この本、何がユニークかと言うと「現役の大学学部生による共著」ということで、著者は一橋大学商学部松井ゼミ15期生、で「松井剛編」となっている。松井さんとはとある縁があり、この本もご恵送いただいた。

サブタイトルが「若者はなぜ渋谷だけで馬鹿騒ぎをするのか?」となっていて、「なぜハロウィンか?」という問いと、「なぜ渋谷だけで?」という問いが立てられ、渋谷はもちろん、池袋、川崎と体当たりで取材をしつつ、複層的に解を探している。だから「祝祭論」でもあり「都市論」にもなりそうだが、彼らの専攻はマーケティングの消費者行動論なので、分析のフレームは、その視点で徹底されている。

徹底した現場主義の一方で、準拠集団、アーリーアダプター、アジェンダ設定などのテクニカルタームが飛び交い、ある意味消費者行動論を学びたい初学者にとってはいいテキストにもなるんじゃないかとも思う。

というわけで、「学部生が、よくこれだけ頑張ったな」と思いつつ読んでいて、ふと気づいた。実はこの本は「ハロウィンで騒ぐ若者」を分析しているようでいて、「いまの大学生」のリアルを映し出しているのではないか?

つまり、この本を読んだ人は「騒ぐ若者」を知るだけではなく、「それを冷静に見ている若者」を知ることになる。文化人類学研究の観察記を読んでいるうちに、異文化を知るだけではなく、その観察者の旅行記を読んでいるのと同じようなものなんだろう。

すると、この本は全く別の視点で「今の日本を浮き彫りにする」という、「意図せざる効果」を生み出しているんじゃないだろうか。 >> 【書評】『ジャパニーズハロウィンの謎』が意図せずに描いた”若者”のリアル。の続きを読む



想像以上、と言っては失礼だと思うけど、惹句にある「おちこぼれ兵士たちの活躍を描く痛快歴史エンターテイメント」というイメージとはちょっと異なる。松本清張賞受賞作だから、これがデビュー作ということになるんだろうけど、軽いようで深いと思うのだ。

たしかに、トーンは重くない。主人公は大阪の与力の跡取りだが、明治になってからは道修町の薬問屋で丁稚奉公をしている17歳。

軍歴がないのに、士族の血が騒ぎ西南の役に官軍の兵として加わる。当時、かつて賊軍と言われた藩の元士族が官軍として戦った話は知っていたが、この小説は一味違う。

この主人公は若くして、分隊長を任せられるのだけど、後の3人は年上の曲者ぞろい。ところが、このチームが小気味よく動き出し、キャラクターがイキイキとしてくるあたりがすごくうまい。

で、どこかに既視感があるなと思ったんだけど、これって「ドラゴンクエスト」とかの、ロールプレイングゲームのチームなんだな。主人公は勇者。ガタイのいい武闘家がいて、商人もいる。料理人というのはゲームでは見ない気もするけど、どちらかというと僧侶的な役だろうか。

成長譚ともいえるんだけど、どちらかというと敵キャラを倒してレベルアップしていく感じだろうか。そして、“ぱふぱふ”もちゃんとあるのだ。 >> 軽くて深い『へぼ侍』はRPGなテンポ感。【書評】の続きを読む



すごく簡単に書いちゃうと、「ロシア革命後にモスクワのホテルに軟禁された伯爵が、何十年もそこで過ごす間の、さまざまな人間模様を描いた作品」ということになって、全然面白そうではない。

ところが実際に読んでみると、これが素晴らしい作品なのだ。派手さはなく淡々と進む滋味あふれる作品、という感じでもあるのだけれど、時代を追うにつれて、限られた空間の中で起きるドラマは予想を遥かに超えてダイナミックに動いていく。

もちろんフィクションではあるけれど、時代背景は当然反映されている。伯爵が軟禁されたのも革命という現実からの出来事とされるわけで、その後もスターリンからフルシチョフに至る権力交代がストーリーにも投影される。

そして、この小説では味と音楽が、とても大切な役割を果たす。レストランなどでの食事の描写はワクワクするけれど、もちろん料理の説明が達者だというだけではない。「食べる時間の愉しみ」が、これほど素敵な小説は早々ないだろう。

音楽については、「あ、これは作者がクラシック好きなんだろうな」と思う描写だけじゃなくて、やがてはストーリーを大きく揺るがしていく。これについては、読んでのお楽しみだろう。

というわけで、何だか紹介が難しい小説なんだけれど、米国では大評判の一作で映像化も予定されているようだ。

ちなみに、ミステリー好きな人には特に強く薦めたい。もちろん「ミステリー」に分類される話ではないんだけれど、巧緻な伏線とその糸の織りなしの見事さは、ある意味ミステリー小説的な技巧であるし、「オオ!」と唸らせる要因にもなっている。

さらに、装丁も素晴らしい。小説は基本的にはkindleで読むんだけれど、これは本として手元においておきたい。そんな気分にさせてくれる小説も久しぶりである。

あと、登場回数は少ないけれど、あの可愛い動物も出てくるので、あの動物が好きな人にもたまらないだろう。これは、書影をよく見ればすぐわかるはずだ。

読むだけで、幸せになれる。小説ってそういうものだよな、と読んだ人なら実感できるはずである。

 



哲学の歴史は、理性の歴史である。と、知ったかぶりようなことをいきなり書いちゃったけど、素人的には「まあ、そういうものなのか」と感じるのが普通かもしれない。

ところが、ちょっと考えると哲学者や思想家と言われる人は、「ギリギリのところ」で何かを考え続けていたのではないか?という感覚はどこかにある。作家でも、ドストエフスキーなどは、その「ギリギリ感」がもっとも強烈かもしれない。

本書はそのギリギリ感を「創造と狂気」という視点で編みなおした一冊なのだけど、本当に驚きの連続だった。こんな本は、そうそう読めるものではないと思う。

最近ビジネスの世界でも耳にするのがクレージー(crazy)という言葉で、辞書には「気が狂った」とあるけれど、それは「困ったこと」だけではなく「常識を超えた」というニュアンスでも使われる。

そして、西洋思想史でも「創造と狂気」を結びつける考え方はあり、本書ではプラトン・アリストテレスから、デカルト・カントを経て、ヘルダーリンを転回点としてハイデガー、ラカンそしてドゥルーズへと歴史を追っていく。

いままでも病跡学という研究はあり、そうした学問上の名は知らなくても、いわゆる天才たちの「病」を論じたような話は聞いたことも多いだろう。昨年楽しんだ『ゴッホの耳』などでは、彼の病についての議論も書かれている。ただし、本書はそうした研究をさらに一段高い視点で分析している。

そこでまずハッとさせられるのが「統合失調症中心主義」という言葉だ。 >> 【夏休み書評】『創造と狂気の歴史』の衝撃と納得感。の続きを読む



特に大きなニュースもない日曜の午後に、こんなニュースの見出しがあってついつい読んでみた。

「メルセデス」と呼んで、のワケ 音声認識もしない「ベンツ」呼称は変わるのか?

ああ、まだこのことでいろいろと悩んでいたのか、と思った。

「まだ」というのは訳があって、これは販売者にとっては昔からの問題だからだ。

そして、昔々、元号が昭和といっていた頃ベンツは「ベンツ」だった。そこには、ちょっとした羨望とそれなりの畏怖、さらには畏怖どころか若干の恐怖要素もあり、それでも「最善か無か」と、クルマの頂点に立っていた。

その頃はヤナセという商社が一手に扱っていたのだが、ちょうど平成という時代になる頃に本社が直接日本市場の攻略に乗り出し、新たなマーケティング施策をおこなう。

そして、「メルセデスの嘘」というキャッチコピーでキャンペーンを行ったりした。

いま、こんなフレーズで広告をやったら「排ガス不正かよ」とツッコまれそうだけど、これは「メルセデス・ベンツに対する先入観を取っ払ってほしい、という思いで書かれた。

つまり、企業が嘘をついているのではなく、世間の情報は真実ですか?という話なんだけど、このタグラインはもちろん「ベンツ」ではなく「メルセデス」だ。

というわけで、「メルセデスと呼んで欲しい」というのは、平成時代の悲願だったと思うのだけど、この記事は読むとまだまだ浸透していないのかもしれない。

もっとも、自動車雑誌などではそうした意向を先取りしたか忖度したのか、「メルセデス」と書き、一部の評論家は「メルツェデス」とかわざわざおっしゃられるという微笑ましい時代もあったが、気がついてみると、世間ではまだまだベンツなんだなあ、と先の記事を読んでしみじみ思った。

でも、メルセデスと呼んでもらえるんだろうか?というとちょっと難しいかもしれないと思う。 >> 「メルセデスと呼んでほしい」が、大変そうだなあと思う理由。の続きを読む