2017年06月アーカイブ

先日読んだジェフリー・ディヴァーの『扇動者』(文藝春秋)は、内容も面白かったのだけど、細かい描写がいかにも現代だった。警察関係者が捜査会議をしている時に、勝手にスマートフォンをいじっている場面が結構出てくる。

それが、場の心理を絶妙に表現しつつ、後で考えてみるとちょっとした伏線にもなっているのだが、まあ世界のどこでもスマートフォンはなかなか手放せないだろう。

この小説の場合はスマートフォンの描写がリアリティを高めるのに効果的なのだけれど、現代の人間をそのまんま描写すると、身も蓋もなくなる。ハードボイルドの小説で、探偵がバーカウンターでスマートフォンをいじっているわけにはいかない。

また、古典小説に無理矢理スマートフォンを登場させると、どうなるか。

「クトゥーゾフはくたびれた目でデニーソフをながめはじめ、腹立たしそうな身振りでスマートフォンを見ると、彼の言葉を繰り返した」

「彼が見ていた家から、本当に、デニーソフが話しているあいだに、スマートフォンを片手に将軍が姿を現した」 >> 漱石の小説に無理矢理「スマホ」を登場させてみる。の続きを読む