特に大きなニュースもない日曜の午後に、こんなニュースの見出しがあってついつい読んでみた。

「メルセデス」と呼んで、のワケ 音声認識もしない「ベンツ」呼称は変わるのか?

ああ、まだこのことでいろいろと悩んでいたのか、と思った。

「まだ」というのは訳があって、これは販売者にとっては昔からの問題だからだ。

そして、昔々、元号が昭和といっていた頃ベンツは「ベンツ」だった。そこには、ちょっとした羨望とそれなりの畏怖、さらには畏怖どころか若干の恐怖要素もあり、それでも「最善か無か」と、クルマの頂点に立っていた。

その頃はヤナセという商社が一手に扱っていたのだが、ちょうど平成という時代になる頃に本社が直接日本市場の攻略に乗り出し、新たなマーケティング施策をおこなう。

そして、「メルセデスの嘘」というキャッチコピーでキャンペーンを行ったりした。

いま、こんなフレーズで広告をやったら「排ガス不正かよ」とツッコまれそうだけど、これは「メルセデス・ベンツに対する先入観を取っ払ってほしい、という思いで書かれた。

つまり、企業が嘘をついているのではなく、世間の情報は真実ですか?という話なんだけど、このタグラインはもちろん「ベンツ」ではなく「メルセデス」だ。

というわけで、「メルセデスと呼んで欲しい」というのは、平成時代の悲願だったと思うのだけど、この記事は読むとまだまだ浸透していないのかもしれない。

もっとも、自動車雑誌などではそうした意向を先取りしたか忖度したのか、「メルセデス」と書き、一部の評論家は「メルツェデス」とかわざわざおっしゃられるという微笑ましい時代もあったが、気がついてみると、世間ではまだまだベンツなんだなあ、と先の記事を読んでしみじみ思った。

でも、メルセデスと呼んでもらえるんだろうか?というとちょっと難しいかもしれないと思う。 >> 「メルセデスと呼んでほしい」が、大変そうだなあと思う理由。の続きを読む



(2019年6月30日)

カテゴリ:見聞きした
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トリトン晴れた海のオーケストラ 第6回演奏会ベートーヴェン・チクルスⅢ   
2019年6月29日(土) 14:00 第一生命ホール

ベートーヴェン:交響曲 第4番 変ロ長調 Op.60/交響曲 第7番 イ長調 Op.92

世界中にいろいろなオーケストラがあって、それをランキングすることに意味はないと思うけれど、それでも自分に「これだけはいま聴いておきたい」というオケはあるわけで、この「晴れた海のオーケストラ」もその1つだ。

敢えて言えば、いま日本で1番イキイキしていて、スリリングで、しかも最高に考え抜いた上で演奏しているオーケストラだと思う。だから、ランキングに意味はないと言いつつ、「日本一!」と言いたくなってしまう。

都響の矢部達哉氏をリーダーとしたオーケストラで、指揮者はいない。しかし、「指揮者がいない」こと自体からとは思わない。このオケが素晴らしいのは、演奏後に「あ、ベートヴェンってすごい!」と、心から思えることなのだ。

そして、しばらくすると「20人の弦楽器でここまで鳴るのか」とか、「こんなにもいろんな声部がクッキリ聴こえるのか」といろいろ感心するのだが、やはりそれも「曲がすごいんだ」というところに一周して戻ってくる。

考えてみると、クラシックのコンサートを聴いた後の感想というのは、殆どが「演奏家に対する賛辞(時に恨み言)」だと思う。それは、昔ながらの新聞評もそうだし、終演後のTwitterだって、同じような感じだ。

僕もコンサートを選ぶときは、まず出演者を気にする。誰が来日するとか、誰かと誰かが共演するとか。

でも、音楽を聴き始めた頃は違った気がする。まず、聴いてみたい曲を追っていたはずだ。もちろんそういうニーズはいまだってあるから「名曲コンサート」が存在する。ところが、経験を重ねるほど、「曲を聴く」よりも「演奏家を聴く」ようになってしまっているんじゃないか。

どっちがいいとか悪いとかではないんだけれど、「晴れオケ」を聴くと、演奏家はとても澄んだ存在で、それはこそ晴れた海のように透明で、その奥から曲が姿を現してくる。

そういう感覚になることができるコンサートってとても貴重だと思うし、しかしそれが「再現する」ことの本質なんだと思う。

ちなみに、7番は1楽章から2楽章、3楽章からフィナーレがそれぞれアタッカで演奏された。つまり、大きく二部構成のように聴こえるのだけれど、そう思うと2楽章がたっぷりと歌われたことも納得できる。

ベートーヴェンは、あと2回を残すのみ。このオケは東京の宝だと思う。

 



トヨタの豊田章男社長が、米国バブソン大学卒業式でおこなったスピーチが話題になっている。卒業生として、かつ世界を代表する企業のCEOとして何を話すのかと気になったけれど、多くの人が指摘しているようにスピーチとしての骨格から、ちょっとしたジョークにいたるまで、たしかによくできている。

ライターはいると思うけれど、「自分の言葉」で話しているかどうかは、誰が見てもすぐわかるだろう。

で、この動画を学生に見せようと思って見直して気づいたのだけれど、「コミュニケーションの基本」にとても忠実であることにきづいた。

その基本とは何かというと、「SHARE=分かち合い」だ。どんな流暢なプレゼンテーションでも、対象者と「共有する何か」がなければコミュニケーションは成立しない。コミュニケーションを「伝えること」と定義している辞書は多いが、それならtransmissionでもいいだろう >> 豊田章男氏の「ドーナツ」スピーチが、構造的に優れているなと思った理由。の続きを読む



(2019年6月24日)

カテゴリ:広告など

10年以上大学でマーケティングやメディアの科目を担当しているので、毎回メディア接触についての簡単なアンケートをしている。それほど厳密ではないけど、100人以上対象なので、だいたいの世の中の流れを反映している、というか半歩以上先を行ってる感じかな。

ここ3年くらいだと、時々は「ラジオ」を聴く、という人が少し増えてきて、とはいえ全体の5%くらいだけど、ひと頃は当たり前にゼロだったんで、やや目立つのである。

が、「ラジオ」は聴くけれど、「ラジオ」というものを見たことがない人が多い。

つまり、スマートフォンで「勝手に放送を流してくれるアプリ」がラジオなのだ。

そうなると、文系学生に周波数の概念を教えるのが難しい。ラジオをチューニングしたことがないのに、テレビが超短波とか言っても通じない。一頃は携帯の帯域でGHzとかMHzとか言ってたこともあったが、いま「ギガ」といえば通信容量のギガバイトだし、そもそも「昔のAMは10KHz単位だったのを移行したんだよな」とか、同世代の友人にも通じなかった。調べたら1978年だったけど。

まあ、それはいいんだけど、考えてみればいま自宅で見てるテレビも「どこから放送が来てるか」よくわかってないことに気づいた。集合住宅だから壁のアンテナ端子に差し込めば、地上波もBSもCSも見られるけど、たしか地上波はケーブル経由だったのか?BSやCSは共同受信のアンテナだと思うけど、どこにあるのか見たこともない。

つまり、いま見てるコンテンツが放送か通信かはもうどうでもよくなっていて、年代を問わず、自分にとって何となく面白いものに接していて、その多くは動画だったりする。

そういえば「マスかネットか」のように対立的に語られることもなくなった。あと、「インタラクティブ」という言葉も聞かなくなってきて、ある時期は広告会社の組織名でも結構みかけたけど。

ネットメディアが誕生したころは、マスメディアに対しての対抗心も強く、だから「マスにはできない」ことにフォーカスして「インタラクティブ」のような概念も大切だった。ただし、勃興期の通信環境では、できることがあまりに少なかった。

その後4Gの時代になり、気がついたら「すべてがマスになる」ような状態だ。Youtubeでも、Netflixでも地上波テレビでも「見たら見っぱなし」で、次の面白いものを探す。そして、SNSでは「皆が見たものを見なくちゃ」となる。2時間の映画も5秒のネコ動画も、「等価」と言っては言い過ぎかもしれないけど、見ている方のアタマの中では序列は薄くなってるだろう。

週末の雨の日は2時間の映画を見て、通勤時の隙間時間にはネコ動画。どっちもヒマつぶしの選択肢で、あとはヒマ度合いでコンテンツが決まる。

見る方はそれでいいとして、広告はどうなるんだろう。この流れに個人情報へのアクセスを制限する傾向が加わると、結局はマス広告の時代のように量的パワーで決まっていくのか。『新記号論』が鋭く指摘した「模倣と感染」がさらに真実味を増していくようにも思う。

ちょっと話はそれるけど、今秋オープンする渋谷スクランブルスクエアで「デジタルサイネージ実証実験」がおこなわれている。
これをどう見るか、「ビッグブラザー」とか思うのか、それだと歳がバレる気もするけど、全体としてどこか「パワー広告の時代」に回帰していくような感覚もある。

いずれにせよ広告を「媒体別」で捉えるのは、業界の事情に過ぎない。そして、本当に「生活者視点」でメディアプランを考えたら、どうなるのか。

後代の歴史の本には、「あらゆるプレイヤーが入り乱れて戦った“メディア統一大戦”がありました」、と書かれるんじゃないだろうか。

 



最近大学で中国からの留学生とみっちり話す機会があるんだけど、ちょっと困ったことがある。

カタカナだ。

もちろん彼らは日本語をしっかり学んでいる。しかし、外来語の場合、元の発音とかけ離れていることも多く、かえって理解の妨げになったり、遠回りになることも多い。

tomatoがトマトで、pastaがパスタだったりするのは、「そういうもの」として覚えるし、smart phoneが「スマホ」でも、それはそれで1つの「日本語」ということでどうにかなる。「パソコン」もそう。

でも、「カスタマー・エクスペリエンス」とかになると、困る。experienceという英語を知っているのだが、それは「エクスペリエンス」という音で認識されてるわけではない。

そうなると、英語のexperienceはカタカナで「エクスペリエンス」であり、日本語は「経験」です、ということになるんだけど、何か伝えるのに手間がかかり、すごく不合理な気がする。

だから、こういう時は「顧客体験」と言って、英語を脇に書いてあげる方が話が早い。

ただ、「クラウド・コンピューティング」となると、該当する日本語もない上に、カタカナで「クラウド」というのは、cloudかcrowdか両方ともあるわけで、コンピューティングなら前者で、ファンディングなら後者になる。

もう最初から英語で書いてあげた方が、中国人には話が早いのだ。

カタカナというのは、おもに外来語表記にあてられるわけで、もちろん便利な面はある。ただ、そのカタカナ言葉というのは不完全なもので、そのまま発音しても通じないし、むしろ英語などを学ぶ際にマイナスになるよなあ、とは感じてる人も多いと思う。

ただ、これだけ色んな国の人とコミュニケーションすることが多くなり、日本語中心の環境で暮らす海外出身の人が増えると、もう一から見直した方がいいのかも。

カタカナのもたらす妙な作用は他にもあって、それは4年前に日本が頑張ったラグビーワルドカップの時に感じた。普段ラグビーを見ない人は、日本代表に海外出身の選手が多いことに驚いたり、時には違和感を感じたという人の声も聞いた。

ただ、日本のメディアで見た時と、英語の放送やサイトで見た時は相当印象が異なることに気づいた。アルファベットだけの表記だと、まあ出身国がどのあたりかは何となくわかるが、明らかに「違います」という感じはしない。

ところが、日本語だと「カタカナの選手」ということで、あまりにもわかりやすく記号化されちゃうのだ。

カタカナというのは、「内と外」を区別してしまう作用があるわけで、カタカナに罪はないけれど、何かモヤモヤすることがすごく増えてきた。というか、「なんか変だけど便利だし」という感じで使われてるとすれば、これは使う側の「未必の故意」のような気もして、やっぱりある種の罪ではないか。

できることとしては、まず英語で新しい言葉が入ってきたら、まずはメディアが英語で書いた方がいいだろう。少なくてもカナと併記するとか。そうなると、縦書きということ自体が問題になるんだろうな。

いま僕は新聞を電子版で読んでるので英語併記も読みやすいけど、、今後はビジネス書なども横書きにした方がいいんじゃないか?とかカタカナのことを考えると、これは日本人の思考の話にまで広がっていくように思う。

しかし、2種類の表音文字って、当たり前のように使っているけど、海外の人は学ぶの大変だろうなあ。しかも「ドラえもん」みたいな落とし穴もあるし。