2015年09月アーカイブ

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近所を歩いていたら、とある家の垣根に紙が貼ってあった。

「アベ政治を許さない」

最近、掲示板やデモのニュースで見たあの書体だ。ただ自宅に掲出しているのを見たのは初めてだった。いつまで貼っておくのか、来年の正月はこの脇に門松を並べるのかな?とか、一層のことあの書体で「謹賀新年」と書いたらどうなんだろうとか、関係ないことを思いながら歩いているうちに、この言葉への違和感をどこかわかった気がした。

調べてみると井戸まさえさんのブログに、赤木康伸氏のfacebookからの引用が紹介されていた。赤木氏は「政権・政策批判というよりは、安倍晋三氏個人への悪意が感じられる点」に引っかかりを覚えるということだ。

僕が引っかかったのは「許さない」という方のフレーズだ。そもそも、「許す」というのはどういう時に使われる言葉なのだろうか。

普通に考えると「許す/許さない」を決めるのは、「力を持っている人」だ。それは、個人・法人に対して官公庁がおこない、社員に対して企業が行ったりする。親が子供に対して行うこともある。

「現行の政治を許すかどうかは、私たち国民が決める」というのは、国民主権の概念からいえばたしかに、この言葉の使い方が間違っているわけじゃない。しかし、「許す/許さない」を決めるのは相当の覚悟がいるはずだ。 >> 「アベ政治を許さない」への言葉的違和感。の続きを読む



(2015年9月24日)

カテゴリ:キャリアのことも
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休み明けは、フォルクスワーゲンのスキャンダルで大騒ぎになっている。将来の危機管理のテキストにはどのように扱われるのか。そのせいか東芝の問題は相対的に軽量に見られるかもしれないけれど、連休中に読み直していた記事で面白いものがあった。

日経ビジネスオンラインの「大西康之・突撃!ニュースの現場」というシリーズで、記者会見の模様などを丁寧に再現している。記者会見の記事は多いが、その場の空気を伝えるくれる記事は少ないので、本質が垣間見えることもある。

ちょっと前の9月14日の記事で、東芝決算発表の時の話である。室町社長の説明の後で説明された渡辺幸一財務部長の発言が、なかなかすごい。記事によるとこんな感じだ。

「STP(米国での原発建設プロジェクト)の減損がなかりせば増益です」
「電子デバイス部門も、減損処理がなかりせば、営業増益でありました」
この、「なかりせば」という大時代な言葉も何やら可笑しいが、そもそも、これは責任ある立場の人が言っちゃいけないんじゃないだろうか。

だって、言葉が大仰だけどいわゆる「たら・れば」なんじゃないかと。「ああ、あれさえなければ」と、つまり過去を「なかったこと」にしちゃうわけだ。じゃあ、こういう言葉を使うのはどんな時なんだろう。

まず、スポーツファンなどはこれをよく言う。「あのキックが決まっていれば」「あのレッドカードさえなかったら」とかいう類のものだ。まあ、これは仕方ない。ファンはそうやって、ウジウジしながら慰め合って、勝利の時はその鬱憤を晴らす。

ところが、これを監督が言ったらどうなるか。

「あのホームランさえ打たれなければ、勝ってた試合です」 >> 東芝財務部長の言語感覚。の続きを読む



hoshi     宝塚歌劇団 雪組公演

ミュージカル・ノスタルジー『星逢一夜』

作・演出/上田久美子
バイレ・ロマンティコ

『La Esmeralda(ラ エスメラルダ)』

作・演出/齋藤 吉正

2015年9月16日 東京宝塚劇場

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芝居の終演後に、あちらこちらからすすり泣きが聞こえた。後ろの席の女性が「いい話だねぇ」と涙声になっていたのが、印象的だった。

小劇場で二作を書き、初めての大劇場に挑んだ上田久美子の作品を楽しみにしてきたのだけれど、期待以上だった。

僕は一作目は見ていないのだが、二作目の「翼ある人々」を見て驚いた。シューマンとブラームスを中心にしたストーリーだが、時代背景や音楽史を踏まえつつ、小難しくならずに引き込まれた。

今回の「星逢一夜」は、江戸時代の九州の「三日月藩」という架空の小藩を舞台にしている。殿様の次男坊は、百姓の子どもたちと幼馴染だが、やがて将軍吉宗に取りたてられ、老中にまで登る。ところが、改革は小国の百姓たちにとっては過酷なものとなり…というストーリの半ばでその後の見当は「ある程度」つくのだけれど、想定以上の展開で終わってみればいい余韻が残った。

前作と共通している上田作品の特徴は、登場人物の「美しい心」が、ある意味純粋すぎる上に起きる葛藤が底流にあり、観終わった時に残る独特の切なさだ。ところが、今回は一筋の希望を感じさせることで、作品の背骨が太くなったように思う。

登場人物は多くないし、場面も限られるのだけれど、ストーリーの背景には抗しきれないような時代の流れがあるし、天文の要素を取り入れている。そのため情に流されるだけではなく、理知的でスケール感のある作品になっていた。

今回は和物であったが、冷戦下欧州のスパイを主人公にしたような作品を書いたら面白いんじゃないかな、と勝手に思ったりもする。

演出はテンポがよく、密度が濃い。これは想像なんだけれど、演出家はコミックが結構好きなのかな?とも感じた。主人公が台詞を決めるシーンは「1ページ1コマ」のような静止感があり、場面転換のキレは紙のページをめくった時のような思い切りがある。

音楽の使い方も印象的で、冒頭ピアノソロから始まり、早霧せいの挨拶から展開していく流れなどは緊張感が持続していた。

しかし、近くの客がもらした「いい話だねぇ」という一言が、現在の宝塚における大切な価値なのだと思う。歴史ある劇団ほど、「団の活動を観る」ことを目的にしている人も多い。でも、キャストについての知識などがうすいビギナーにとって「いいストーリー」であることはとても大切だ。というか観劇の基本的な動機はそこにある。今後宝塚がファン層を広げていく上でも、上田久美子さんはキーパーソンになっていくのではないだろうか。



いまさら、という感じの話題ではあるけれど、テレビの「日本礼賛番組」というのは、どういう人が見ているのだろうか。とりわけ気になるのが外国人が「ニッポン・すごい」という手のものだ。

テレビだけじゃなくて、書籍にも目立つしネットでも多い。ただい、自分の身の回りではそうした話題になることは少ないし、そういうコンテンツを好きな人もあまりいない。

この間、友人と話していてふと思ったんだけど、どうやら「外国人“全般”にどう思われるか」ということには、興味がない人が多い。

一方で、仕事の中では外国人と接している人が多い。自社の取引先だったり、職場の上司や仲間だったり、あるいは製品のユーザーだったりと濃淡はさまざまだが、日常的に外国人とつき合いがあるわけだ。仕事ではなくても、外国人の友人がいる人も多い。

だから、「外国人が日本をどう見ているか」という一般的な話よりも、「目の前にいる外国人が自分をどう見てるか」ということがよっぽど大事なんじゃないか?という話になった。

まぁ、そりゃそうだ。

お客様であれば、「お買い上げいただけるか」が大切だ。職場であればいかにスムーズに協働できるか、ということになる。友人であれば楽しく付き合いたい。仕事からスタートして、プライベートで仲良くなれば、ずっといい関係を維持したいと思うだろう。 >> 「日本礼賛番組」って、誰が好きなんだろう?の続きを読む



考えてみると、結構いろんな会社に行っているので受付やロビーもさまざまだな、と思う。20年以上前だが、支社勤務の頃は「スリッパ」を出すようなところにも行った。

最近振り返って思うのは、会社の受付やロビーというのは、その会社の体質や置かれた環境を象徴しているように感じるんだよね。

で、ちょっと特徴的なところで3つばかりのタイプを挙げてみようかと思う。

■ 大学病院タイプ

もう、「順番に待ちなさい」という感じで、もちろん大企業に多いし、寡占型の業界に目立つと思う。当然にお役所的だ。

待ち合わせの椅子が、一列でみんな同じ方向に向いている会社もある。まさに、大病院で支払待ちの番号を呼ばれる感じだ。昔、官製通信企業のロビーに「お客様が輻輳している際には~」という掲示があって話題になっていたこともある。「輻輳」とは通信の混雑状況を表すので、普通人には使わないわけで。

そういえばとある企業では並んだ挙句に、持ち込んだパソコンのシリアルナンバーも書かされて、USBなどは「お預かり」だった。ところがこの企業では後に、外国人社員が機密事項を持って消えてしまったという事件で大騒ぎになる。内には甘かったんだなあ

■ 放置タイプ >> 受付を見れば、会社の未来がわかる?の続きを読む