(2018年6月13日)

カテゴリ:世の中いろいろ

ワールドカップが、1週間後に迫っている。昨日は勝ったけれど、ではそれでグッと盛り上がっている感じはしない。なんというか、「始まる前から後味が悪い」という奇妙な感覚になっている。

もちろんサッカーファンにとっては「そんなことはない」のだろうけれど、「フツーの人」の関心は移ろいやすい。開幕したら、それなりに賑やかになる可能性はあるけれど。

やはり、前監督の解任から「なんか変な感じ」が漂っているんだろが、その後もどこか妙な空気がある。

でも、それはプレーではなくメディアから漏れてくる「言葉」が関係しているように思うのだ。

本田がNHKの番組でこう言ったとか、長友がツイッターで挑発的なことを言ったとか、その内容は素人が見ていても「いい感じ」にはほど遠い。

考えてみると、最近のスポーツの話題は、「競技の外」であることも目立つ。どちらかというと、「言葉」をめぐる騒動だ。

日大のアメフトをめぐる話も、プレーそのものよりも「記者会見で何を言ったか」「どんな指示があったのか」ということに焦点が当たっていた。考えてみれば、昨秋からの大相撲の騒動もそうだ。言葉の応酬が続いたけど、いったい何が問題だったのか、よくわからないままに終わってしまった。

その、「言葉の格闘」はSNSを通じてだれでも参戦できる。

羽生弓弦や大谷翔平の活躍には、称賛の言葉が連なる。ところが称賛の語彙は多くない。だからみんな同じ言葉を連ねることになるし、言葉よりも拍手を送りたい気持ちになるだろう。 >> スポーツと言葉。の続きを読む



「フィデリオ」が終わった。

といっても、普通の人には良く分からないかもしれないが、新国立劇場で上演されたベートーヴェンの「フィデリオ」というオペラの演出が大胆というか奇抜というか、日本のオペラ村ではああだこうだと盛り上がったのだった。

計5回の公演は結構客の入りも良かったけれど、仮に満席でも延べ一万人弱くらいなんだから、やっぱり村な感じだ。そして、この村はいろいろと口うるさい人も多い。

そもそも、フィデリオというのは突っ込みどころの多いオペラだ。ベートーヴェンも相当悩んだのか、序曲だけでもたくさんある。で、内容はいたって単純。

とある悪人の不正を暴こうとした男は無実の罪で刑務所暮らし。そこに男装した妻が忍び込んで看守のもとで働き、地下牢の夫と再会。悪の総統に見つかり殺されかかるところで、正義の大臣が到着して「お裁き」となりめでたしめでたし。

思ったより、簡単に書けた。しかし、ベートーヴェンというのは、作劇が苦手なのだろう。最初の序曲から30分くらいの歌は、いわば「現状説明」だ。話が前に進まない。その上、全体として「私はこう思う」という歌がやたらと多い。何かに似ているかというと「第九」のような感じだ。 >> 新国立「フィデリオ」とクラシックの憂鬱。の続きを読む



皆が関心を持っているようで、実は関心を持ち続ける人は少ない。それが「雇用」にまつわる話だ。

じゃあ、どう言う時に関心を持つのかというと「就職が厳しい」とか「仕事を失う」というような時だけ、注目される。10年ほど前の金融危機の時も大騒ぎだった。そして、最近だと「AIで仕事がなくなる」というテーマは関心を惹く。でも、まずは自分の職種を探して「ああ、そうか」と焦ったり安心して、そのままになる。

で、この本はそうした話をきちんと分析して、ちゃんと見通してくれる。やっと多面的な視点からのいい本が出て来たなと思う。著者は、人事・雇用については第一線のプロフェッショナルだ。

まず、野村総研やマッキンゼー、そしてオックスフォードのフレイ&オズボーンの「予測」についてバッサリと斬っている。代替可能性だけに注目してコストを考慮していない、などという論点を研究者とともに明快に説明してくれる。

ただ、それだけではなくて現場に根ざした議論が続くのがとてもいい。しかも、それは「普通の仕事」の未来だ。いわゆる営業職や事務職、そして回転寿司の現場まで、さまざま現場の実情からAIの可能性と限界を考える。

そして、日本固有の事情、つまり人口や就労構造を踏まえた上でこれからの見通しを見ていく。それも「15年」と限定しているので、地に足のついた話を知ることができる。外国人労働者の雇用をめぐる話など、日本における状況をちゃんと見ているわけで、実はそうした議論をまとめて論じたものはなかなかなかった。

というのも「仕事とAI」をめぐる議論は、どうしても気宇壮大になる。それは、「仕事がなくなる」というレベルではなく、「機会が仕事をする未来」に人間が生きている意味を問われるからだ。 >> 地に足のついたリアル~「AIで仕事がなくなる」論のウソ【書評】の続きを読む



人にとっての、年齢の「節目」はどこにあるのか。

大体の人は、30とか40とかキリのいい数字を思い出すかもしれないし、十進法の呪縛みたいなものとしては、そんな感じだろうか。年男・年女とかもあるけど、まあ10歳刻みなんだろうな。

そんな中で、最近気になるのが「50歳」という節目だ。連載していた記事の関係もあるんだけど、自分自身はもうとっくに超えていて、来年には半ばとなる、

一方で、40代の人との違いも意識するんだけど、それは当人同士の違いというより「親の年の違い」が大きいんじゃないかと感じるようになった。

たとえば、固定電話やファクシミリがまだそれなりに健在だったり、現金主義だったりするのを、「電子化すればいいだろ」と思うのは僕もよくわかる。実際に、自分でそれほど使うわけではない。

ただし、80を超える自分の親世代のことを思い起こすと「そうは言ってもな」という感覚になる。パソコンや携帯も使っているようでいて、どこかに「壁」があるのだ。この辺りの感覚などは、40代の人だとちょっと違うかもしれない。

もっと、大きな差は「親を送ったかどうか」ではないだろうか。同世代と話すと、既にどちらかの親を亡くしているいる人が多い。既婚者で「それぞれの親4人が元気」ということは稀だ。僕の場合は、48歳で父を送っている。

この経験は、大きい。「次は自分の番」であることを否応なく突きつけられる。そして、残った親の老いを目の当たりにしながら、答えのない自問をする。 >> 40代と50代の違いは、「親の年齢の違い」なのだとも思う。の続きを読む



昨秋、萩に行った。細かく書くと、出雲から温泉津に回り、津和野から萩へ。その後山口市から、宇部へ抜けて帰ってきた。

天候に恵まれて楽しく過ごしたのだが、萩の町ではやっぱり「萩焼」が気になる。

焼き物にとりわけ関心があるわけでもないのだけれど、ついつい買ってしまうことも多い。西の方では、以前出雲の出西窯の工房に行った。そうだ、その頃はちょうど出雲大社が葺き替えだったので、今回はちょっとしたリターンマッチでもあったのだ。

ただし、何といっても萩焼だ。あちらこちらに店がある。良し悪しはわからないけど、まず城など観光の中心にあるような店で何となく相場をつかむ。ただし、ズラ~ッと並んでいるのを見るほど、どうすればいか分からない。

というわけで、今度は街なかを丁寧に歩いてみる。萩は昔ながらの街並みが残っていてそれが観光資源になっている。萩焼の店もあるのだけれど、今度はいろんな意味で手が出しにくい。

有名な先生の「作品」になってくるので、価格も高い。高くても自分の目に自信があればいいけれど、皆目見当もつかない。しゃれた店もあって、デザイン的にも大胆なものも扱われていて、なぜか、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」が店内に響いている。やはり、退散した方がいいような気になってしまう。

もうあきらめようかと思っていたのだが、前日クルマを走らせながら裏道の店を幾つか頭に入れていたので、そこを回っていくと「オッ?」と思う店があった。どことなく、佇まいが凛としている。とある窯の店なので、いろいろ並べている所とは空気感が違う。 >> 萩焼の茶碗、しかも「鬼萩」のご飯はおいしいよ。の続きを読む