2014年01月アーカイブ

kindleを使い始めて一年あまりが経った。どうなったかというと、とりあえず小説については「kindle化されているものから読む」ようになっている。
なぜ、電子書籍にしたいのかというと最大の理由は置き場所だ。数千冊の本が自宅にあって、さらにそれ以上の本を置くため、近所にトランクルームを借りている。本を保管するためにこれ以上コストをかけたくはないのだ。
kindleのpaper whiteを購入したのは一昨年の12月で、その直後に休暇で海外に行った。プールサイドに持っていったら、両側の西洋人が二人ともkindleを持っていたことが印象的だ。
で、本を読む上で紙と比べて何ら困らないかというとそうではない。「小説については」と書いたけれど、ある程度難しい専門書や学術書だと、やっぱり紙がいいように感じる。
僕の感覚でいうと、電子書籍の最大の欠点は、「ページをガバッとめくれないこと」なのだ。
あと付箋やアンダーラインに該当する機能もあるが、これだって紙の方が遥かに使いやすい。本を書くときなどの、参照・引用する場合のことを考えると、やはり紙というのは相当によくできているなあと思った。紙の本がなくなるというのも早計だと感じる。



chji

都知事選の最初の記憶は、1971年だ。小学校2年になる頃なのになぜ覚えているかというと、選挙戦が派手なイメージ選挙だったからだ。美濃部陣営は「青空バッジ」をシンボルにしていて、たしか対抗馬の秦野章も他のデザインのバッジを配ったように思う。
この辺りは、たしか「三色バッジ」だったか少々記憶が怪しいのだが、いまにして思うと米国大統領選のようなやり方を日本の選挙に持ち込んだ初めてのケースだと思う。
続く75年はよく覚えているが、石原慎太郎が挑んで敗れた。この辺りの経緯は沢木耕太郎の「馬車は走る」で後に読むことになる。
中学校の卒業式の頃が次の都知事選で、鈴木俊一という、とても地味な人が出ていて、何だかつまらなかった感じがしたことも覚えている。
こうやって都知事選を、その投票率とともに振り返ってみると、幾つかのことがわかる。
まず、出馬した現職が敗れるということはない。
毎回派手な騒ぎになるけれど、一度なった知事は強い。その結果、再選されれば三期以上務めている
そして、何だかんだいって保守が強い。
1995年の青島幸男の当選がまだ記憶にあると、「何かが起きる」というイメージがあるかもしれないが、意外と「普通の選挙」なのである。
また投票率を見ると、50%を挟んでうろうろしている。青島知事の時も「無党派が動いた」というより、低投票率の中で相対的に勝ったような感じだ。前回は衆院選に重なったので例外的だと思う
つまり、メディアの騒ぎが先行する割に都民は結構覚めている。今回など、「投票したい」という他道府県の人も多いだろうし、そういう人から見ると「棄権なんてもったいない」と思うかもしれないが、まあ、それが東京人なのだ。
このあたりは、東京都民の妙なインサイトがあると思う。

 



(2014年1月21日)

カテゴリ:見聞きした
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abbado最近、facebookを見ると誰かが亡くなっていた、ということが多い。
昨夜帰宅した時、アバドは世を去っていた。友人が写真に、R.I.P.と一言。ニュースサイトを見て、訃報を確認した。80歳だった。
アバドは、僕たちの世代にとっては「同時代感」のある作曲家だった。30も歳の離れた親世代に「同時代感」を感じるのは妙に思われるかもしれない。
ただし、クラシックとりわけ指揮者というのは、40そこそこで「新進気鋭」などと言われる世界で、80を過ぎてなおかつ現役の方もいる。つまり、自分たちがクラシックに触れて、オーケストラに参加した頃、まさに颯爽と楽壇を賑わせていたのがアバドだった。
カラヤンはおりしも没後25年で、享年もアバドとほぼ同じ。つなり、アバドが親世代であり、カラヤンは祖父の世代になる。
多くの録音があり、また来日も多かった。ただし、音楽に触れた頃のディスク、特にシカゴ響を振ったマーラーの録音が一番思い出深いし、演奏としても素晴らしいと思う。大学で一緒にマーラーを演奏した同世代に友人たちが、今朝のfacebookで同じことを書いていた。
当時輸入盤のレコードは、ちょっと大げさだが二枚組の箱に入っていて、恭しく針を落とした記憶がある。
もっとも、彼のマーラーに”狂気”が足りないとか、退屈だという評も見かける。ただ、実際に演奏してスコアを見ればわかるが、マーラーは極めて精緻な書き込みをしていて、それを”狂っているかのように”演奏するのが、一時の流行だったということではないだろうか。そして、マーラーの音楽を「明らかにしてしまった」のがアバドだった。
それを「退屈」と評するなら、それは、その人自身が退屈な人なのだ。仕方ない。
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(2014年1月14日)

カテゴリ:雑記

yakanここに書くのは年明け初めてだが、いきなり私事から。
さる11日に50歳になった。だからどうした、と言われればそれまでだが、十進法の魔力というのはたしかにあって、しかも50となるといろいろ考える。
昨秋に、ふと家の「やかん」が気になった。まだ使えるのだけれど、さすがにそろそろかな、という感じにもなったのだ。思い出すと、これを買ったのは社会人になってしばらくして一人暮らしをした時。つまり四半世紀を数えたことになる。
ということは、と考えてちょっと愕然とした。やかんで、「愕然」とは大げさかもしれないけれど、次に買うやかんを同じくらい使うと、自分は75歳。
もしかすると、次に買うやかんは「人生最後のやかん」になるやもしれない。
このことである。
いや、池波正太郎を再読してるので文が変になった。まあ、やかんの耐用年数もさまざまだろうけど、今後は買い物ひとつとっても「人生最後」になる可能性がジンワリと現実になったわけだ。
そんなことを昨秋に気づいてから、50歳というのは、単なる10進法の区切りでもない気がしていた。一つには人間の世代が3周目に入るということもある。信長ではないが「人生五十年」が普通だった時代は、子どもが一人前になって次の世代が生まれるのが大体50歳くらい。
つまり、ここを超えれば爺さん・婆さんになるのだから、昔の感覚なら50以降はほぼ「余生」といっても大袈裟ではないのだろう。
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