるのだろうけれど、味わいとしては悪くない。

宝塚歌劇と韓国ドラマ。の続きを読む

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ボリショイ・オペラを聴いた。6月21日にNHKホールでおこなわれた「スペードの女王」。NHKホールだと、かなりいい席ではないと何も聴こえないので、どうしても値段の高い席が欲しくなる。だから、よほどのことがないと、このホール自体に行かない。
で、まあ今回もいいか、とあきらめていたら、直前になっていい席が「お値引き」というメールが飛び込んで来て6月に入ってからチケットを入手した。ほんと定価で買われた方には申し訳ない。
演奏の方は、主要キャストの歌唱に隙がなく、演出もシンプルにして奥深く、指揮者とオケは安定感抜群で、今回のような演奏を東京で聴くことはあまりないだろうな、と思う。
オペラは有名どころの演目は、一通り生で聞いたけれど、実は何度も聞きたいと思うものはそんなにない。自分は決してオペラ好きではないのだろうなと思う。
「スペードの女王」は一度も聞いたことがなかったので今度行ってみたのだけれど、これもまた結構厳しいストーリー。プーシキンの原作で「エフゲニーオネーギン」と類似した虚無感がある。
出てくる男が「ダメ」な感じで、チャイコフスキーがオペラにしたのも何となくわかる。

スペードの女王とオペラのダメ男。の続きを読む

26日から東京を離れていて、30日に帰京した。
戻った理由は、コンサート。ファビオ・ルイジとドレスデン国立歌劇場管弦楽団のリヒャルト・シュトラウスプログラムである。
前半が「ツァラトゥストラはこう語った」で、後半が「アルプス交響曲」。つまり、前菜とかデザートはなく、メイン料理が二皿という感じだった。
感想としては、お腹いっぱい。でも、もたれない。そういう感じの大満足な夜だった。
R.シュトラウスは結構好きで、中でも一番好きなのがアルペンなんだけど、まず演奏機会が少ない。まして来日公演で演奏されるのは本当に稀なので、チケットは迷わず買った。
ルイジは、一昨年の来日でマーラーの「復活」を聞いていたのだけど、その時はコーラスの印象が強くて「いい指揮者」だと思ったのだけど、あんまり印象がなかった。
まあ、人間の記憶は適当なもので、今回二曲聞いたけど「来日したら必ずチケットを買いたい指揮者」に印象が変わっていた。

メインだけ二皿、ドレスデンのドイツ料理。の続きを読む