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あけましておめでとうございます。
4日と言っても、今年の日並びからいって、まだまだスタートしてない人も多いと思い、全く仕事は関係ない話を。
今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」なんだけれど、主人公は新島八重で、会津の物語ということをご存じの方は多いと思う。で、八重は同志社の創立者に新島襄と結婚する前は「山本八重」であり、その兄「山本覚馬」とともに物語の中心をなすようだ。
なんだか、自分と同じで親しみが湧くな~とか普通「山本」姓の者は感じないだろう。それくらい多いわけだ。
ただし、この会津山本家については、かなり気になるのだ。
こちらのページなどにも出てくるが、山本八重の祖先は「山本道珍」であり、その次男筋の血筋のようである。で、結論をいうと、この山本道珍は僕の先祖なのだ。
この写真は、道珍の眠る白金・立行寺の墓石である。明治34年に没したようだ。
次男筋の分家の方は、今回のドラマでも注目されているが本家の方はどうかというと、実はしっかりつながっていて僕が末裔なのである。
ううむ。自分のことを「末裔」とか入力変換したの書いたの初めてかも。
ちなみに、この山本道珍は会津の茶道頭を200年以上にわたり、代々勤めていた。茶坊主ではなく、茶道頭。文化系団体の元締めみたいなものだったのだと思う。茶道辞典にも名を残している。
そして、まだネットのない頃だが十数年前に郷土史家の宮崎十三八様を探し当て、手紙も頂いき、会津まで行ったのだが、入院されてしまいそのまま帰らぬ人となってしまった。
その後、別に情報が増えることもなくネットで検索してもあまり出てこなかったのだが、先日「八重の桜」が気になって調べたら、結構出てくるようになっていて驚いた。
幕末の動乱の折に、南部(岩手県)に流され、明治元年に長男の源太(僕の曽祖父)が東京に出てきて、やがて職を得て居を構える。その後、東京で暮らしたようで、父の戸籍謄本を見ると、出生時の「前戸主」として道珍の名が見られるのだ。高輪から三田に移ったようで、墓所は近所ということだったのだろう。
考えてみれば、山本覚馬・八重の子孫は僕と祖先を同じにするわけなのだが、いったいどうしているのだろうか。このようにドラマ注目された機会なのだから、再度資料が見つかるかもしれない。
実は会津若松市にも照会している。また会津から見てもおそらく道珍の行方はわからずじまいだと思うので、東京の寺で眠っているというのもそれなりの発見なのではないかと思ったりしている。
というわけで、何か知っている人いたら教えてくださいな(って、かなり難しいとおもうけど)。
というわけで、いつもは殆ど見ない大河ドラマだがさすがに気になる。ううむ、折角だから来年50歳になるのを機に「山本道珍」を名乗ってみようかな。
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(2012年1月17日)

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新刊を出します。『世代論のワナ』という題で新潮新書からです。とりあえず、我が家のネコに売り子をさせました。
タイトルの通り、怪しげな世代論がドンドン増殖していることへの警鐘が主眼です。「ゆとり世代」「バブル世代」のようなレッテル貼りが、かえって世代間のコミュニケーション、特に職場での風通しが悪くなっているんじゃないの?という視点で、問題点を考えて、次への道筋を考えました。
自分自身、マーケティングの仕事をして、かつキャリアについても論じているので「世代」の問題には向き合ってきたつもりです。ただし、ちょっと過剰だった点もあったな、という反省も含めて書いてみました。
そういう意味では、人材論という面とメディア論がゴッチャになったような切り口です。「世代を分ける」のではなく、「どの世代が、その時の世代論に影響を受けたのか」という議論をしてみました。
この本は「大ぶろしきを広げて、小さく畳む」という試みをしています。
前半は、「世代論がどうして生まれて、どのように変質したか」という視点で捉えています。後半では「では今の職場でどうすればいいんだろ」ということで、これは自分自身が若い社会人や学生と話してきたことを中心に幾つかのケースを書きました。
章立ては以下です。
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はじめに 世代論という情報戦
1章  若者論というノイズ
2章  世代ラベリングを解体する
3章  変質した世代論
4章  就活に作られた世代
5章  職場に流れ込む「煽り」
6章  手探りの対話から
7章  楽しいタテ社会を作る
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という感じで、いきなり「ですます調」のエントリーでした。関心のある方は、ぜひご一読を。
出版社のサイトはこちら。amazonはこちらです。



(2011年11月29日)

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高校の同期会があった。都立富士高校を1982年に卒業した者たちが、30年ぶりに再会した。この間、全学年の会はなかったので初めてのことだ。
仲のいい連中とはよく会っていたのだが30年ぶりの者も多い。160人を超える、つまり4割以上の出席というのはかなり高率だったと思う。愛着がある学校なのだ。
僕のいた3年のクラスは、なぜか本を出している者が集まっている。こちらのブログに書いている内藤忍君や、当日は不参加だった作家の有吉玉青さんも同じクラスだった。
富士高校から大学、そして会社でも多くの出会いに恵まれたが、高校というのはいわば「本籍地」のようなものである。同じように感じていた者も多かったのだろう。自分自身の根っこを形成しているのが、富士高校時代の経験にある。
もっとも、15歳から18歳までを過ごすのだから、高校というのはそういう要素を持っていることはたしかだ。陳腐な表現だが「多感な青春時代」だから、当然と言えば当然だ。ただし、当時の富士高校には独特の不思議な熱気があったように思う。
それはいまにして思うと「学校群制度」という妙なシステムが影響していたように思うのだ。
学校群というのは当時の都立高校の入試制度で複数の学校を「群」にして、合格者はどの学校に行くのかわからないという方式である。これは、学校間格差の解消を狙ったものだったらしい。
富士高校は西高校と二校で「32群」であった。西高校は元男子校の府立十中で、富士高校は旧第五高女だ。募集人員も西は男女比が3:2くらいだったと思うが、富士は50:50。中三の受験時に男子の多くは「できれば西」という心情だったように思う。

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(2011年11月4日)

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去る9月30日に、父が他界した。今年は、年初から父の健康状態がいろいろと思わしくなく、僕は初めての経験に直面していた。死去の前後も含めて、仕事への影響を最低限に抑えられたのは、今にして思うとわずかな救いだった。
一ヵ月が過ぎて、この間も単行本の入稿やクライアント・ワーク、大学の講義などは普通に流れていた。合間を縫って、色々な手続きをおこなって、一段落したところだ。
父は、典型的な「戦後日本の男」だった。会社員だったが、家のことは母に任せきり。夜は遅く、週末は寝坊するので、子どもの頃「父と二人」という記憶がほとんどない。後になって思うと、それほどのワーカーホリックでもなかったのだろうが、高度成長期は普通に働いても会社漬けになってしまうものなのだ。また、同居していた祖父があちこちに連れて行ってくれて、典型的な「お祖父ちゃん子」だったことも影響しているだろう。
僕が小学校に入る前後だったかと思うが、新聞のチラシに「塗り絵」があった。当時日立の「キドカラー」というカラーテレビのキャラクターで、オウムの「ポンパ」君というのがいたのだが、その塗り絵である。
僕はその塗り絵をこしらえた。そして、電器屋まで行くと何かもらえるようなのだが、その店が当時の年齢ではかなり遠かった。今にして思うと歩いて20分弱程度の所なのだが、子どもにはかなり未知の世界だったのだ。
そして、どういう経緯かは忘れてしまったが父が一緒についてきてくれた。店で何をもらったのか、覚えていない。ただし、父と二人だけで歩いたことはよく覚えている。
そして、その後はそういう記憶もないが、それを不満に思うこともなかった。
ただ、二人で歩いたことは嬉しかったのだろう。未だに「ポンパ君」のことはよく覚えている。

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(2011年1月3日)

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あけまして おめでとう ございます。

特に抱負などを掲げるほどじゃないけれども、昨年後半に書いた本などの「自分自身に対する影響」というのも結構ある。つまり、人が生きていく上での”情報”というものって、何なのだろう?という問いである。

今年は”情報”、とりわけメディア上からの情報について向き合い直ってみようと思っている。

社会人の最初のキャリアが広告制作であり、情報とコミュニケーションには何らかの「価値」を見出ししていたつもりである。ただ、会社を離れてみると、また情報の価値も相対的なものに見えてくる。

今年はテレビの地デジ化、というかBSを含めた多チャンネル化が一気に進み、一方でスマートフォンやタブレット端末も普及するだろう。相変わらず、大して興味はないのだけれど、90年代後半以降のITを梃子にした情報化は一つの節目を迎えるようにも思う。

iPhoneなども結構年配の人が使っているのを見るけれど、思い出すのはパソコンを全社に導入したころのエピソードだ。ある会社で(というかあちこちであったのだけれど)役員を集めてにパソコンの使い方を教えた。

その時に多かったのだが「マウスを空中で動かす」と「モニターにタッチする」という行動だったという。前者はともかく、後者について言えばたしかにわかる気もする。すでにATMとかタッチパネルだったのだから、ついつい触りたくなるのが自然かもしれない。

そういう意味でいうと、ようやく携帯端末などが「普通の電気製品」になったともいえる。ただし、僕は全く異なることを考えている。

今年は「スクリーンへの接触時間」を減らす、というか自分自身をきちんと管理しようと思っている。スクリーンとは、テレビ、パソコン、携帯電話のまあいわゆる「トリプル」なんだけれど、うっかりすると、生活の多くがスクリーンに拘束される予感がしている。そうだ、DSもPSPも持っているから、トリプルじゃ済まないことになるし。

みんながスクリーンを見れば見るほど、スクリーンの外に、人が気づかない機会があると思っている。今までも人が見向きもしないようなキャリアを歩んできたので、少数派になることは十分に「気持ちいい」ことなのだ。

さて、時代に逆らって、たまには自分のクルマのターボをブイブイ回して出かけてみようか、とか、とりあえずはくだらないことしか考ええないのだけれど。まあ、紙の本もザクザク買ったし、まずはジックリと小説でも読もうかと思っている。

今年もよろしくお願いします。