トヨタの豊田章男社長が、米国バブソン大学卒業式でおこなったスピーチが話題になっている。卒業生として、かつ世界を代表する企業のCEOとして何を話すのかと気になったけれど、多くの人が指摘しているようにスピーチとしての骨格から、ちょっとしたジョークにいたるまで、たしかによくできている。

ライターはいると思うけれど、「自分の言葉」で話しているかどうかは、誰が見てもすぐわかるだろう。

で、この動画を学生に見せようと思って見直して気づいたのだけれど、「コミュニケーションの基本」にとても忠実であることにきづいた。

その基本とは何かというと、「SHARE=分かち合い」だ。どんな流暢なプレゼンテーションでも、対象者と「共有する何か」がなければコミュニケーションは成立しない。コミュニケーションを「伝えること」と定義している辞書は多いが、それならtransmissionでもいいだろう >> 豊田章男氏の「ドーナツ」スピーチが、構造的に優れているなと思った理由。の続きを読む



(2019年6月24日)

カテゴリ:広告など

10年以上大学でマーケティングやメディアの科目を担当しているので、毎回メディア接触についての簡単なアンケートをしている。それほど厳密ではないけど、100人以上対象なので、だいたいの世の中の流れを反映している、というか半歩以上先を行ってる感じかな。

ここ3年くらいだと、時々は「ラジオ」を聴く、という人が少し増えてきて、とはいえ全体の5%くらいだけど、ひと頃は当たり前にゼロだったんで、やや目立つのである。

が、「ラジオ」は聴くけれど、「ラジオ」というものを見たことがない人が多い。

つまり、スマートフォンで「勝手に放送を流してくれるアプリ」がラジオなのだ。

そうなると、文系学生に周波数の概念を教えるのが難しい。ラジオをチューニングしたことがないのに、テレビが超短波とか言っても通じない。一頃は携帯の帯域でGHzとかMHzとか言ってたこともあったが、いま「ギガ」といえば通信容量のギガバイトだし、そもそも「昔のAMは10KHz単位だったのを移行したんだよな」とか、同世代の友人にも通じなかった。調べたら1978年だったけど。

まあ、それはいいんだけど、考えてみればいま自宅で見てるテレビも「どこから放送が来てるか」よくわかってないことに気づいた。集合住宅だから壁のアンテナ端子に差し込めば、地上波もBSもCSも見られるけど、たしか地上波はケーブル経由だったのか?BSやCSは共同受信のアンテナだと思うけど、どこにあるのか見たこともない。

つまり、いま見てるコンテンツが放送か通信かはもうどうでもよくなっていて、年代を問わず、自分にとって何となく面白いものに接していて、その多くは動画だったりする。

そういえば「マスかネットか」のように対立的に語られることもなくなった。あと、「インタラクティブ」という言葉も聞かなくなってきて、ある時期は広告会社の組織名でも結構みかけたけど。

ネットメディアが誕生したころは、マスメディアに対しての対抗心も強く、だから「マスにはできない」ことにフォーカスして「インタラクティブ」のような概念も大切だった。ただし、勃興期の通信環境では、できることがあまりに少なかった。

その後4Gの時代になり、気がついたら「すべてがマスになる」ような状態だ。Youtubeでも、Netflixでも地上波テレビでも「見たら見っぱなし」で、次の面白いものを探す。そして、SNSでは「皆が見たものを見なくちゃ」となる。2時間の映画も5秒のネコ動画も、「等価」と言っては言い過ぎかもしれないけど、見ている方のアタマの中では序列は薄くなってるだろう。

週末の雨の日は2時間の映画を見て、通勤時の隙間時間にはネコ動画。どっちもヒマつぶしの選択肢で、あとはヒマ度合いでコンテンツが決まる。

見る方はそれでいいとして、広告はどうなるんだろう。この流れに個人情報へのアクセスを制限する傾向が加わると、結局はマス広告の時代のように量的パワーで決まっていくのか。『新記号論』が鋭く指摘した「模倣と感染」がさらに真実味を増していくようにも思う。

ちょっと話はそれるけど、今秋オープンする渋谷スクランブルスクエアで「デジタルサイネージ実証実験」がおこなわれている。
これをどう見るか、「ビッグブラザー」とか思うのか、それだと歳がバレる気もするけど、全体としてどこか「パワー広告の時代」に回帰していくような感覚もある。

いずれにせよ広告を「媒体別」で捉えるのは、業界の事情に過ぎない。そして、本当に「生活者視点」でメディアプランを考えたら、どうなるのか。

後代の歴史の本には、「あらゆるプレイヤーが入り乱れて戦った“メディア統一大戦”がありました」、と書かれるんじゃないだろうか。

 



最近大学で中国からの留学生とみっちり話す機会があるんだけど、ちょっと困ったことがある。

カタカナだ。

もちろん彼らは日本語をしっかり学んでいる。しかし、外来語の場合、元の発音とかけ離れていることも多く、かえって理解の妨げになったり、遠回りになることも多い。

tomatoがトマトで、pastaがパスタだったりするのは、「そういうもの」として覚えるし、smart phoneが「スマホ」でも、それはそれで1つの「日本語」ということでどうにかなる。「パソコン」もそう。

でも、「カスタマー・エクスペリエンス」とかになると、困る。experienceという英語を知っているのだが、それは「エクスペリエンス」という音で認識されてるわけではない。

そうなると、英語のexperienceはカタカナで「エクスペリエンス」であり、日本語は「経験」です、ということになるんだけど、何か伝えるのに手間がかかり、すごく不合理な気がする。

だから、こういう時は「顧客体験」と言って、英語を脇に書いてあげる方が話が早い。

ただ、「クラウド・コンピューティング」となると、該当する日本語もない上に、カタカナで「クラウド」というのは、cloudかcrowdか両方ともあるわけで、コンピューティングなら前者で、ファンディングなら後者になる。

もう最初から英語で書いてあげた方が、中国人には話が早いのだ。

カタカナというのは、おもに外来語表記にあてられるわけで、もちろん便利な面はある。ただ、そのカタカナ言葉というのは不完全なもので、そのまま発音しても通じないし、むしろ英語などを学ぶ際にマイナスになるよなあ、とは感じてる人も多いと思う。

ただ、これだけ色んな国の人とコミュニケーションすることが多くなり、日本語中心の環境で暮らす海外出身の人が増えると、もう一から見直した方がいいのかも。

カタカナのもたらす妙な作用は他にもあって、それは4年前に日本が頑張ったラグビーワルドカップの時に感じた。普段ラグビーを見ない人は、日本代表に海外出身の選手が多いことに驚いたり、時には違和感を感じたという人の声も聞いた。

ただ、日本のメディアで見た時と、英語の放送やサイトで見た時は相当印象が異なることに気づいた。アルファベットだけの表記だと、まあ出身国がどのあたりかは何となくわかるが、明らかに「違います」という感じはしない。

ところが、日本語だと「カタカナの選手」ということで、あまりにもわかりやすく記号化されちゃうのだ。

カタカナというのは、「内と外」を区別してしまう作用があるわけで、カタカナに罪はないけれど、何かモヤモヤすることがすごく増えてきた。というか、「なんか変だけど便利だし」という感じで使われてるとすれば、これは使う側の「未必の故意」のような気もして、やっぱりある種の罪ではないか。

できることとしては、まず英語で新しい言葉が入ってきたら、まずはメディアが英語で書いた方がいいだろう。少なくてもカナと併記するとか。そうなると、縦書きということ自体が問題になるんだろうな。

いま僕は新聞を電子版で読んでるので英語併記も読みやすいけど、、今後はビジネス書なども横書きにした方がいいんじゃないか?とかカタカナのことを考えると、これは日本人の思考の話にまで広がっていくように思う。

しかし、2種類の表音文字って、当たり前のように使っているけど、海外の人は学ぶの大変だろうなあ。しかも「ドラえもん」みたいな落とし穴もあるし。

 



まずは、広告業界の昔話をしてみたい。

かつて、マス広告が全盛でクリエイターがアーティストのように振る舞っていたい頃、広告は「読解され、解釈される」ものだった。というか、一部の業界人がいろいろ後付けの理屈を言って、便乗した学者がコメントして小遣い稼ぎをしていた。

その時の、武器が「記号論」というものだった。別に広告の仕事をしていなくても、1980年に大学生活を送った人で、ちょっとアカデミックなことをかじってみたなら何らかの影響を受けていたと思う。

だから、広告の分析も色々と大変だったりした。

画面にワイングラスが映る。どうやら屋外のようだ。すると、これは「開放感」の象徴であると「読み解く」のだ。日中のようだから、これは昼から飲む「背徳感」かもしれない。しかも晴れていなくて「曇り空」だ。

2つのグラスが映り、どうやら男女のカップルだが、男の指だけに指環が見える。そして、ますます「背徳感」が強調されている。そして、足元には猫の姿。一方で、遠くから芝生の上を犬が走っている。

ネコは思うがままに生きる自由の象徴だが、一方でイヌは正当性の象徴で、ワインの品質は保証される。つまり優れた品質であるが、そのスタイルは顧客に委ねられていて、まさにポストモダンの生活を描いている。

なんてことを大真面目にやっていたんだけど、実は単にロケの日の天気が悪くて、モデルが指環を外し忘れていただけだったりする。しかも、宣伝部の担当が猫好きだったけど、直前に部長が犬を飼っていることが判明して慌ててカットに加えていたりしても、一生懸命「読み解き」をしていたのだ。 >> メディアや広告の仕事してるなら、『新記号論』は気になると思うよ。の続きを読む



明日から連休が始り、その間に即位と改元がある。で、気がつくとあちらこちらに「さようなら平成」とか「ありがとう平成」という言葉が溢れている。なんか変な気がするんだけど、何が変だかうまく言えない。

ああ、そうか。もうかなり前になるけれど、オリンピックの時に「感動をありがとう」が増殖し始めた頃の感覚に似ているのか。長野オリンピックの頃だと思うけれど、視聴者が「おめでとう」ではなく、「ありがとう」というメッセージを寄せるようになった。

選手としてみれば、そこで祝福ではなく感謝を受けたことになるんだけど、これは発話者つまり視聴者が、選手の物語を「自分の物語」に無意識のうちに変えちゃったんだと思う。

「おかげでチカラをもらいました」という発想は、謙虚なようでいてよく考えると自己中心的な感じもしないではない。

という理屈はその時の話で、ただ、今回の「ありがとう」はそれとも違うだろう。そして、「こんにちは令和」「ようこそ令和」「よろしく令和」などの言葉も飛び交っている。

あ、そうか。これって元号も擬人化されちゃったのか。というか「キャラ化」だ。

こういうのは、その多くが広告絡みのキャンペーンだったりするんだけど、まあ流通を中心にしていわゆる「年末年始」の手法だろう。干支みたいな扱いなのかもしれない。

まあ、何となく理解はできても個人的にはやっぱり変なんだけど、そんなこと言っても仕方ない。とにかく休みだ。元号が何になっても、好きなことするぞ。

で、一応自分だったら「平成」に対して何と言うんだろう?と考えてみた。「ありがとう」は違うんだけど、「お疲れさま」でもないし。

まあ、平成という時代に対していろいろ言う人はいるけど、自分的には結構楽しい30年だったし、ポジティブには捉えられるわけで、まあこんな感じかな。

「よくやった、平成!」

さあ、連休だ。皆さま、よい休暇を。