さてさて、3月になった。

リストを見てみると、そうだそうだ奥泉光『雪の階』(中央公論新社)ではないか。これは、そうとうやられたなあ。昭和初期を舞台にした長編だけれど、ミステリーというには収まりきらないスケールで、歴史小説というにはファンタジックだ。1年を振り返っても、フィクションでは一番響いたかな。詳しくはすでに、こちらのブログに書いてある。

ノンフィクションではヴィンセント・ディ・マイオ『死体は嘘をつかない』(東京創元社)がよかった。筆者は親子2代にわたる検死医で、多くの犯罪に立ち会い、裁判にもかかわったきた。単なる「犯罪小説の裏側」にとどまらずに、事件を通じて米国社会の構造が浮かび上がって来る。検死に関わる話は小説にも多く、「またかな」という気もしたけれど、この辺りの複層的な厚さが類書とは全く違った。

佐藤賢一『遺訓』(新潮社)は、西郷隆盛を描いているのだけれど、主人公は沖田総司の甥であり、カギを握るのは庄内藩に連なる人々。佐藤賢一ならではのスケール感があり、なんか「日本の歴史専門です」みたいな小説家は、ちょっとつらいんじゃないかな、と余計な心配をしてしまう。

鶴ケ谷真一『書を読んで羊を失う』(平凡社)と、『猫の目に時間を読む』(白水社)は、どちらも新刊ではないけれど、どちらも珠玉の文芸エッセイ。こんな達者な人を知らなかったとは、迂闊だったなあ。このタイトルが気になったら、ぜひ読んでほしい。たとえばシンデレラの物語のルーツを辿って、中国の方までいろいろと探っていく話とか本当におもしろい。

宮内悠介『ディレイ・エフェクト』(文藝春秋)は、前回の直木賞に続いて、今回は芥川賞候補作を所収。ただ、正直ちょっと厳しいかなという印象だった。『あとは野となれ大和撫子』はたのしかったけどなあ。

伊兼源太郎『地検のS』(講談社)は、地味だけどうまい連作ミステリー。地検といっても特捜部ではなく、フツーの検察のちょっとフツーではない話だ。

何となく調べ物ついでに買って面白かったのは 2012年の本だけど菊地浩之『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)だ。「ケンミンSHOW」の財界版というか、「あ、あの会社が」みたいな驚きもあり、日本の近代史の縮図にもなっているのが楽しい。

ビジネス書は読書というより調べ物という感じなのであまり紹介はしないけ

れど、ジェフリー・ムーア『ゾーンマネジメント』(日経BP社)は、普通の会社にとっての基本的なマネジメント再生に効果的なのではないか。GAFAやBATの事例ばかりでお腹いっぱいになっているビジネスパーソンにはお薦めだ。

そして、少し前からダラダラと他の本の合間に読んでいたトルストイ『アンナ・カレーニナ』(光文社古典新訳文庫)を、やっと読了。トルストイの中では読みやすいと思ってたけど、読み始めるとやっぱり手強い。でも、やっぱり新訳はいいと思う。

この小説、何度も映画化されているように、ストーリー構造はわかりやすい。そして何より、「登場人物が、みんなどこかダメ」というのがこの小説の魅力だろう。家柄もよく社会的地位の高い人が集まって、ダメなドラマを繰り広げる。そこに、この小説の普遍性があるのかもしれない。

 

 



というわけで、本日は今年2月に読んだ本から。

振り返ってみると、最も印象的なのはヒュー・マクドナルド『巡り逢う才能』(春秋社)だった。1853年という1年の間に欧州で起きた音楽家たちの劇的な邂逅を描いた一冊だ。若いブラームスに、悩めるシューマン、胸を張るワーグナー。この本については、こちらのブログでも書いている。ただ、クラシック音楽に関心がないとととっつきにくいだろう。

で、意表を突かれて面白かったのが、ダン・アッカーマン『テトリス・エフェクト』(白揚社)だ。あの有名なゲームは、1984年に旧ソ連で生まれた。このタイミングが絶妙で、やがて来るペレストロイカやらなにやらの嵐の中で、世界規模のライセンス争奪戦になる。

冷戦時代のスパイ小説、というより下手なフィクションより全然面白い。

門井直喜『銀河鉄道の父』(講談社)は直木賞受賞作品で、高評価に付け加えることもない。ただ近年のこうした賞はどこか「功労賞」みたいなこともあるけれど、この受賞はまさに作品に対してもものだろう。同じ作者の『家康、江戸を建てる』(祥伝社文庫)も、お薦め。

長谷川晶一『幸運な男――伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』(インプレス)は、「ノンフィクション読後感大賞」とかあったらトップ争いをするんじゃないだろうか。スワローズファンはもちろんだけど、野球に関心のある人なら何かが響くはずだ。タイトルが素敵で、内容が裏切らない。

廣瀬匠『天文の世界史』は、予想外と言っては失礼だけれど、宇宙を通じて文化と科学の歴史を解き明かす一冊。科学者が書いた宇宙のホントは一味違って、占星術の伝播や宇宙をめぐる哲学まで縦横無尽。文系が読んでも理系が読んでも「ああ、そうなのか」となれる稀有な本だけど、新書でとっつきやすいのもありがたい。

佐光紀子『「家事のし過ぎ」が日本を滅ぼす』は鋭い指摘もあるんだけど、ロジックが時に甘かったり、タイトルの雰囲気で損をしている感じがする。

霧島兵庫『信長を生んだ男』(新潮社)は、弟の信行に焦点を当てた作品。山ほどある信長ものの中で異彩を放っていていた。

アビゲイル・タッカー『ネコはこうして地球を征服した』(インターシフト)は、既にネコに征服されている方々には強くお勧めする。これからも納得づくで被征服者としての人生を歩んでほしい。

服部龍二『佐藤栄作』(朝日選書)は、既に多くの証言なども出てきた現在となっては、あまり新しい発見は感じられない気もしたけれど、包括的な評伝はたしかに初めてかもしれない。

ただ、この時代を知りたいなら、2017年に出版された山崎正和『舞台をまわす、舞台がまわる 』(中央公論新社)に尽きるのではないだろうか。

で、この月に読んで「なんでこれ読んでいなかっんだ!」と驚いたのが、歌野晶午『ずっとあなたが好きでした』(文春文庫)だ。この作者は好きなんだけど、2014年の初版を見逃してたようで、昨年末に文庫化されていた。とにかく、ずんずんと読み進めて、この大仕掛けに唸ってほしい。相当精緻な仕掛けなので、もうあまり書かないし、邪推はなしに読めばいいと思う。

ネットのレビューにはいろいろ書いてあるけど、多くは同業者の嫉妬じゃないかと思うほどだよ。

 

 



12月になると「今年の○○」が特集される。いろいろ見ているうちに、ふと「自分の読んだ本」を振り返ってみようかと思った。すべてとなると大変なので、抜粋になるし今年以外も混じりそうだけど。

新刊を中心にするつもりだが、古典も読むのでその辺りは寄せ鍋みたいなものになるかもしれないけれど、まずは1月から。

例年のことなんだけれど、12月になると「今年のミステリー」などが出てきて「ああ、これ読んでないや」ということで年末年始は謎解き三昧になる。今年もそんな感じだったし、正月を1人で過ごすという初めての体験もあって、いろいろ読んだ。

で、今年のベストなども既に出ている中でいまさら感はあるんだけど、日本人作品だと今村昌弘『屍人荘の殺人』(東京創元社)が各ランキングのトップで、海外だと陳浩基『13・67』(文藝春秋)と、ウィングフィールド『フロスト始末』(東京創元社)が高評価だった。

どれも十分に面白かったけれど、個人的には『13・67』がミステリーの精緻さと、独特の空気感でとても好きだ。あまりに良かったので、4月には香港旅行に行ってしまったくらいだ。

『屍人荘』は、まあタイトル通りにSF的な仕掛けに見えるけれど、構成としては「あり得る話」として成立させている。今年は「カメラを止めるな!」もあり、あの手の話はやはり構成次第では相当面白いものができるわけだ。

フロストの最終作は、実は10年ほど前の作品だが未訳だったものだ。ファンにとっては惜別の気持ちはあるけれど、いろいろな意味で「予想の範囲内」という感じかな。

ノンフィクションでは、板谷敏彦『日本人のための第一次世界大戦史』(毎日新聞出版)が、興味深いアプローチだった。著者はエコノミストだった方なので、経済面からのアプローチが明晰だ。一次大戦は日本人には今一つなじみが薄いところもあるが、2016年に出た飯倉章『第一次世界大戦史―諷刺画とともに見る指導者たち』(中公新書)がなどと併せ読むのもいいかもしれない。

ただし、『夢遊病者たち』(みすず書房)は、相当先の課題になりそうだけど。

歴史小説では、有名武将の初陣を描いた宮本昌孝『武者始め』(祥伝社)や、幕末の相撲というユニークな切り口の木村忠啓『ぼくせん』(朝日新聞出版)あたりが印象的だった。

クラシック音楽に関わる書き手で、読むたびに唸ってしまう岡田暁生『クラシック音楽とは何か』(小学館)はビギナー向きのようでいて、深い。

島田雅彦『深読み日本文学』(集英社インターナショナル)は、深読みというより妥当な読み解きで、いい意味で「浅い」と思うわけで、古典を再読したい人にはお勧めできる。

というように振り返ると『13・67』は今でも印象が強いんだけど、実は読んでいて誤植を見つけた。書店には二刷もあったけど、直ってないので文藝春秋にメールしたら、ていねいに返事が来た。文春ほどの会社でもこんな誤植があるのかと驚いたけど、初版では読んだ人も気づかないんだなと驚いた。

だって、結構重要な登場人物の苗字だったのに!

さて、こんな感じで12ヶ月分も書けるんだろうか。

【追記】調べていたら、今村昌弘氏の新刊は『魔眼の匣の殺人 』ということで来年2月に東京創元社から出るようだ。既に予約をしているようだが、どうやら次作も「あの世界」らしいよ。

 



とある人気歌手がテレビに出て作詞術を語った時に、周りの人にいろいろ尋ねながら書いていくという話をしたそうな。そうしたら、例によって「ネット上では賛否」とかなっていたらしい。

しかし、なんかSNSとかの反応まとめて「賛否」って見出しつけるのもどうなんだ、と何度も思いつつ今回の件は気になってしまった。

というのも、批判する人は「マーケティングで歌作るなんて」と言いたいらしいけど、いや芸術ってそういうところあると思うわけで。

以前大学でキャリア論を教えていたんだけど、まあだいたいは「やりたい仕事をするべきか」みたいなテーマが出てくる。で、僕は「いや、誰だってまず“できること”“売れること”をして生活のこと考えるんじゃないか?」ということを言っていた。

その時に話したのが、モーツァルトの話で、31番目の交響曲だ。

通称「パリ」と呼ばれるんだけど、名前の通りパリで演奏された。で、モーツァルトはどうしたかというと、思いっきりパリで受けるような技巧を散りばめた。

そして、受けた。手紙にもその辺りをことを書いている。こうした事情については、たとえばこちらのページなどが詳しいだろう。

まあ、モーツァルトもマーケティングしていたと言っていいんじゃないか。 >> モーツァルトだってマーケティングしてたんじゃないか?という話。の続きを読む



バイエルン放送交響楽団 日本公演

指揮:ズービン・メータ

2018年11月22日 19:00 東京芸術劇場 大ホール

モーツアルト:交響曲第41番ハ長調「ジュピター」/マーラー: 交響曲第1番ニ長調「巨人」

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コンサートの前に、その曲の録音を聴くことは少ないんだけど、ふと思い立って前夜に「巨人」のフィナーレを聴いてみた。82歳になるメータは、この曲をどのように演じるんだろうかと何か気になったのだ。

で、スピーカーから第二主題が流れてきた時、「あ、ここかな」と思った。若き日のマーラーが書いたこの曲を、いま演じるとしたらここがある種の山場なんじゃないか。

そして、その直感は当たったと思う。あの豊かな響きはいまでも蘇ってくる。

それにしても、緊張感があって、優しく、そして力強い演奏だった。しかし、この夜の演奏会は危うい要素に満ちていたのだ。

まず、公演までひと月を切った10月下旬に、ヤンソンスが健康上の理由でキャンセル。そして、メータが代役として発表される。サントリーホールの2公演は同じプログラムとなったが、この日はマーラーの7番が予定されていたため払い戻し対象にもなっていたのだ。

一瞬迷ったのだけれど、メータの「巨人」を若い頃から得意としてきたし、僕も好きなのでこの夜を楽しみに待っていた。

しかし、会場について指揮台を見ると様子が違う。椅子が置かれているのはともかく、コンサートマスターの方にスロープをつけてある。さらには、足元には慌ててこさえたフットレストのようなものも見えた。

詳細は知らないがメータもまた患っていたとは聞いていた。今年5月のイスラエル・フィルの来日が中止になっているのだ。

オーケストラが待ち、しばらくすると上手の客が拍手を始める。だが、すぐにメータの姿は見えない。杖をつきながら、介添人に支えられながらのゆったりとした登場である。

しかし、一度振り下ろしたタクトは明晰だ。モーツアルトではオーケストラも緊張したのか、しばしば縦が合わないこともあったけれど、マーラーが始まると、もうそこは別世界のようにキラキラしている。

しかし、「巨人」というのは中二病の塊のような音楽だ。最近でも、ネゼ=セガンやネルソンス、あるいはルイージなどで聴いたが、指揮者としてはアクションを見せる格好の舞台だ。この後も、ハーディングやドゥダメルと続くようだけど、まだ青春の残照を感じさせるような「若手」が振るイメージがある。

少々の傷がある演奏でも、「ホルンが立つなら七難隠す」という感じで、アマチュアを含めて一定率の感動が得られる。

しかし、音楽ってそういうことじゃないんだなあとしみじみ感じる。この夜のメータは、マーラーとオーケストラと客を結ぶ三角形の真ん中にいて、憑依したかのように音楽を呼び起こしていた。

いままで聴いた巨人とは異質の体験だった。

自らの動きは少ないが、あの席に彼がいて、どこからかマーラーの気持ちを2018年の東京に連れてきたようだ。それが本来の演奏家の仕事と理解してはいるものの、舞台の上で透徹した存在になることはとても難しく、そういう場に巡り合うことは稀だ。

とても貴重で幸せな時間だった。オーケストラが退いたあと、車椅子に乗って舞台に戻った彼に対して、みなそうした感謝をつたえたかったのではないか。