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企業の評価というのは、多面的になされるものだと思うし絶対的な尺度があるわけではない。たとえばいまオリンパスは大問題になっているけれど、その商品の価値までが否定されるか?というとそういうわけではないよね。
だから、就職の相談を受ければその個人との相性なども含めて具体的にアドバイスすることもあるけれど、講義ではあまり特定の企業の問題点を掘り下げるよりも、メディア・ビジネスの構造について理解してもらうことにしている。
ただ、ここまで騒ぎになると気になると思うので、今日はちょうど先日訴訟のあった件について見てみよう。
(スクリーンで記事とプレスリリースを紹介)
「DeNAがゲーム制作会社に圧力をかけた」ということで、10億以上の損害があったということだ。もちろん、DeNAは反論するだろうし、どちらに理があるかはこれだけの情報ではわからない。
ただし、1つの疑問と仮説を立てることができる。
競合どうしが、有力パートナーを「囲い込もう」と競い合うのは以前からよくあることだ。かつてのゲーム業界もそうだった。ただし、どうして訴訟までするのか。
それが、疑問。
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世の中には稚拙な議論が溢れていて、ネット上ではそれがテキスト化されるのだが、僕はいちいち突っ込まない。ただし、あまりにも議論の前提がひどい場合には、やはり書かないわけにはいかない。特に、キャリアについての議論となればなおさらだ。
錦織圭や石川遼はマックでバイトしない--「大学に行かない若者」と接してというエントリーをたまたま目にして思ったことを手短に書いておきたい。
誰だって自分にとって理想の仕事や生き方がある。ただし、他の人の生き方には敬意を払ってほしいと思う。卑下してほしくない。
それだけのことだ。
この文章を読むと、どうやらマックジョブは「解放されるべきもの」らしいけど、それはマックジョブを「不本意なもの」として行っている人の価値観だということだ。
だから、人それぞれだから別にいいという考えもあるだろう。
ただし、世の中には自分の能力を最大限に発揮することで、そうした作業をおこない対価を得て生活している人もいる。そうした人にとって、マックジョブの仕事は目いっぱいのものであり、決して努力していないわけではない。
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大学でも企業でも、マーケティングのレクチャをする場合はたいてい人口の話から入る。
国内市場の話が多いので、当然少子高齢化や人口減少に関するデータを見せることからスタートしていくことが多い。
別にマーケティングの世界に関わらず日本の人口問題で話題になるのは、出生率である。これが1.2~1.4辺りで推移していることはよくニュースになる。
しかし、僕が気にしているのは率ではなく「出生数」である。なぜなら、市場の規模を規定するのは人の「数」だからだ。大規模な戦争や疫病のない限り、2011年に生まれた105万人(厚労省推計)が作る市場はかなり先まで見通すことができる。
そして、2011年生まれが減ることはあっても「2011年生まれが増える」ことはない。(移民政策が変更されない前提で)6年後のランドセル需要も、20年後の成人数もある程度読めるわけだ。
そして、出生数という絶対値を調べると意外な風景が見えてくる。
第一次ベビーブーマーはピークが270万人ほどで、第二次でも210万ほどだ。そこから比べると近年の「100万人+」という数字はたしかに少ないように思える。しかし、これを国際比較で見ると意外なことがわかってくるのだ。
2つの表を見ていただきたい。出所は国連のデータ(2009年だがこれが最新のよう)である。出生数を国別に上位から並べると、まずトップがインドで2700万弱、ついて中国が1800万強。1000万超はこの2カ国で、以下、ナイジェリア、パキスタン、米国と続き、日本は25位である。そして、その次からは100万人以下となる。(ちなみに同年の厚労省データでは出生は107万人である。経緯は現時点で不明だが論旨に大きく影響しないのでこの数字を使う)
さて、ここでは中間を略したが出生数の多いのは、概して新興国である。そこで、G8だけで抜き出してみると、別の風景が見える。日本の出生数は、米国、ロシアの次になるのだ。(それにしても先進国でこれだけ出生数が多いことに米国の底力を感じる)。
このデータはいろんなことを示唆している。
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言葉づかいの中でも敬語というのは日本語固有の問題なんだろうけど、最近気になっていて、多くの人が指摘しているのにあまり変化がないのが「過剰敬語」だ。僕の記憶では、このことを「かえって失礼」とハッキリ指摘していたのは、詩人の大岡信だった。もう20年くらい前ではないだろうか。「こだわり」というのも、広告コピーのせいで「いい意味」になってしまった、という話を書いていたりもした。
「それではご説明させていただきたいと思います」
これは「説明申し上げます」くらいで十分だと思う。過剰敬語だと大事なプレゼンテーションで、何か勢いがそがれるように感じるのだ。
最近、面白いなと思うのがフェイスブック内の言葉づかいで「シェアさせていただきます」というフレーズ。直接知らない人からの、情報だとこういう言葉になるんだろう。ある意味、人と人との距離感が素直に出ている気もする。
「シェア!」
「シェアします」
「シェアさせてください」
「シェアさせていただきます」
「シェアさせていただきたいと思います」
「シェアさせていただきたいと存じますがよろしかったでしょうか」
などというように、フェイスブック内でも距離感は微妙に使い分けられていくのだろうか。
そういえば中華料理の店などで大皿で料理が出てくると、店員が「こちらでおとりわけいたしましょうか」とか言うことがある。
「それではシェアさせていただきます」
もし、そんな言い方をしたら、その人はきっとフェイスブックユーザーに違いない。
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近所にあるワインバーで、大変いい店なのだが一つ困ったことがある。お手洗いに入ると、どのセンサーがどう働くのか「G線上のアリア」が鳴るのである。酔いが覚めるというか、回るというか。
そして、ふと思い出した。それは、1995年1月20日の東京文化会館。冒頭に演奏されたのは、プログラムにはなかったバッハの管弦楽組曲第3番より"アリア"。つまり「G線上のアリア」である。
この曲に先立って、舞台に登場した小澤征爾が客席に振り向いた。
「先の震災で亡くなった方々のために、バッハのアリアを捧げます」
この時の客席の空気感を伝えることは難しい。演奏が進むにつれて、心なしかすすり泣きも聞こえた気がする。最後の余韻が消え去っても、誰も拍手をしない。一度、袖に戻った小澤征爾が再度登場して、タクトを振りおろす。
誰もが知っている、あの動機。そう、この日の一曲目はベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調。いわゆる「運命」だったのだ。
そして、バッハの曲とベートーヴェンのシンフォニーはあたかも一つの曲のようだった。小澤征爾の演奏を聴いた中でも、この日の印象は大変に強い。阪神大震災の直後、ということも影響していることはもちろんだが。
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