想像以上、と言っては失礼だと思うけど、惹句にある「おちこぼれ兵士たちの活躍を描く痛快歴史エンターテイメント」というイメージとはちょっと異なる。松本清張賞受賞作だから、これがデビュー作ということになるんだろうけど、軽いようで深いと思うのだ。

たしかに、トーンは重くない。主人公は大阪の与力の跡取りだが、明治になってからは道修町の薬問屋で丁稚奉公をしている17歳。

軍歴がないのに、士族の血が騒ぎ西南の役に官軍の兵として加わる。当時、かつて賊軍と言われた藩の元士族が官軍として戦った話は知っていたが、この小説は一味違う。

この主人公は若くして、分隊長を任せられるのだけど、後の3人は年上の曲者ぞろい。ところが、このチームが小気味よく動き出し、キャラクターがイキイキとしてくるあたりがすごくうまい。

で、どこかに既視感があるなと思ったんだけど、これって「ドラゴンクエスト」とかの、ロールプレイングゲームのチームなんだな。主人公は勇者。ガタイのいい武闘家がいて、商人もいる。料理人というのはゲームでは見ない気もするけど、どちらかというと僧侶的な役だろうか。

成長譚ともいえるんだけど、どちらかというと敵キャラを倒してレベルアップしていく感じだろうか。そして、“ぱふぱふ”もちゃんとあるのだ。 >> 軽くて深い『へぼ侍』はRPGなテンポ感。【書評】の続きを読む



すごく簡単に書いちゃうと、「ロシア革命後にモスクワのホテルに軟禁された伯爵が、何十年もそこで過ごす間の、さまざまな人間模様を描いた作品」ということになって、全然面白そうではない。

ところが実際に読んでみると、これが素晴らしい作品なのだ。派手さはなく淡々と進む滋味あふれる作品、という感じでもあるのだけれど、時代を追うにつれて、限られた空間の中で起きるドラマは予想を遥かに超えてダイナミックに動いていく。

もちろんフィクションではあるけれど、時代背景は当然反映されている。伯爵が軟禁されたのも革命という現実からの出来事とされるわけで、その後もスターリンからフルシチョフに至る権力交代がストーリーにも投影される。

そして、この小説では味と音楽が、とても大切な役割を果たす。レストランなどでの食事の描写はワクワクするけれど、もちろん料理の説明が達者だというだけではない。「食べる時間の愉しみ」が、これほど素敵な小説は早々ないだろう。

音楽については、「あ、これは作者がクラシック好きなんだろうな」と思う描写だけじゃなくて、やがてはストーリーを大きく揺るがしていく。これについては、読んでのお楽しみだろう。

というわけで、何だか紹介が難しい小説なんだけれど、米国では大評判の一作で映像化も予定されているようだ。

ちなみに、ミステリー好きな人には特に強く薦めたい。もちろん「ミステリー」に分類される話ではないんだけれど、巧緻な伏線とその糸の織りなしの見事さは、ある意味ミステリー小説的な技巧であるし、「オオ!」と唸らせる要因にもなっている。

さらに、装丁も素晴らしい。小説は基本的にはkindleで読むんだけれど、これは本として手元においておきたい。そんな気分にさせてくれる小説も久しぶりである。

あと、登場回数は少ないけれど、あの可愛い動物も出てくるので、あの動物が好きな人にもたまらないだろう。これは、書影をよく見ればすぐわかるはずだ。

読むだけで、幸せになれる。小説ってそういうものだよな、と読んだ人なら実感できるはずである。

 



哲学の歴史は、理性の歴史である。と、知ったかぶりようなことをいきなり書いちゃったけど、素人的には「まあ、そういうものなのか」と感じるのが普通かもしれない。

ところが、ちょっと考えると哲学者や思想家と言われる人は、「ギリギリのところ」で何かを考え続けていたのではないか?という感覚はどこかにある。作家でも、ドストエフスキーなどは、その「ギリギリ感」がもっとも強烈かもしれない。

本書はそのギリギリ感を「創造と狂気」という視点で編みなおした一冊なのだけど、本当に驚きの連続だった。こんな本は、そうそう読めるものではないと思う。

最近ビジネスの世界でも耳にするのがクレージー(crazy)という言葉で、辞書には「気が狂った」とあるけれど、それは「困ったこと」だけではなく「常識を超えた」というニュアンスでも使われる。

そして、西洋思想史でも「創造と狂気」を結びつける考え方はあり、本書ではプラトン・アリストテレスから、デカルト・カントを経て、ヘルダーリンを転回点としてハイデガー、ラカンそしてドゥルーズへと歴史を追っていく。

いままでも病跡学という研究はあり、そうした学問上の名は知らなくても、いわゆる天才たちの「病」を論じたような話は聞いたことも多いだろう。昨年楽しんだ『ゴッホの耳』などでは、彼の病についての議論も書かれている。ただし、本書はそうした研究をさらに一段高い視点で分析している。

そこでまずハッとさせられるのが「統合失調症中心主義」という言葉だ。 >> 【夏休み書評】『創造と狂気の歴史』の衝撃と納得感。の続きを読む



特に大きなニュースもない日曜の午後に、こんなニュースの見出しがあってついつい読んでみた。

「メルセデス」と呼んで、のワケ 音声認識もしない「ベンツ」呼称は変わるのか?

ああ、まだこのことでいろいろと悩んでいたのか、と思った。

「まだ」というのは訳があって、これは販売者にとっては昔からの問題だからだ。

そして、昔々、元号が昭和といっていた頃ベンツは「ベンツ」だった。そこには、ちょっとした羨望とそれなりの畏怖、さらには畏怖どころか若干の恐怖要素もあり、それでも「最善か無か」と、クルマの頂点に立っていた。

その頃はヤナセという商社が一手に扱っていたのだが、ちょうど平成という時代になる頃に本社が直接日本市場の攻略に乗り出し、新たなマーケティング施策をおこなう。

そして、「メルセデスの嘘」というキャッチコピーでキャンペーンを行ったりした。

いま、こんなフレーズで広告をやったら「排ガス不正かよ」とツッコまれそうだけど、これは「メルセデス・ベンツに対する先入観を取っ払ってほしい、という思いで書かれた。

つまり、企業が嘘をついているのではなく、世間の情報は真実ですか?という話なんだけど、このタグラインはもちろん「ベンツ」ではなく「メルセデス」だ。

というわけで、「メルセデスと呼んで欲しい」というのは、平成時代の悲願だったと思うのだけど、この記事は読むとまだまだ浸透していないのかもしれない。

もっとも、自動車雑誌などではそうした意向を先取りしたか忖度したのか、「メルセデス」と書き、一部の評論家は「メルツェデス」とかわざわざおっしゃられるという微笑ましい時代もあったが、気がついてみると、世間ではまだまだベンツなんだなあ、と先の記事を読んでしみじみ思った。

でも、メルセデスと呼んでもらえるんだろうか?というとちょっと難しいかもしれないと思う。 >> 「メルセデスと呼んでほしい」が、大変そうだなあと思う理由。の続きを読む



(2019年6月30日)

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トリトン晴れた海のオーケストラ 第6回演奏会ベートーヴェン・チクルスⅢ   
2019年6月29日(土) 14:00 第一生命ホール

ベートーヴェン:交響曲 第4番 変ロ長調 Op.60/交響曲 第7番 イ長調 Op.92

世界中にいろいろなオーケストラがあって、それをランキングすることに意味はないと思うけれど、それでも自分に「これだけはいま聴いておきたい」というオケはあるわけで、この「晴れた海のオーケストラ」もその1つだ。

敢えて言えば、いま日本で1番イキイキしていて、スリリングで、しかも最高に考え抜いた上で演奏しているオーケストラだと思う。だから、ランキングに意味はないと言いつつ、「日本一!」と言いたくなってしまう。

都響の矢部達哉氏をリーダーとしたオーケストラで、指揮者はいない。しかし、「指揮者がいない」こと自体からとは思わない。このオケが素晴らしいのは、演奏後に「あ、ベートヴェンってすごい!」と、心から思えることなのだ。

そして、しばらくすると「20人の弦楽器でここまで鳴るのか」とか、「こんなにもいろんな声部がクッキリ聴こえるのか」といろいろ感心するのだが、やはりそれも「曲がすごいんだ」というところに一周して戻ってくる。

考えてみると、クラシックのコンサートを聴いた後の感想というのは、殆どが「演奏家に対する賛辞(時に恨み言)」だと思う。それは、昔ながらの新聞評もそうだし、終演後のTwitterだって、同じような感じだ。

僕もコンサートを選ぶときは、まず出演者を気にする。誰が来日するとか、誰かと誰かが共演するとか。

でも、音楽を聴き始めた頃は違った気がする。まず、聴いてみたい曲を追っていたはずだ。もちろんそういうニーズはいまだってあるから「名曲コンサート」が存在する。ところが、経験を重ねるほど、「曲を聴く」よりも「演奏家を聴く」ようになってしまっているんじゃないか。

どっちがいいとか悪いとかではないんだけれど、「晴れオケ」を聴くと、演奏家はとても澄んだ存在で、それはこそ晴れた海のように透明で、その奥から曲が姿を現してくる。

そういう感覚になることができるコンサートってとても貴重だと思うし、しかしそれが「再現する」ことの本質なんだと思う。

ちなみに、7番は1楽章から2楽章、3楽章からフィナーレがそれぞれアタッカで演奏された。つまり、大きく二部構成のように聴こえるのだけれど、そう思うと2楽章がたっぷりと歌われたことも納得できる。

ベートーヴェンは、あと2回を残すのみ。このオケは東京の宝だと思う。