今年のノーベル賞は個人的に、ちょっと嬉しい。

それは、早川書房が潤うのではないかという期待からだ。カズオ・イシグロが好きであるとかそういうわけではない。ミステリ好きとして、早川が潤うのはありがたいのだ。

既に相当の話題になった文学賞だが、ふと気がつくと翌朝には「日本生まれで3人目の受賞」という見出しのメディアもあった。なんだ、これは。琴奨菊が優勝した時もそんなことがあったと思うんだけど、よく覚えてない。

まあそれはともかく、カズオ・イシグロ氏の作品はことごとく早川だ。そりゃ売れるだろう。

で、そういえば最近、早川はビジネスでもいい本を出しているんだよな、という話をしていたら、ノーベル経済学賞はリチャード・セイラー氏に決まる。『行動経済学の逆襲』も早川だ。心理学者でノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カールマンの『ファスト&スロー』はマーケティングを生業とする者にとっては必読書のようになっているけど、こちらおなじく早川書房で文庫になっている。

そして、僕は気づいてなかったのだけれど、『重力波は歌う』という本も物理学賞の受賞者に取材した本だという。

早川の主力は、翻訳物のミステリとSFだ。東京創元社と並んで、好きな人にとってはとてもありがたい出版社である。

しかし、小説を取り巻く状況は厳しい。人口構成を見ても、もはや「日本語市場」が成立するか?というとこれはどんどん難しくなるだろう。日本人が日本語の訳で、世界中の本をそれなりに読めていたのは「人口ボーナス」があったからだ。
日本語は日本人以外は殆ど使わないので、どう考えても今後は大変だ。というか、既に海外で話題になった本の訳が、結構遅くなるケースが出ている。これは、文学でもビジネスでも学術でも、ジワジワと来ているのだ。 >> やっぱり『謎解き』とくれば早川書房なのだ。の続きを読む



昨日、クルマの定期点検をしてタイヤを交換した。

この夏に結構走り回ったせいか、一気に傷んでいたようで、信じられないほどの快適さだ。新車を買ったり試乗して「いいな!」と感じる心理のほとんどが、実は「新しいタイヤ」が理由なんじゃないだろうかと思ったほどだ。

そのまま青山の銕仙会で能を見て、さて帰ろうと思ったが、時計を見ると21時前だ。久しぶりに走ってみようかと思い、高樹町から首都高速に乗ってC1からレインボーブリッジを抜けて湾岸からC2、江北からS1に抜けて1時間弱。

マーラーの7番「夜の歌」を聴きながら走ったんだけど、最近はこういうことやってなかったな。数年前までは、夜に思い立って首都高をグルグル走っていたのだ。

1人になって気分を切り替えるのにちょうどいいし、仕事のことを考えたりして適度に疲れるので、なんか寝つきもいい。

そういえば、学生の頃には「煽られるようなクラシック」を編集して、カセットで聞いていた。「夜の歌」やプロコフィエフの5番のフィナーレ、あるいはホロヴィッツの弾くリストとかだったと思うけど、危ないのはワーグナーのローエングリン「3幕への前奏曲」だ。

気がつくと、アクセルを踏んでしまうので最近は自重している。 >> 夜の首都高を1人で走りながら「モノ・コト・ネット」などについて考えてみる。の続きを読む



高校野球には殆ど関心がない。ずっと前からそうだ。特に理由はなく、毛嫌いしているわけではない。自分がいた高校に硬式野球部がなかったこともあるんだろうか。

まあ、そういう僕が知っている高校野球の話題というのは、相当凄い話なんだろう。早実の清宮選手の話題はその一つで、明日記者会見をして進路を表明する、という話なんかをさっき知った。

そして、ずっと気になっているのが彼の本塁打記録に関する表記だ。いつの間にか「高校野球史上最多とされる通算本塁打」という言い回しだ。

ううむ、なんかムズムズする。この違和感の正体は「とされる」だ。

「最多本塁打」ではなく「最多とされる本塁打」というのは、なんなのかというと、どうやら公式の記録があるわけでないことが理由のようだ。

これはネットで調べると同じようなことが書いてあるが、主催者の朝日新聞のサイトにもこう書かれている。

「高校生の通算本塁打数とは、公式戦と練習試合を合わせた本数になっている。チームのスコアブックで確認できる場合もあれば、記者の取材に選手自身が答えたものもあり、各都道府県の高校野球連盟が把握する公式の記録ではない。」

だから「とされる」が定着したんだろう。いつからかはわからない。ただ、いろいろな事情があって気がついたらこうなっていた。普通に「通算本塁打記録」と書けば、いろいろな意見が出てくることは想像できる。 >> 「高校野球史上最多とされる」に、ムズムズするんだけど。の続きを読む



バイエルン国立管弦楽団 特別演奏会 

指揮:キリル・ペトレンコ ピアノ:イゴール・レヴィット

2017年9月17日 東京文化会館 大ホール

ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 op.43/ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」より「愛の死」(アンコール)/マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調

 

演奏も鮮烈だったけれど、それ以上に印象的だったのがオーケストラの表情。

それって、「音楽の表情づけ」の話ではなくて、出演者の「顔」そのものがとても幸せそうだったということだ。

1階の8列目ということもあったけれど、フィナーレの最後に近づいたころ、トランペット奏者の顔が微笑んでいることにきづいた。ふと見ると、表情がほころんでいる奏者があちこちにいる。

管楽器奏者は笑いながら吹けないが、休んでいる時になぜか嬉しそうだ。終演後に指揮者が去り、コンサートマスターが帰るしぐさを見せると、弦楽器奏者はプルトの隣り同士でハグ。舞台も客席も、みんなが「幸せになるコンサート」だった。

そして、その幸せの源はペトレンコだったと思う。

指揮は時には相当大胆で、左手を「野球の3塁コーチ」のようにグルグル回したり、金管に向かって「両手で黒板拭き」のように振ることもある。

ベルリンフィルのデジタルコンサートホールで見ると、顔芸も相当だ。感情のうねりを最大に表現しながら、アンサンブルを破綻させることなくグイグイと進める。

ラトルのような主体性を引き出すおおらかさや、アバドのように憑依された凄さとも違う。いつも、自分が「音楽の真ん中にいる」という意味では、雰囲気や音作りは全く異なるけれど、ある意味カラヤンに近いのかもしれない。

ベルリンフィルの次期指揮者ということもあって、ついついそんな比較をしてしまうが、それはあまり意味がないだろう。

ペトレンコは、空間を共有する人を幸せにする「何か」を持っている。また1楽章の最後の方で、ホルンのゲシュトップをキッチリ鳴らすなど、スコアの読み込みもしっかりしている。「なにかしてくれる」期待感があるから、また聴きたくなる指揮者だ。

ただ、終わった時の興奮が揮発していくスピードが意外と速いようにも感じる。上野の山を降りる頃には、「どこがどうだったか」がスーッと消えていく。個人的にはヤンソンスやバレンボイムが「揮発が遅い」指揮者なんだけど、それは良しあしというよりもまさに個性なのだろう。

なお、ラフマニノフのあとにレヴィットが弾いた「トリスタンとイゾルデ」が、魂を抜かれるような演奏だった。このアンコールに唖然茫然とした人も、また多かったんじゃないだろうか。



渋谷がダメになっているという話は、なんとなくあちらこちらで聞く。

ちょうど先日、渋谷がいつの間にか「池袋化」している理由という文があった。「情報が消費される街」を「池袋化」というセンスについては、まあ人それぞれだと思うけど、書かれている分析はまあそうかなとは思う。

文化発信拠点の消滅、アパレルの衰退、鉄道延伸と並べてみると、結局はハードの変化に左右されてたのか?という気もする。

渋谷には、週に一度大学の非常勤講師の仕事で足を運ぶ。宮益坂の上だが、若い人はこの坂を上るのが苦手なのか、落ち着いた雰囲気だ。ちなみに、ここでいう「若い人」は中学生から20歳くらいまで、つまり「10代」である。

大学3年生以上は「センター街は勘弁してほしい」という。つまり、「なんとなくにぎやかな街」を求めて渋谷には行ったのだが、あの中心部の雰囲気はもう卒業したいという感じだろう。

20代半ばくらいの社会人と話すと、「渋谷はおいしい店がない」という。30代以降になると、神泉から松濤の方に行く人もいるが渋谷を遠巻きにしている感じだ。

そして、サッカーやハロウィンの「グチャグチャ」を見て、「何だかなあ」と嘆いている人はたしかに多い。

ただ、最近気づいたんだけど、実は「渋谷がダメになった」わけじゃなく、またそれは若い人のせいでもないんじゃないかと思う。 >> 渋谷は「ダメになった」わけでもないし、若い人のせいでもないと思うわけ。の続きを読む