紙の新聞をやめて、電子版のみになって相当経つ。紙面よりオリジナルの記事や情報がある上に、検索・保存もどんどん使いやすいので、紙の理由がない。ひとつ困ったのは猫のトイレ掃除だけど、幸い集合住宅なので譲ってもらいどうにかなった。その頃調べて驚いたのは、「新聞紙」をアマゾンで売っていることだ。

このレビューが傑作で、「製品の価値は使用者が決する」というマーケティングの小噺に最高かもしれない。猫や犬はもちろん、使い道はいろいろあるのだ。最近だと、印刷前の白紙のものも売っている。

というわけで、掃除の時などに紙の新聞を見ていて感じるのだけれど、なんかものすごく情報密度が薄い。何でかな、と思うと本文の文字は大きく、見出しはさらに大きい。ただ、その分中身は薄い。

大きな事件のあとにコンビニなどで新聞をちらりと見ると、「こんな派手な見出しになっているのか」と驚く。一般紙の見出しはドンドン大げさになっている。

そして、紙を見ないものにとって、この見出しがなんだか馴染めない。だって、事実を伝えるのにあんなでかい文字は必要なのか?

そして、普段紙の新聞を見ないと、あの見出しが暴力的に感じられるんじゃないだろうか。自分の実感でも、コンビニの新聞棚がなんか不気味に見えてくるのだ。オリンピックや米朝会談の翌日など、「ウワ、なにが起きたんだ」という感じで、むしろ引いてしまう。

ちょっと妙な仮定になるけど、もしテレビが「大ニュースの時は大声になる」としたらどうだろうか?それは、変だと思うだろう。まさに暴力的だ。速報を出したり、L字にしたり、あるいは通常番組やCMを飛ばしたり、「大ニュース」の伝え方はいろいろだ。

ただ、紙の新聞は「文字と写真を大きくする」ことで表現している。

ニュースをインターネット、特にスマートフォンで見ている若い世代の人は、このような「大きな文字で重要性を表す」ということにそもそも馴染みがない。というか、僕のように、かつて紙の新聞を読んでいたものでさえ違和感があるのだから、全世代で見てもそうなっていくんじゃないか。

で、普段読まない者が紙の新聞を読むと、あの見出しなどは編集が勝手に騒いでいるように見えてくる。

「ほら、これを食え!」と言われてる感じで、そういうのを喜ぶ人はいないんじゃないか。

新聞の部数が減るのと反比例するように、紙の見出しは巨大化する。それって、客の減った店が大声で呼び込みしているようなもので、客は引くのが当たり前だ。

「取材/報道」という機能と組織はこれからも必要だと思うが、提供の手段としての紙の新聞は、そういった「表現形態」としても復権はしないだろう。

なんか、ふと寿司屋を連想した。ネットのニュースはいかにも回転寿司的だ。ただ、回転寿司が増えても、高級店はまたしっかりと存在するように「質の高いニュース」にカネを払う人はいるはずだ。

でも、あの「でかい見出し」では、それも難しいだろう。新聞の未来は、そうした当たり前を見直すことから始まるんじゃないだろうか。

 



多くの著名人が大病を告白し、そのプロセスを語ることも多くなった。難しいこともあるだろうけれども、意味はあると思う。

病は、孤独だ。本人はもちろん、家族にとってもそうだ。見知らぬ人のできごとでも、「そういう人がいるんだ」という事実は、力になる。それは実感としても経験がある。

そして、棋士の先崎学九段が書いた『うつ病九段』は、そうした数ある「闘病記」の中でも、とてもとても価値がある本だと感じた。

自らの経験を「客観的に記述する」ことはそもそも難しく、病であればなおさらだし、うつ病であれば想像もつかない壁があるだろう。

だから、ここには彼の経験のすべてがあると期待したわけではない。それでも、発病から快復に至る過程には静かな感動がある。

それは決して劇的なストーリーではない。ミサのような静かな宗教曲を、ジーッと聞いてるうちに、気づいたら曇り空に陽が射していた――そんな感覚になる一冊だ。

よく言われるが、うつ病になる可能性は誰にでもある。しかし、自分の中にもまだまだ大きな誤解があったんだなと思った。

うつ病は「だいたいいまだに心の病気といわれている。うつ病は完全に脳の病気なのに」と語られる。この話は、終盤になって精神科医である、実兄の言葉だ。 >> 『うつ病九段』は、すべての人に希望を届けてくれる。の続きを読む



もう1ヶ月以上も前だが、上野で行われていた藤田嗣治の展覧会に行った。

まだそれほど混んでいることもなく、ゆっくり見ることができた。年譜を追うようにした構成であり、彼の作品を見るということ以上に、彼の人生を追うような感覚になる。

一人の、それも波乱に満ちた芸術家の生涯は興味深いものがあるけれど、では、作品を見て心が動かされるかというと、それはまた別の問題だなあ、と改めて思ったりもした。

藤田嗣治の作風は、生涯を通じて大きく変化する。それは、多くの芸術家に見られることだろう。

でも、じわじわと滲むようにして変化する人もいるし、天啓を得たかのように転換点の作品を描く人もいある。そして藤田の場合は、ある時期にクルッと舞台が回るように、別の顔が出てくる。その舞台回転は何度も起きる。

藝大では黒田清輝門下らしい光を見せるし、パリへ渡ればキュビズムを難なく模し、モディリアーニをなぞる。あの乳白色はたしかに「発明」だと思うけれど、その後南米では、全く異なる光を描き、そして戦争画へと続く。

しかし、僕の心の中で、何らかの共感のようなものは湧いてこない。

もっとも、普通の人が偉大な芸術家に共感できるわけない、という考え方もあるだろう。

でも、僕はちょっと違うと思うのだ。 >> 「出来過ぎる画家」藤田嗣治を見て、『ゴッホの耳』を思い出す。の続きを読む



ネットのニュースで、ハズキルーペのCMの話が書かれていて、近々新タレントを起用するという。それも武井咲が高級クラブのママに扮するというのだから、オンエア前から突っ込みたくもなるけど、だとすればもう十分に狙いは当たっているんだろう。

で、渡辺謙と菊川怜のあのCMも見られなくなるかもしれない。じゃあ、その前にあのCMのすごさについて書いておこうと思う。

ハズキルーペのCMは前からいろいろあったようだけど、渡辺謙と菊川怜のインパクトは相当強い。そして、検索すれば「嫌い」という声が溢れている。

しかし、相応の効果があったという話は人伝に耳に入ってくるし、売上へはしっかり貢献しているんだろう。そうじゃなきゃ、次のCMは投入しないだろうし。

個人的には、あのCMは「すごい」と思う。毎日録画しているニュースの提供なので、初めて見た時は思わず巻き戻してチェックした。

渡辺謙の怒鳴り声とか、菊川怜の媚びたような視線も、あれを「好き」という感じにはなれないけれど、広告の仕事をしている人なら「あ、やられた」と思ったんじゃないか。

だって、結局「これかければ大きく見える」という認知はしっかりとれるわけで、ただのうるさい連呼CMとは違う。一方で、渡辺謙が読むシーンの本は「マクベス」の英語台本だったりして、裏地までちゃんと気を使っている。

で、「この感覚ってなんなんだろ?」と気になっていたんだけど、ふと分かった。

これは、いわゆる「生コマ」の世界に近いんじゃないか?朝のワイドショーなどの合間に、トイレタリーメーカなどがスタジオで実演している「生コマーシャル」の方法論なのだ。

ハズキルーペのCMも60秒で、15秒中心のTVCMの中で異彩を放っている。時間をしっかり活かして、2人のタレントに生コマ的をさせている感じだけど、その特徴はなにかというと

  • プレゼンテーションよりデモンストレーション

いわゆる「実演販売」もそうだけど、「これでもか!」と見せつけることが大切で、「なぜか?」というような話はそれほど必要ない。

  •  振る舞いがわざとらしい

この「わざとらしい」と言うのは、誉め言葉だ。達者な板前が実演販売をしても人は集まらないだろう。生コマでも「これは広告だ」とわかってもらうためには、わざとらしさは必須となる

  •  知的であろうとしない

生コマというのは、「わかりやすさ」が身上だ。逆に言うと「自分は知的である」と思っている人から嫌われるくらいがちょうどいいのだ。

こう考えると、ハズキルーペは広告として堂々としている。そして、この「生コマ的感覚」はweb上でもジワジワと広がっている。長尺が可能なネットメディアとも相性がいいのだろう。

そうなると、近年目につくような、「広告であることを隠したい」という流れにも疑問が出てくる。「広告は嫌われる/信用されない」という前提でいろんな技法が生み出されて、その結果怪しげな情報も増えて、いろいろな基準作りなども進んだ。

PRなどを含めて、ストレートな広告ではない方が効果を生むこともあるだろう。

でも、「これは広告である」という、送り手と受け手のフレームの共有のもとに、グイグイとベネフィットを押していっても、成果が出ることだってあるわけで、だとすればこうした「生コマ的方法」は、メディアを超えて見直されて行ってもいいんじゃないかと思っている。

 



なんか、JR東日本で大変な苦労をした。いや、電車で不快とか駅で困ったとかいうわけではない。まあ、あれだけの客を捌いているのだから、十分に頑張っていると思うくらいなんだけど。

で、苦労したのはネットの話である。晩秋に遠出をするので、久々にSuicaやらのポイントを使おうと思ってサイトを見たら、JREポイントへ移行しなさいと言う。ああ、そんなこと言ってたなと思い、手続きをしたのだけれど、これが大迷路なのだ。

そもそも、JREポイントに登録する時に「JREポイント番号」を要求される。どこにあるんだ?と思うと、僕のビューカードの請求書にあるという。でも紙の請求書はないので、VIEW’S NETを見ろと言うので、そこで請求を見ると書いてない。

紙に似てるけど、そこにはない。しかもサイトのどこにあるのかを教えてくれないのでウロウロ探す。それで、どうにかなったと思ったけど、まだやることはあった。

まず「えきねっと」のポイント移行もまだだと言われる。つまり、予約サイトは別のポイントだったのだけれど、これを移行しようとしたら今度は「ポイント交換番号(10桁)」が必要だと言われる。

この番号は、さっきの「ポイント番号(12桁)」とは違うのだけれど、これをまたJREのサイトで探すのだけれど、なかなか見つからない。

変だな?と思ったらそもそも僕のSuicaがまだ登録されていなかったのだ。 >> JR東日本のJREポイントなどが、温泉旅館の大迷路だった。の続きを読む