2015年02月アーカイブ

コピーライターの小霜和也君とは同期入社で、あまりゆっくり話す機会はないのだけれど、お互いが書いているものは読んだりしている。昨年『ここらで広告コピーの本当の話をします。』という本を出して、広く読まれている。その後、ネット上でもコラムを連載していて、先週末に掲載された「~最終章~おれたちの冒険はこれからだ!」を読んで、いたく共感したくだりがあった。

彼はコピーが持つ本質的なチカラが、ビジネスを変化させていくという視点で論じている。だから広告を「『作品』と呼ぶのをやめませんか。」という問いかけもしている。ビジネスモデルを変えなきゃ、今までの広告クリエイティブは厳しいんだということを明晰に語ったうえでこう書いていた。

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僕の言ってることは難しいでしょうか?
そういうことよりも、じつは古いコピーライター像を最も守りたいのは若者たちなんじゃないかと。
コピーライター目指すんだ!という思いが強い人ほど、「コピーライターとはこういうもの」という既成概念がこびりついてぬぐえないようです。
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この感覚はとてもよくわかる。それって、広告業界だけではなく、歴史の中ではよく見られてきた風景なんじゃないかと。アートや音楽の歴史を見ても、急速に潮流が変化していくと、必ずのように“反動”が起きる。古典への回帰、過去への憧憬。そうしたパワーは若い世代から発せられることが多い。

この構造自体は結構単純だと思う。若い人が「新しいもの」を志したら、まずその時代の大きな潮流に逆らおうとするだろう。そして、その流れを作っているのは、自分の親世代あたりになる。そこから振り子を逆に動かそうとした時に、その1つ上の世代に回帰しようとしていく。

ところが、時代の流れというのはそうそう甘くない。送り手であるアーチストが右だ左だと言ってる間に、受け手はどんどん違う方に行っている。潮流が変化しているのに、船の進路を議論していたら、結局は大海の中ではぐれるだけ。そうやって、衰退した芸術はたくさんある。

小霜君が指摘したように、広告を「作品」として語っている人々はまだまだ多い。でも、それは、過去のアーチストが内輪の議論に終始して、もっと大きな潮流を見落としたことと似ていると思う。

そして、新しいアートや音楽が受け手の支持によって広まったように、小霜君の主張もクライアント筋から高い関心と支持を得ているという話も、また符合する。

この現象は広告業界に限らない。かつて繁栄した業界ほど、まだまだ大きな「先人の像」がそびえている。ただ、その像が知らぬ間に亡霊になっていた、ということもまたしばし起きることなのだけれど。